②
小さな教会の中では、静かに葬儀が進められていた。
棺桶の中に、ひとりひとりが白い百合の花を添えていく。
通り過ぎる間際に別れの言葉を告げる者、悲しみのあまり涙しか出ない者、尊敬の意思を込めて黙祷する者、様々だ。
しかし、百合の花を添えるだけで通り過ぎる人の少なさから、クラウディアが村の人から愛されていたのが伝わる。
神父役の男性が、神への祈りと、これにより魂が天国で癒やされたことだろうと朗々と告げる。
残されたものたちは、その教えに縋り、亡くなった人が神の元で安らかであることを願うのだ。
そして最後に、死者の魂を受け入れる神への感謝を歌で示す。
さて、神父の合図ともに歌おうとするのを、とある老女が止めた。
「まぁまぁ、みなさん。聖歌は折角だからアンネリーゼに歌ってもらいましょう? きっと孫娘のクラウディアもそう望んでいるわ」
「グレタお祖母様……」
穏やかな声音と物腰は、どこか姉クラウディアを彷彿とさせたが、アンネリーゼの知る母方の祖母グレタの性格は陰険であった。
彼女の思惑として考えられるのは、ここで綺麗に歌い上げれば「姉の葬儀なのに舞台のように歌った品のない妹」として風潮され、嗚咽混じりに音程でも外せば「聖歌もろくに歌えない劇団歌手」とでも旅商人に吹聴するのだろう。
面倒くさいことこの上ない。
ここは穏やかにやり過ごすのが得策である。
しかしそう分かっていても、売られた喧嘩は買って投げ返すのがアンネリーゼの信条だった。
「グレタ《《お祖母様》》、聖歌は皆で神に感謝を示すためのものですよ。私だけで歌ってしまっては、私以外の感謝の気持ちが偉大な神に伝わりませんわ」
やんわりと聖歌がなんであるかを説き、アンネリーゼは、ですが、と言葉を覆す。
「ですが、皆様の気持ちも背負って歌に乗せるのであれば、生半な事はできません。私の持てる限りの声で歌わせて頂きます。少し、大仰な歌い方になるかもしれませんが皆様もそれでよろしいでしょうか?」
葬儀に集まった人たちを見渡し意思を問う。
これでアンネリーゼが村の人たちを慮って壮大に歌い上げた、という状況に持っていける。
また村人たちが皆で歌おうと言えば、それは村人たちがグレタの発言を諌める事となり、アンネリーゼには不利な要素が限りなく少なくなる。
グレタは自分の思う様な展開になっていないことを理解して、困った様に頬に手を当てる。
「あら……。私、貴女がクラウディアをとても大切に思ってたから、きっと自分の得意なことで何かしようとしてると思って……。気に触ったならごめんなさいね?」
遠回りに伝える言葉端から「気遣いに何そんなに怒ってるの?」と言いたげである。謝っているがチクチクとアンネリーゼの神経を逆撫でしつつ、周囲にこいつは小さい事で怒ってますよという印象を与えてくる。
この老獪なグレタを引っ叩きたくなる衝動を抑えるためにアンネリーゼは微笑みを保つ。
「まぁ、そうだったのですね。でしたら前から相談していただければ私も助かりますわ。自分だけの話ではないので、私以外の方も気にかけて頂けますと幸いです」
アンネリーゼとグレタの仲を知らない人は、そこはかとなく漂う険悪な雰囲気に戸惑い、この2人が折り合いが悪い事を知る人たちは自分たちに火の粉が飛んでこない事を祈りながら存在感を消す。
「まぁ俺はアンネに歌ってもらいたい。聖歌を歌えないし」
白い髭を撫でながらクライヴが助け舟を出す。
「俺も聞きたい。アンネはフェルスウィンに帰ってしまうのだろう? 俺も頻繁に街に行けるわけじゃないし、もしかしたら最後の機会だ。アンネの歌声を聴かせてほしい」
ハイネがそう言えば周りの人たちがざわついた。
「まぁ本当なの? てっきり私、この村に戻ってくるんだと思ってたわ」
「そう言えば街では、舞台に立って歌ってるんだっけ。…ずいぶん立派になったなぁ」
「それなら折角だし聞きましょうよ。フェルスウィンでも認められる歌声なんて聞いてみたいわ」
ざわめきは次第にアンネリーゼの歌声を希望する声に変わった。
村人の期待の声と眼差しに背中を押され、アンネリーゼは教壇の前に出た。
「では僭越ながら」
アンネリーゼがそう言うと、人のざわめきが水を打ったように静まり返った。
小さな教会の中で彼女がすっ、と息を吸う音すら聞こえる。
