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第16話 咲きほこる、地獄の谷で元カレ大増殖中

霧が地を這い、静寂が谷を支配する。

鳥も虫も風もいない。

音だけが、何かに吸い込まれるように消えていった。

 

「……っ」

 

背中をひやりと、何かがなぞった気がした。

振り返る。

 

誰もいない――はずだった。

けれどそこに、立っていた。

一人の男。

 

影のような灰色の輪郭で形づくられたそれは、けれど、見覚えがあった。

いや、忘れたくても、忘れられなかった顔だった。

 

「……エリセ……」

 

その声が、谷に染み込むように落ちた。

懐かしく、やわらかく。

でも確かに、もう二度と交わすことのないはずの――彼の声だった。

 

「……やだ……」

 

喉が詰まり、震える手で《灯》を握りしめる。

まちがいない。

目の前にいるそれは、彼の姿をしていた。

細い目も、少し癖のある髪も。

あのとき、去っていった夜と同じような、困ったような、でも優しげな笑みも。

 

「好きだったよ、俺……」

 

低い声が、ひとりごとのように響く。

 

「……好きだったよ。

 お前はいつも、全力で……

 俺だけ、見てくれてた。

 嬉しかった。ほんとに。

 でも――

 あれ、だんだん……息苦しくてさ……」

 

「やめて……それ、言わないで……」

 

エリセは顔を伏せ、耳をふさぎたくなった。

けれど手は《ランプ》を離せなかった。

 

「俺、お前の全部に応えられるほど強くなかったんだ。

 求められるたびに、自分が薄くなっていく気がして……

 こわかったんだよ」

 

「……ひどいよ……」

 

「うん、ごめん」

 

声に合わせて、谷の白い霧がふるえる。

まるでその言葉が、霧そのものを媒介にして生まれたようだった。

 

男の輪郭は次第に崩れ、ぼやけていく。

けれど、声だけは、なおも続いていた。

 

「俺には、無理だったんだよ。

 エリセみたいな子を、幸せにするなんて。

 ほんと、かわいかったけどさ……お前、重かったんだ」

 

その一言が、胸の奥の柔らかい場所に突き刺さる。

過去に、確かに言われた。

そしてそのとき、唯一そばにいてくれたのが、《ランプ》だった。

 

──あの時は。

 

「……っ」

こみあげてくる涙を、唇を噛んでなんとか堪える。

当時、初めて失恋の痛みを知った夜、ただ一人きりで泣いていた彼女の傍らで、

ランプ》は、小さく震えるようにしてあたたかい光を灯してくれた。

触れた手を優しく包み、心をなぞるように慰めてくれた。

 

だからこそ、今――

エリセは震える手で《ランプ》を握る。

けれど、その手の中は、ただ冷たい金属の感触があるだけだった。

何も……応えてはくれない。

 

ランプ》の奥に、かすかな熱はあった。

だが、それは慰めでも、共鳴でもない。

今、その熱は――

 

(先生の魔力に応じて、最低限の制御を保つためだけのもの……)

 

エリセの声にも、感情にも、《ランプ》は何も反応を返してくれない。

――当然だった。

ランプ》は、今はもう彼女の魔術具ではない。

 

ランプ》が応えていたのは、彼女ではない。

今もなお、その心は――彼のものだった。

だから今、たとえどれほど願っても、手の中にあるそれは、

彼女を守る光にはなってくれない。

エリセのもののようでいて、エリセのものではない――

それが、《ランプ》と彼女との、今の関係だった。

 

「……あ……」

音にならない声が、喉の奥からこぼれる。

逃げなきゃいけないのに。

振り払わなきゃいけないのに。

 

けれど、自分を守ってくれた《ランプ》さえ、もう何もしてくれない現実が、

彼の姿をした何かよりも、ずっと深く、エリセの足を縫いとめた。

 

(なんで……なんで、こんなときに限って……)

 

心の中で訴えても、《ランプ》は沈黙を守ったままだ。

 

「……エリセ、エリセ……エリセ……」

幾重にも重なる声が、霧の奥から滲み出してくる。

振り返った先には、すでにひとりではなかった。

 

無数の「彼」。

無数の「好きだった」と「ごめん」が、夜の谷を埋め尽くしていく。

 

「……好きだった」「ごめん」「好きだった」「でも無理だった」

 

耳元で、谷の底で、空中で――

 

愛の残滓が、エリセを囲むように繰り返す。

 

それは言葉ではなく、呪いのようだった。

 

――感情の抜け殻たち。

 

失われた“言えなかった想い”だけを残し、姿も心も、輪郭さえもない魂のくず。

それが、形を持って集まり出した。

 

「――エリセ」

 

声が、近くなった。

ぬるく、重い空気が肺にまとわりついて、吐く息すら鈍る。

あれほど注意されたはずの呼吸も、もう上手くできない。

 

息が、詰まる。

吸いたいのに、うまく吸えない。

胸がきしむ。喉が焼ける。

 

「……っ、は……っ、あ……」

 

浅い呼吸を繰り返すたびに、心臓が暴れているようだった。

頭がじんじんして、視界の端が暗く滲んでいく。

でも、声は止まらない。

耳元で、“彼”が何度もごめんと繰り返している。

 

――やめて。

 

エリセは、かすれた声でそう呟いた。

 

足が動かない。

重い。

 

地面が、まるで水を含んだ布のように、体を引きずり込もうとしていた。

 

花が揺れている。

風もないのに、揺れて、揺れて――

 

すぐそばにいたはずの先生の気配もわからない。

 

「こわい……の?」

 

彼の声が聞こえた。違う、…抜け殻の、彼の。

 

「ひとりになるのがこわい?

 でも、自分が壊れていくのはもっとこわい?」

 

「――やめてってば……!」

 

「大丈夫だよ。今度は、受け止めてあげる。

 ちゃんと、そばにいるから」

 

その瞬間、足元の花が一斉にざわりと揺れた。

音のない風が吹いたのだ。

霧のように、花粉が流れ込んでくる。

重たい空気に混ざって、静かに、だが確実に、視界を染め変えていく。

 

(ダメだ、これ……)

 

花粉の濃度が異常だ。

先生が言っていた。朝になれば、もっと酷くなるって。

でも、もうすでに幻覚が始まってる。

 

(これが…―ゆうしょうの谷…)

 

自分の心の底から、ずっと抑え込んでいた言葉や、

誰かに向けて言えなかった想いが、

花粉に混ざって滲み出してくるような――

 

「……来るなっ」

 

ふらつく体を必死に支えながら、《ランプ》を握りしめる。

けれど、踏み出そうとした足はもう感覚がなかった。

膝が、折れる。

 

崩れるその時――

 

「――やはり来たな」

 

その声は、凍った刃のように、幻覚の空気を裂いた。

 

――カラン。

 

乾いた金属の音が、耳を叩いた。

空気が裂けるような気配。

 

エリセのすぐ傍を、鋭い銀の輪が風を切って飛び抜け、幻の“彼”の首を貫いた。

貫かれた幻の“彼”はユラリと一瞬掻き消えるが、またすぐに変わらぬ姿で現れる。

 

輪はくるりと空中で弧を書き、まるで意思を持つように回転しながら戻ってくる。

銀に浮かぶ小さな文字。

魔術刻印が灯る、《双刃の輪(シグナスリング)》。

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