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第17話 先生のローブ、やたら落ち着くんですけど!?

「思った通り相性が悪いな」

 

エリセの背後。

霧の帳の向こう、白銀の花に靴音を立てて現れたのは、先生だった。

 

静かに谷を見回す。

 

「花粉が風に乗り始めた。幻覚濃度が上がってる」


亡霊の形をとった“彼”たちが、その輪に切られることはない。

だが、花の群れの向こう、霧の陰に“それ”はいた。

 

――(うごめ)く肢体、甲殻に覆われた異形。

《感情の抜け殻たち》ではない。

実体を持ち、谷の霧に隠れて這い寄る捕食者。

 

目だけが異様に膨らみ、暗い空にぎらぎらと浮かび上がっていた。

四つ脚。膨れた腹。

粘膜質の背に、白銀の花がいくつも咲いている。

幻覚に沈む者を、喰らうために進化した“掃除屋”のような存在だ。

双刃の輪(シグナスリング)》は、そいつの足に命中し、砕いていた。

 

「……感情の抜け殻は、すぐには襲ってこない」

先生が、静かに言った。

「だが“あれ”は別だ。――霧に溺れた魂を餌にして、生きてる」

 

エリセの視線の先。

“それ”は、ぐしゃり、と花を踏みつけて進んでくる。

ゆらりと、霧の中から現れた異形は、まるで目だけで笑っているかのようだった。

 

先生の声は静かだった。

その目が、研ぎ澄まされた刃そのものになる。

 

もう一つの輪を投げる。

螺旋を描きながら飛翔し、敵の背に着弾。

爆ぜるように展開し、捕縛の刃が深く喰い込んだ。

 

「混乱付与、成功。拘束、3秒」

先生は寸分の狂いもなく敵の動きを予測していた。

うずくまったエリセの傍まで一気に駆け寄り、腕を引く。

 

「……立て。ここで寝るな」

「う……ん、先生……?」

「吸いすぎたな。鼻から血が出てる」

「ちょ……ちょっと、耳元でそんな……」

 

先生は短く息を吐いた。

そして躊躇なく、自分のローブの前を開いて、ぐいっとエリセの頭を押し込む。

 

「いいから、目を閉じて深呼吸。三回だけだ」

「へっ……!? ちょ、なに、えっ……っ」

 

柔らかくも乾いた布越しに、先生の体温と衣服に染みついた香りが混ざる。

暗く、ぬくもりのある空間に包まれて、エリセの呼吸が少しずつ整っていく。

 

ほのかに香るのは、乾いた木の匂い。

サンダルウッド……かな?

まるで深い森の奥で、風に吹かれながら目を閉じているような――そんな錯覚を呼び起こす。

 

手袋越しに額へ当てられた手が、震える熱をそっと押さえてくれる。

不器用だけど、確かで、絶対に見失わないという意思を感じさせる力だった。

 

ローブの中に包まれたぬるい空気。

花粉の粒が肌をなぞるようにまとわりついてくるのを、エリセの皮膚がぼんやりと感じ取っていた。

まるで霧に溺れているみたいだ、とエリセは思った。

 

けれど、先生の手が離れると同時に、空気が変わる。

――ぴん、と。

張り詰めるような風が走った。

 

再び《双刃の輪(シグナスリング)》の輪が飛ぶ。

今度は敵の動きを断ち切るように鋭く、風を切る音が谷に響く。

霧が裂ける。

異形が、低く咆哮を上げた。

 

音が空間に共鳴し、花粉の霧が舞い上がる。

月明かりに照らされて、白銀の靄が宙を漂い――

その中心で、先生の投擲が闇を切り裂く。

 

輪は正確無比に敵の喉元を捉え、

咲きかけた背中の花芽ごと断ち切った。

 

ぶしゅう、と音を立てて、異形はもがくように崩れ落ちる。

こめかみの奥が、まだ幻覚の余韻で軋んでいたけれど――

それでも、先生の一撃は確かに、現実を切り開いていた。

 

「……あの数と濃度。普通の谷なら、二人で入る場所じゃない」

静かに言いながら、宙で何かを引き戻す動作をすると、

先生の中指にある指輪へ小さな光の環となった《双刃の輪(シグナスリング)》が吸い込まれていく。

 

「行くぞ」

「……うん」

 

幻覚はまだ残っている。

でも、先生の言葉が、現実を引き戻してくれた。

 

谷の奥からは、誰かの声がかすかに響いてくる。

それが幻か現かは、もうどうでもよかった。


今、彼女の足元にあるのは、冷たくぬかるむ泥と、重く漂う夜霧。

白銀の花粉が空を舞い、息を吸うだけで胸がざわめく。

 

それでも――

そこにあるのは、確かな「現実」だった。

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