そして、ゆっくりとした旋律が始まる。教会の中に響き渡る滑らかな温かい日差しの様なソプラノボイスは、決して激しい声音ではないのに、まるで聞く者の胸の内を叩く衝撃を伴う。
彼女の歌声に魅了されたのは聴覚だけではない。声の振動は肌の触覚で、歌い上げるアンネリーゼの真摯な姿に視覚が惹きつけられてしまう。
誰もが目を逸らせない。1秒たりとも、アンネリーゼの旋律から逃れる事は出来なかった。
壮大に歌い上げながらアンネリーゼは過去を振り返る。
いつも後ろを振り返り私の手を引いて歩いてくれた最愛の姉の姿。
私が好き嫌いして食べないでいると困った様に笑う姿。
一緒に初めて作った料理は、そんなに美味しくなかったのが悔しくて泣きそうになっている私の隣で美味しそうに食べている姉の笑顔が、なにもかも全部が、好きだった。
そんな姉に、歌ってあげたかった。葬送の歌などではなく、姉が結婚する時に祝福を込めて、『おめでとう』の気持ちを込めて送り出したかった。
万感の思いが姿に現れる。
教会のステンドグラスから日差しが差し込む。美しい色彩の光がアンネリーゼを背後から照らす。薄紫色の髪が彩られ、ため息が出るほどその姿は美しかった。
多くの人は、呼吸も忘れ見惚れていたが、アンネリーゼが余韻を響かせながら歌い終わり、神に祈りを捧げる姿を見て誰かがポツリと呟いた。
「天使だ……」
その言葉に多くの人が無意識に頷く。
そして、祈り終えたアンネリーゼが顔を上げる。
「皆様、今日は姉の葬儀に駆けつけてくださり誠にありがとうございます。それでは最後のお別れをいたしましょう。……運ぶのを手伝っていただいてもよろしいですか?」
白い花で埋め尽くされた棺を閉じる。
村の男たちが棺を持ち上げ墓地まで運んでいく。その後ろを女や子供もたちが追う。そのさらに後ろにアンネリーゼとルーカスの姿があった。
「ルーカス、おいで」
葬儀の間ずっと静かに座っていたルーカスをアンネリーゼは抱き寄せる。
遠慮がちに、ルーカスはアンネリーゼを抱き返し嗚咽混じりに泣いていた。
この村の人たちはルーカスを徹底的に無視している。まるでそこに居ないかの様に。不純の罪の証に触れることすら悍ましいと言わんばかりだ。口に出さなくても態度には出る。幼心にそんな人々の悪意に晒され傷ついてきたのだろう。
自分の知らないところで苦心し続けていた家族を思えば、アンネリーゼの胸の内は引き裂かれそうだった。
村の中で存在感があり、事実的に村長の役割を担っていたクラウディアを排他するより、その子供を排除の目標にする卑劣さにアンネリーゼは嫌悪感で吐きそうだった。
この村はこんなに居心地が悪かったのか?
自分の好きな村は、思い出の中に消えてしまったのか?
そんな思いでいっぱいだった。
不義を行ったのが身内だから声に出して反発できないのが悔しくて苦しくて、小さな子供頃、自分にとって大好きな場所だった反動で悲しさが溢れてしまう。
「さぁ、行きましょうルーカス。姉さんを見送らなくちゃ」
「そこに、クライヴいる?」
「居るわ。クライヴさんの隣でいい?」
「うん……それなら頑張って一緒に行く」
ずいぶんとクライヴは懐かれているらしい。
思えば彼だけは、ルーカスを無視せずにいてくれた。本当に彼には助けられてばかりだと実感する。
2人で教会から出て墓地まで歩く。
既に棺が穴の中に納められていた。アンネリーゼは大きなシャベルを受け取り、土を被せていく。
その間、ルーカスをクライヴに預けた。
遺族が土を被せたのを皮切りに、他の人たちを土を被せて穴をきれいに埋めていく。
しばらくすると穴はなくなりそこには墓石が立つ。
《クラウディア・ノイマンここに眠る》
淡々と彫り込まれた文字が物悲しい。
「本日はありがとうございました。これで姉も安心して眠ることができます」
深々と頭を下げてひとりひとり見送る。誰もが帰り際に気遣う声をかけてくれるのに、誰一人としてルーカスの名前を出さなかったことが、やはり辛かった。
「ありがとうございます、クライヴさん」
「あぁ、終わったか。いいんだよ、子供に好かれなかった俺をこんなに好きになってくれるんだ、俺の方がお礼を言いたいくらいさ。それより、お前もグレタに散々つつかれて疲れたろ?」
