第2話 先生、無言がすぎます!
地図にも記されぬ《境界の地》。
この地に足を踏み入れた者は、
ひとつだけ大切な記憶を失うという。
名前。
顔。
誓い。
あるいは――愛のかたち。
多くの者が、それに気づかないまま、
この地に溶けていった。
けれど、その中心には、
“救い”が眠っている。
それが、
《忘離の鈴》
古の賢者が、
「痛みを忘れるため」に造り出した魔術具。
「痛みとともに歩く者が、最後に鳴らす」と
伝えられる鈴。
記憶に疲れ、
心が限界に達した者に、
静かな終わりをもたらすという。
……エリセもまた、
その鈴を求めてこの地に来た。
失った恋の痛みを、
あの夜の絶望を――
すべて忘れたくて。
けれど、《灯》に導かれ、
境界の霧を越えたその瞬間、
彼女の中から
“この地を目指した理由”は、
跡形もなく溶け落ちた。
それでも彼女は歩いていた。
まるで、忘れた記憶に
呼ばれるように――。
見渡す限り、風にうねる草原。
道なき道は、
ただ緑に飲まれていく。
膝まで伸びた草が足に絡み、
前へ進むたび靴が埋まる。
どこまで行っても、
景色が変わらない。
時間の感覚が薄れて、
朝か夕かもわからない。
(……なんか、変だ)
じわじわと胸に不安が広がる中、
あたしは前を歩く無言の男に声をかけた。
「……ねえ、先生」
返事はない。
それでも彼は、
きっと聞いている……気がする。
立ち止まれば歩幅を合わせ、
道を誤りそうになると無言で示してくれる。
だから――無視してるんじゃなくて、
たぶん無言で済むことは
無言で済ませたい人なんだと思う。
(……そう思いたいだけ、
かもしれないけど)
だって、悪意は感じない。
嫌われてるわけじゃない。
話しかけたら、
必要なときにはちゃんと答えてくれる人――
たぶん。
——でも、それってどうよ。
ひたすら不安なだけなんだけどっ!!!
今は何も思ってなくても、
そのうちまた「重い」とか、
「邪魔だ」って置いてかれる
可能性だってある。
《灯》は、
もうあたしの声に応えてくれない。
先生も何も言わない。
無言の背中が、
拒絶に見えてしまう。
だから、つい――
「それにしたって、無言がすぎる!!」
思わず叫んでいた。
自分でもびっくりするくらい、
声が大きく跳ねた。
すぐ前を歩いていた先生は、
振り向かない。
けれど、肩がわずかに揺れた。
「べ、別に怒ってるわけじゃなくて!」
慌てて声を重ねる。
足もつられて早足になる。
「……ちょっと、こう……
寂しいっていうか……
その、怖いというか」
声はどんどん小さくなる。
「だってあたし、
此処がどんなところか分からないし、
どうしてここに来たのかもわかんない。
頼りの魔術具は反応しないし……」
ここは、あたしが住んでいた「層」とずれていて、
踏み入れたら一つだけ
大切な記憶を失う境界にある土地。
たぶん、あたしが忘れたのは、
“どうしてここに来たのか”。
……まぁ、失恋の自暴自棄で、
突っ走った感じはする。
胸元に下げた《灯》は、
今ただ誰のものでもないみたいに、
静かに光っていた。
先生はあの後、
《灯》を返してくれた。
でも、その光は、
あたしの声には応えない。
歩くのに困らないように
周囲を照らしているのも、
先生が命じたからだ。
――それは、とても寂しかった。
「先生は、無言がすぎるし……」
ぽつりとつぶやいた、その瞬間だった。
先生が、ふいに立ち止まる。
あたしも反射的に、足が止まった。
数歩分、距離が縮まって、
心臓が、少し跳ねた。
「……ついてくる気があるなら、
足元くらい見ておけ」
ようやく聞こえた声は、
冷たく、低く、鋭い。
「――え?」
足元。
草むらの陰に、
少し深い地割れが走っていた。
……気づかず踏み込んでたら、
確実に足を取られてた。
「そ、それ、さっきのあたしの話……
聞いてたってことですか?」
「この距離だ、
普通に聞こえるだろ」
「うわ、ほんとに聞いてたんだ!」
無言すぎるくせに、
ちゃんと聞いてる。
そして、ちゃんと止めてくれる。
……ちょっと、嬉しいかもしれない。
そのとき、ふと目に入った
先生の横顔。
思ったより整っている。
無愛想で冷たい印象と少し違う。
不思議と、
心の緊張がふっと緩んだ。
(……顔って、
ちょっとだけ加点になるのかも)
自然と、もっと知りたくなる。
「ねえ先生、趣味ってある?」
ぴたりと先生の足が止まる。
えっ、なんで止まるの!?
そんな地雷だった!?
「……ない」
たった一言。
でも、それだけで、
胸がふっと軽くなる。
無愛想だけど、
ちゃんと“返ってくる”。
超・時差あるけど!
少し会話ができただけで、
ぐっと距離が縮まった気がする。
「じゃあ、彼女いる?」
……言った瞬間、心臓が跳ねる。
あ、やば。
今の絶対いらなかったやつ!?
先生は一度、深いため息をついた。
空虚な目で遠くを見つめるように、
少しだけ視線を漂わせたあと、
ようやく口を開く。
「……必要、ないな」
……必要ない?
え、ちょっと待って。
それじゃあ、
ちゃんと恋愛の育て方を
学べないじゃん。
でも、ふと思う。
恋人がいなくても、
先生に守られたり、
距離感を感じたりするだけで、
あたしは“上手に愛される”ことくらいは、
学べるかもしれない。
そんなふうに思って、
少しだけ心が軽くなった。
結局、名前は教えてもらえなかったけれど――
この人、やっぱり
“先生”って呼ぶのがしっくりくる。
教えてくれるときはちゃんと教えてくれるし、
何も言わなくても守ってくれる。
だから勝手に、
“先生”って呼ぶことにした。
「じゃあ最後に!
旅の目的は?
どこに向かってるの?」
「北西。
魔術具の保管場所だ」
目的地、出た!
すごい。
ちょっとずつ会話が成立してる!
「……魔術具、か」
記憶の底に、
何か冷たい鈴の音が、
響いたような気がした。
なぜだろう。
どこかで、ずっとそれを、
探していたような気がした。
「……あたし、前にそこに
行ったことあるのかな」
思わず口にすると、
先生が一瞬だけこちらを見た。
けれど何も言わずに、
また歩き出す。
その横顔が、
わずかに陰を帯びて見えた。
けれど、それはたぶん、
あたしの心がざわついたせい。
「……道中、魔獣とか出ます?」
「出る」
「おお、即答!」
先生はそっぽを向いたまま歩き出す。
でも、その歩幅は――
さっきより、少しだけ、
あたしに合っていた。
気のせいかもしれない。
けど――
けど、もしかしたら――
この旅、ほんのすこしだけ、
“会話”ができるかもしれない。
そう思ったら、
胸の奥の不安も恐怖も、
ちょっとだけ遠のいた。
風が静かに揺れる。
草の匂い。
そんな穏やかさの中――
「……なんか、音、しない?」
草がざわめくのとは違う、
何かが這うような音。
不穏な予感に、
あたしは足を止めた。
静寂のなかに――
かすかに、
唸り声のようなものが混じっていた。




