第15話 先生の危険地帯ガイド(予想を裏切らない不親切設計)
「そもそもさ~、あの幻覚を見せてくる花粉、先生なら何とかできるんじゃない?」
エリセは立ち上がりながら、訴えるように言った。
「空気を浄化するフィルターを組み込んだマスク作ったり、幻覚作用を打ち消す結界張ったりとか、風で魔術の壁作るとか!」
「無理だな。工具も素材もない」
先生はそっけなく、ばっさり切り捨てた。
立ち止まりもせず、まるで聞く価値すらなかったと言いたげな声だった。
「そもそも、なんでそこまで必死なんだ」
「人として! 理性は大事、何より大事って知ったからよ!」
エリセは胸を張って、力強く言い切った。
だが、その気迫に先生は肩をすくめ、小さく鼻で笑う。
「ほぉ……それだけ防毒を乞い願うなら、その魂から護符の一枚くらいなら作れるな。効果は一時は保つだろうよ。作ってやろうか?」
口元の片端だけがゆがみ、にやりと笑う。
「魂?」
エリセは数歩遅れて立ち止まり、眉をひそめる。
「それって、護符を作ったあと、あたしはどうなるの?」
「残るものがあると思うか?」
先生は軽く首を傾けて、さらりと続けた。
「魂を引き抜くと、体は溶けるな」
「却下!!!」
全力で叫ぶ。
「――あっぶないなぁ、もう!」
心の底からぞっとした。
出会った頃に見た、不穏のかたまりみたいな先生を、久しぶりに思い出す。
(先生、今日はやけに口数多いけど……なんか冷たいっていうより禍々しぃ?)
肩をすくめながら、エリセは手近な布を取り出し、鼻と口を覆った。
一応、二重にしたものの、たよりない。
けれど、やらないよりはマシ――そう思いたい。
夜の静けさが、ふたりのあいだにすっと流れ込む。
やがて、先生がぽつりと口を開いた。
「ここからだ。《幽咲の谷》に入る」
「霧と花粉で、五感も魔術感覚も鈍くなる。見え方も違うし、視覚はあてにならんぞ」
足を止めることなく、先生はただ淡々と告げる。
踏みしめるたび、紫や赤黒い花のあいだから、蛍光色の花粉がふわりと舞い上がった。
それが大気に溶けて、鼻をくすぐる。
先生が白い花を指さす。
「白は光の花だ。動物や魔物の気配すら覆い隠す。索敵はかなり困難になる」
「……ちょ、ちょっと待って、詳しすぎない? 先生、来たことあるの? こんな魔境……!」
「ずいぶん前だがな。その頃は《泣き花の渓》と呼ばれていた」
そう答えたあと、一拍置いて、先生はわずかにこちらを振り返る。
「花や霧も面倒だが――お前には《感情の抜け殻たち》の方が厄介かもしれん」
「……感情の、なに?」
ごくりと唾を飲む。
「忘却の庭に迷い込んだ者たちの亡霊を、ここでは《感情の抜け殻たち》と呼ぶ。
数が多いし、魔術にも一部耐性がある。どうにもできん。
接触すると、あいつらの“感情の残差”で凍らされる」
言葉が、乾いた地面に鋲を打ち込むように重たく響く。
「お前のような、感情の濃度が高い人間には、特に群がってくるんだ」
「ひぃっ……」
「呼びかけに応じるな。感情を揺らすな。混ざるぞ」
「こ、凍らされるのも、お仲間に混ぜてもらうのもお断りよっ! うぅ、う回できないの!? まわり道とか!」
「忘却の地は、幽咲の谷で分断されている。ここを通らずして、深部にはたどり着けん」
風が、どこからか甘くて、少し苦い花の香りを運んできた。
鼻をくすぐるその匂いに、背筋がぞわっとする。
「そんなに危ない場所ならさ……手前で野営して、明日、さささって突っ切る――ってのじゃ、ダメなの?」
肩の荷を持ち直しながら、顔をしかめて尋ねたあたしに、
足を緩めることなく、先生は前を向いたまま答える。
「今から入って、夜明けまでに抜ける。朝になると花が開いて、花粉の量が一気に増す。昼には、谷全体が霧に沈む」
「…………」
エリセは天を仰ぎ、崖から転げ落ちたような小さな声でつぶやいた。
「……ねぇそれ、谷じゃなくて……地獄じゃない?」
谷の空気はすでにぬるく湿っていて、月の光さえ白い花粉にかき消されている。
視界はぼやけ、道の輪郭もあいまいだった。
先生の瞳には、いつもの冷静さ以上の鋭さが宿っていた。
「覚えておけ」
低く、断ち切るような声。
「俺を見失った時は、下りろ。渡れ。登れ。
進める場所を進め」
少し間を置いてから、付け足すように言った。
「あきらめて戻るなら、風が来る方向へ進め。
夜明け前なら北東が風上だ、谷の外周に戻れる可能性が高い」
(斜面を下りて、谷底の川を渡って、向こう岸の斜面を登れ……ってこと?
行けそうな場所を、とにかく進めばいい……)
それは、「推奨進路」と「離脱ルート」。
選べる道は、たった二つだけ。
「……決定打、来たよ」
(この人、やっぱり口数多いとダメな人だ!)
エリセはそっと、ため息を吐いた。
ふと、腰に吊るした《灯》が、ゆっくりと瞬いた。
淡くあたたかな珊瑚色が、宵闇の中にふっと浮かぶ。
(……シア !?
あんたって子は、先生の“その不穏さ”に……ときめいてるってこと!?)
少し呆れたものの、握った手に力を込める。
軽口の裏で、エリセは心を決めていた。
斜面を、下りる。
川を渡って、谷底へ。
彼の言葉を頼りに、黙々と足を進める。
霧が濃くなってきた。
肌を撫でる空気が、どこか異様に冷たい。
(……なんか変な感じ)
辺りはもう、沈黙に呑まれていた。