第10話 ぎゃっ、朝起きたら顔も手も真っ黒でした
夜はすっかり更けていた。
焚火のそばに座る男の膝の上には、いくつかの小石が置かれていた。
その一つ一つに、無言でナイフを走らせては、精緻な魔術式を刻み込んでいく。
細工のたびに、焚火の灯がかすかに揺れた。
夜番は交代制だった。
風の音さえ眠ったこの時間に、ただ炎の爆ぜる音だけが、規則的に耳を打つ。
少し離れた場所では、一人用のテントの中で少女が眠っている……はずだった。
「ぎ……ぎ、ぎぎゃあぁぁ……っ」
寝言とは思えぬ悲鳴に、男の手がぴたりと止まる。
「……うう……動けないよぉ……お尻、はさまった……」
目を覚ましたのではない。夢の中で、まだあの洞窟を彷徨っているらしい。
「ニョロが……!ニョニョロニョ……」
しばらく焚火の炎を見つめたまま、男は黙っていた。
けれど、叫び声はやがて泣き声に変わっていく。
「……置いてかないで……先生……」
しとしとと漏れるような嗚咽。
子どものように泣きじゃくる声が、夜に滲んでいく。
男は目を伏せ、静かに息をついた。
理由は問わなかった。問う必要もなかった。
ナイフと刻みかけの石を静かにしまう。
そして、焚火の熱を背に、ゆっくりと立ち上がった。
足音を立てぬよう、そっとテントに近づいて布をめくる。
中ではエリセが、毛布にくるまって小さく身を丸めていた。
涙の跡が頬に残っていて、指先は必死に誰かを探すように空を掻いている。
男は、その額に手を当てる。
体温を確かめ、意識が夢に沈んでいることを確認してから、手を離した。
焚火の傍から、一匹の小さな黒い蛇が、するりと男の足元へ這い寄ってくる。
まるで何かを渡すように、その口から、小さな炭片をひとつ、ぽとりと落とした。
男はそれを拾い、少女の掌に触れる。
そこに、短い符を描いた。
術式は単純なものだ。安眠と、夢の中での守護のためのもの。
火が消えるまでのあいだだけ、穏やかな夜を守る、ちっぽけな魔術。
「……置いていった覚えはないが」
誰にも聞こえない声で、ぽつりと呟いた。
そして、焚火へと戻っていく。
膝に小石をのせ、またナイフを手に取る。
夜は静かだ。
火の粉が舞い、魔術式の刻まれる音が、それに混じった。
焚火の音に混じって、布の擦れる気配がする。
「……んん……交代の時間……」
眠気と闘いながら、エリセがテントから這い出してくる。
髪は寝癖でふにゃふにゃ、目はまだ開いていない。
「ねむ……い……。目、目を覚まさなきゃ……」
ぐい、と手のひらでまぶたをこする。
それを何度か繰り返して、ようやく焚火の前に立ったそのとき――
男は無言で、彼女の顔をじっと見つめた。
ただし、少し……いや、だいぶ長い。
「え……? な、なに?」
きょとんとするエリセ。
男は何も言わず、立ち上がる。
そのまま、ゆっくりとテントへ向かい、無言で入っていった。
ばさり、と布が揺れて、静かになる。
……え?
え??
なんだったのいま??
エリセは焚火の光で、自分の掌を見下ろす。
真っ黒だった。
煤のような、炭のような跡。
そして、反射的に指先で触れた頬にも――
同じような黒い痕が、くっきりとついている。
「ぎゃっ!? 顔!? 顔も!? なんで!?」
彼女の叫び声が、深夜の静寂にこだました。
テントの中からは、何の返事もなかった。