第12話 カンガルー便で届いた猟奇事件
……え?
(んっ、んー!?)
ふがふがと唇を動かしてみても、口はまったく開かない。
声が出ない。
(ま、まって、本当にまって!?
サモンバニーの話、まだ半分もしてないのに!?
っていうか先生、そんなに興味なかったの!?
過去最凶レベルの無関心さじゃない!?)
目が滲む。先生を見る。けど、彼はあたしなんて見もしない。
――あ。
(……そっか、あたし、またやっちゃったんだ……)
泣きそうになる喉の奥で、声にならない後悔が広がる。
(しゃべれるようになったら……ちゃんと、謝らないと……)
先生はすでに背を向け、一歩、また一歩と歩き始めていた。
……そのとき。
ずんっ、ずんっ、と間の抜けた足音が後ろから近づいてくる。
振り返ったのは先生ではなく、あたし。
……だったんだけど、口が開かない。相変わらずぴったり封じられたまま。
ぴょこん。
茶色い生き物が飛び出してきた。
丸い耳。短い手足。でっぷりしたおなかと大きなしっぽ。
茶色い毛。短い前足。丸い目。
なつっこそうな顔をした、ぴょこぴょこ跳ねる――
カンガルーだった。
(なんで!?なんでカンガルー!?なんかちょっとかわいいし!?)
しかもそのカンガルー、口に封筒をくわえてぴょこたん、ぴょこたんと近づいてくる。
ぴっ、と差し出された白い封筒を、先生は無言で受け取り、封を切る。
その指先はいつものように落ち着いていて、しかしその顔には、かすかな――ほんのかすかな、見過ごすほどの――“ひきつり”があった。
(あれ……なんか、すごく嫌そうな顔してる……)
じっと見つめていたエリセは、思わず首を傾け、それから……こっそりと一歩、前ににじり寄る。
先生の肩越しにちらりと視線を滑らせ、封筒の中身をのぞいてしまった。
見てはいけないとはわかっていたけれど、だってあんな顔、見たことない。
そして目に飛び込んできたのは、あまりにもインパクトのある文字列。
“作った魔術具が暴走する。
イケメンを見ると発情して制御不能。調査・調律 求む”
(……は!?)
心の中でエリセが叫んだのとほぼ同時に、先生も口を開いた。
「……は?」
低く冷たい声が宙を裂く。
目元の筋肉がほんのり痙攣している。
先生はカンガルーを鋭く睨みつけ、次の瞬間、短く言い放った。
「出せ」
カンガルーが、こくりと頷く(ように見えた)あと、腹の袋から何かを引きずり出した。
ずる……ずる……、ずしん。
(え……?)
あたしは、目を疑った。
出てきたのは――
白い肌に、紅の刺青みたいな文様が浮かぶ、明らかに成人サイズの女性の身体だった。
汗に濡れてぬめっと光る肌。服は着ていない。
くせのない、カメリア色の長い髪が、濡れた肩から床へと流れ落ちている。
人形みたいにぐったりしていて、意識もなさそうだった。
(ちょ、ちょっと待って!?
いやいやいや! 入ってなかったでしょ!?
今のサイズ、ぜったい袋に入らないでしょ!?)
(ねえ、物理法則、どこいった!?)
ぞわっと、背筋に冷たいものが走る。
(こわ……っ! マジでこわ……!)
脳が現実を処理しきれず、思考がぐらぐらと揺れた。
でも――
でもでもでも、カンガルーは相変わらず、つぶらな瞳でこっちを見てくる。
お手々もちょこんとしてて、まるで「がんばったよ」って言いたげ。
(え……えええ……)
(可愛い……のに、怖い……いやでも、撫でたい……いや、やっぱこわ……)
ぐるぐると感情が渦を巻く。
だけど、声は出ない。口が開かない。
舌も喉も、誰かに縫い留められたみたいに、完全に沈黙していた。
先生は、無言でしゃがみこんだ。
ため息をひとつ。
そして、腰の後ろから――短いナイフを取り出す。
(……ん?)
なんで、ナイフ?
何するつもり?
あたしの胸がざわざわと泡立って、手足の力が抜けていく。
(……!?)
(まさか、そんな――!!)
止めなきゃ!
止めなきゃいけないのに!
動けない、声も……出ない!
ざく。
その刃は、迷いもなく――
女性の腹部へ。
ぐりっ、と。
子宮の位置に、深く、静かに突き立てられた。
(……うそ……でしょ……)
現実だなんて、どうしても思えなかった。
頭がついていかない。
心が、置き去りにされていく。
あたしは、息をすることすら忘れていた。
声が出せない。
叫べない。
質問もできない。
先生はため息をひとつついて、カンガルーに冷ややかな視線を落とし――
「知るか」
そうだけ言って、背を向けて歩き出した。
……でも。
あたしは立ち尽くしていた。
震える足。
冷たくなった手。
理解が追いつかない。
先生は数歩だけ進んでから、ふいに立ち止まる。
小さく、舌打ち。
そして――
戻ってきたかと思ったら、あたしの襟首をがし、と掴んで。
そのまま引きずるように、岩肌の道を戻っていく。
倒れた女性と、カンガルーを、その場に残したまま。
涙目で、声も出せずに、ただ連れていかれる。
あたしの魔術具たちは、今日も可愛い。
だけど――
先生の背中は、どうしても遠く感じた。
呼び止めることも、問いかけることもできない。
ただ、連れていかれる。
涙がこぼれても、喉はつまったまま。
冷たい手が、あたしの襟をつかんで。
その体温すら、感じられなかった。
(……先生って、ほんとうに何者なんだろう? )
こわい。
もう、何も、わからない――。