「はぁ、身内の恥ずかしいところをお見せして申し訳ないです」
「あの婆さんは、クラウディアしか孫じゃないって昔から言ってたからな。だから身内の恥だと思わなくていい。お前の両親が家を長く開けてる日は、俺とナタリーがお前の面倒を見てたんだからな。お前の身内は俺たちだよ」
ナタリーという名前を聞いて、一つの顔が思い浮かぶ。
小さい頃、よく面倒を見てくれたクライヴの妻。皺の多い顔に浮かんだ柔和な笑み。
「ナタリーおばさま……懐かしいですね。もう2年ですか」
「あいつの最期は、穏やかだったなぁ……」
眠る様に息を引き取ったナタリーは、春の花に囲まれて見送られた。長年連れ添った妻の死に、一時期は悲しさで俯いていたクライヴがこの様に立ち直った背景には、もしかしたらルーカスが居たからかもしれない、とアンネリーゼは思った。
クライヴによく懐いたルーカスときっと多くの時間を過ごしたのだろう。そんな二人を引き離すのは、少し心苦しかった。
「苦いもん食ったような顔してるな。気にするな。むしろルーカスにとってこの村は良くない。アンネ、街に連れて行ってやってくれ」
「……本当に昔から気が回りますね。細かいことは気にしないって豪快な顔立ちなのに」
「お前さんは、細やかな気遣いが出来そうな雰囲気なのに結構豪快だよな?」
「うふふ、まぁそこはきっと祖母に似たんでしょうね」
軽口を交わしながら過去の人たちに想いを馳せる。
「エルフリーテさんは確かにそんな人だったな。村の産業見るなり、『効率が悪い!安く提供しすぎ!せっかく大きな川があるんだから洗って紡績してから売れ!!』とか……。いや、思い出しただけでも胃が痛くなるな」
「昔から気になってたんですけど、うちの祖母なにしでかしたんですか?」
「いろいろだよ! 今だから言えるが当時は本当に凄かったんだ。村の連中全員と戦争するんじゃないかって勢いだった」
「良く村に馴染めましたね?」
「あの人に医術の知識があったんだよ。産後の労り方とか、流行病の時とかは、本当に助かったさ。それもあって村から信頼されて馴染んでいったんだ」
今もクライヴには昨日のことの様に思い出せる。
何もない穏やかなこの村が、騒々しくそして確かに変わっていた日の事を。
「あとは、エルフリーテの旦那、ディルクがいい人柄でな。こうして商人が定期的に来る様にしてくれたのもその人だし、別の品種の羊や山羊を仕入れて交雑種作ってもくれたんだ。本当に懐かしいなぁ……あの賑やかな頃が」
クライヴの知る人たちはこの数年であっという間に減ってしまった。
連れ添った妻にディルクとエルフリーテ、そして村の幼馴染たち。自分のしわだらけの手を見て、ふと寂しくなる。
それが、ルーカスに手を差し伸べた理由でもあった。
母親以外から無視されていた小さな子供の姿が、自分に重なって見えた。寂しさは心を殺す。それを幼少の頃から叩きつけられる姿が不憫で仕方なかったのだ。
まだ墓石の側にいるルーカスに二人は視線を移す。
「俺のセリフじゃねぇけどよ、あいつの事、頼むよ」
「ええ、お任せください。きっと立派に育ててみせます」
二人の視線に気付いたのか、薄紫色の髪を揺らしてルーカスが振り返る。手についた土を払ってから駆け寄ってくる姿に、クライヴは首を傾げた。
良く似た色彩の二人にクライヴは、さっき感じた違和感の正体に気づいた。
「お前さんたち、良く似てるなぁ。歳の離れた姉弟って感じだな」
「……そうですね」
しかし、アンネリーゼの胸の内では別のことがよぎる。
同じ髪色のルーカスとアンネリーゼでは、むしろ親子に見えるだろう。つまり、自分は未婚の母として奇異の目で大衆から見られるわけだ。
どれだけ弁解してもきっと誰もが嘲笑するだろう。その中に、アンネリーゼがフェルスウィンで世話になってる人たちも含まれているかもしれない不安がある。
不安を悟られない様にルーカスと視線を合わせてしゃがむ。
「おんなじ色で、嬉しい」
「あら、私もよ」
小さな手がアンネリーゼの髪に触れる。ルーカスが自分からアンネリーゼに触れた初めてのことだった。
少し近づいた距離が嬉しくて、目頭が熱くなる。
「それじゃ、帰ろうか」
「はぁい」
アンネリーゼの手をしっかり握るルーカスは、ゆっくりと前に向かって歩き出した。