第2話 先生、無言がすぎます!
――見渡す限り、風にうねる草原。
道なき道は、ただ緑に飲まれていく。
足元の草は伸び放題で、膝に絡みつくたび、足がとられる。
しかも、どこまで行っても同じ景色。変化がない。
何かが、じわじわと、少しずつ狂っていく気がする。
背後には誰の気配もないはずなのに、
風に揺れる草の音が、誰かの囁き声みたいに聞こえてくる。
空は晴れてるのに、色が薄い。
記憶の中の風景みたいで、今が朝なのか夕方なのかもわからない
時間の感覚が、少しずつ溶けていく。
……あたし、本当に前に進んでるのかな。
もしかして、ぐるぐる回ってるだけなんじゃないかな。
そんな不安が、胸の奥でじわじわ広がっていく。
「……ねえ、先生」
返事はない。
それでも、聞こえてるのはわかってる。
さっきからずっと、あたしの言葉には応えないくせに、
立ち止まれば少し歩を緩めるし、
道を間違えそうになると、無言で方向を示してくる。
魔術師の先生は、きっと――
無視してるんじゃなくて、無言で済むことは全部、無言で済ませようとしてるんだ。
わざとじゃないって、わかってる。
だって、悪意も嫌悪も一切感じないから。
話しかければ、必要なときには答えてくれる人だってことも。
それでも、どうしようもなく不安になる。
いまはなんでもなくても、そのうちまた「重い」って思われるかもしれない。
「邪魔だ」って、見捨てられる可能性だってある。
シアは、もうあたしの声に応えてくれない。
まるで他人みたいに、冷たい光を灯しているだけ。
あたし、いま……たぶん、崖っぷちだ。
これ以上、誰かに冷たくされたら――もう立ち直れないかもしれない。
なのに先生は、やっぱり何も言わない。
気にしてるようで、気にしてないような……
この曖昧な距離感が、いちばんつらい。
無言の背中が、ただの沈黙じゃなくて、拒絶に見えてしまう。
だから、つい――
「それにしたって、無言がすぎる!!」
声が跳ね上がった。思ったよりも、ずっと大きな叫び声。
すぐ前を歩いていた先生は、振り向かない。
けれど、その肩がわずかに揺れた。
風のせいかとも思ったけど――違う。絶対に聞こえてた。
「べ、別に怒ってるわけじゃなくて!」
慌てて声を重ねる。足も、つられて早足になっていた。
「……ちょっと、こう……寂しいっていうか……その、怖いというか」
声はどんどん小さくなっていく。
自分でも、何を言ってるのかわからない。
でも、黙ってたら……いまにも消えてしまいそうで。
「だってあたし、初めてなんだよ。こんな旅」
「どうしてここに来たのかもわかんない。
わかんないことばっかりで……」
誰も教えてくれない。
そもそも、自分でも思い出せない。
ここは――忘却の庭。
時が迷い、記憶がやせ細る境界の地。
足を踏み入れると、一つだけ、大切な記憶を失うって――先生が言ってた。
どうして、あたしはそんな場所に来たんだろう。
たぶん、あたしはそれを忘れてしまったんだろう。
こんな場所で、よくわからない魔術師と、よくわからない旅をしてる。
でも、いちばんこたえるのは――
「シアが……あたしを見てくれないのが、こんなに心細いなんて」
胸元に下げた《灯》――シア。今はただ、誰のものでもないみたいに静かに光っている。
淡く灯る光は、草原の中で唯一の“暖色”。
進むべき道を、静かに指し示している。
……魂の気配は、今も感じる。
なんかこう、浮かれてる?
そんな雰囲気の、あたたかい光。
シアは、先生が好きなんだよね?
先生をみていられて、嬉しいの?
――あたしも、嬉しいよ。
先生は結局、シアを取り上げなかったから。
今も、こうして一緒に旅をしていられる。
だけどシアは、あたしには無反応で。
光ってるのだって、先生が命じたからで、あたしの声には何ひとつ応えない。
……だから、寂しいんだ。
「先生も、無言がすぎる……」
ぽつりとつぶやいた、その瞬間だった。
先生が、ふいに立ち止まる。
思わず、あたしも慌てて足を止めた。
数歩分、距離が縮まっている。心臓が、少し跳ねた。
「……ついてくる気があるなら、足元くらい見ておけ」
ようやく聞こえた声は、冷たく、低く、鋭い。
「――え?」
あたしのすぐ目の前。草むらに隠れるように、小さな地割れが走っていた。
……気づかず踏み込んでたら、確実に足を取られてた。
「そ、それ、さっきのあたしの話……聞いてたってことですか?」
「あの距離だ、普通に聞こえるだろ」
「うわ、ほんとに聞いてたんだ!」
無言すぎるくせに、ちゃんと聞いてる。
しかも、ちゃんと止めてくれる。
……なんだろう、ちょっと、嬉しいかもしれない。
「ねえ先生、もう一個聞いてもいい?」
「……」
無視。
でも、あたしはめげない。
「趣味って、ある?」
ぴたりと先生の足が止まる。
えっ、なんで止まるの!? そんな地雷だった!?
「……ない」
たった一言。
でも、それだけで、胸がふっと軽くなる。
「ないんだ!」
なんだか、安心した。
無愛想だけど、ちゃんと“返ってくる”んだ。超・時差で。
先生は、名前も教えてくれなかった。
聞いたのに、無言で流された。
でも、そのとき思ったんだ――この人、すごく“先生っぽい”なって。
教えてくれるときはちゃんと教えてくれるし、何も言わなくても守ってくれる。
たぶん、これからもずっとこんな調子なんだろうなって。
だから勝手に、“先生”って呼ぶことにした。
「そっか、趣味ないのか……。
じゃあ、旅の目的は? どこに向かってるの?」
「北西。忘離の鈴の保管場所だ」
目的地、出た!
すごい、ちょっとずつ会話が成立してる!
「……道中、魔獣とか出ます?」
「出る」
「おお、即答!」
先生はそっぽを向いたまま歩き出す。
でも、歩幅が……ちょっとだけ、あたしに合わせてくれてる気がした。
気のせいかもしれない。
けど――
この旅、もしかして。
ほんのすこしだけ、会話ができるかもしれない。
そう思ったら、不安も恐怖も、ちょっとだけ遠のいた。
……と思ったのも、つかの間。
「……なんか、音、しない?」
草がざわめくのとは違う、何かが這うような――そんな音が。
次の瞬間、あたしは足を止めていた。