優しい貴女への葬送歌
空から雪が溢れ始めたのは、昼頃からだった。
朝からすでに分厚い灰色の雲が掛かっていたので、雪か霰はすぐに降ってくるだろう、と予想していたがその通りになった。
白い息を吐きながら、アンネリーゼは小走りで石畳の道を行く。手に下げた鞄の中に入った手紙と日持ちする菓子の重さを確かめて頬が緩む。
故郷ベルク村は、ここフェルスウィン街から馬車で2日も離れた場所にある寒村で雪が本格的に降る頃には外界から閉ざされてしまう。
今日送る手紙には今年の冬は、フェルスウィンのアンネリーゼの家に泊まらないか、と提案している。どんな返事が返ってくるか、良い返事なら嬉しいな、と内心は弾んでいた。
「家を買ったって言ったらすごく驚くだろうな、クラウディア姉さん」
頑張って働いて買った家。ここで家族2人きりで過ごすのが夢だった。別に故郷が嫌いなわけではない。むしろ大好きだが女2人で暮らすには、不便である事は確かだった。
特に雪に深く閉ざされた日々、少しずつ減っていく備蓄や薪を数えるたびに心細くなった時のことを思い出す。
そんな場所に姉を1人で居させることは長い間、アンネリーゼの悩みの種であった。
牧羊や農閑期になる秋と冬に姉は村の子供達に読み書きや計算などの勉強を教える。それ以外の季節は村の特産品の出荷や売買の取引などを仕切っている重役ではあった。
しかし、深雪の季節は、そんな仕事も無くなってしまう。その時期くらい、フェルスウィンに来てゆっくりしてほしい。
久しぶりに姉の顔が見られるかもしれないと思うと嬉しくてたまらなかった。
特産品の集められる窓口には、行先の村へ配達を頼める。羊を納品しに来たベルク村の住人に配達を頼む仕組みだ。
手紙を運んでくれる人のために日持ちする食料を添えて窓口で手続きを終えると、係の人と軽く雑談が始まるのも日常だ。
「冬前は忙しそうですね」
「道が使えなくなる前にやんなきゃ大変だからねぇ。アンネリーゼは家族の手紙だね、きっと喜ぶよ。アンタみたいな気立てのいい子が嫁に欲しいもんだよ」
「あら、うふふ。シェイさんもお上手ですね。でもダルケにも伴侶を選ぶ権利がありますよ?」
恰幅のいい女性、シェイは鼻を鳴らす。
「ふん、あの堅物息子は見合いで相手をよく怖がらせるんだよ、口下手でムスッとした顔をどうにかしなきゃね。孫を見せろって言う前に、気になる女くらい見つけろって話でもあるんだよ」
「ダルケは確かに口数は少ないですけど、気配るのできるいい人ですよ……。確かに初めて会うとびっくりちゃいますけど」
ダルケは大工の職人で繊細な細工を彫れることでちょっとした有名人である。
家を建てるときに気紛れに細工掘りしたところ、たちまちその名前が広がったのだそうだ。
腕はいいのだが昔からの職人気質な所があり、口数は少なく筋骨の逞しい姿に大抵の女性は驚き、人によっては怯えてしまうのだとか。
「きっといい人が見つかりますよ。応援してます」
「あぁ、ありがとよ。でもアンタに応援されたら流石に息子が可哀想だから心の中で応援してやって」
うちの息子に度胸があればなぁ、とシェイも内心で呟く。
気立てよく、活発なアンネリーゼに淡い恋心を抱く息子のことを思うと涙が出る。まったく恋愛の対象として考えられてないのだ。
初恋は実らないというが、シェイの息子はそうらしい。
「そういえば、ちょっと前にお貴族様の馬車が通ったね」
「フェルスウィンの貴族ですと、ローレンゼン城伯ですか?」
「紋章が剣と盾と薔薇だったから城伯じゃなさそうだね。ただ、軽く憲兵に挨拶しただけで行っちまったから、ローレンゼン城伯よりは位が高そうだよ」
「あら、そうなると伯爵以上ということですよね。冬のフェルスウィンは他所からのお客さんが来ないから珍しいわね」
冬は雪がしっかりと降り積もるフェルスウィンは、むしろ金を持っている層が南部に移動し、そこで冬が終わるまで過ごす。物好きでも、寒くなにもない時期に来ることはない。
「チーズとかの名産もあるからねぇ。そう言えば他所の所だと余暇は狩猟とかだっけ。ウチの新しい目玉の『歌劇』はお気に召すものかね?」
「もし気に入ってくれたら嬉しいわ。石の街と言われていたここに、素敵な文化の花が咲くわね」
石工の町、石の街など硬い異名を持つフェルスウィン。良質な石材と石炭を有する山々を持ち、その昔は所有権を巡って戦争に巻き込まれたとも聞く。
本格的な採掘場は、離れているが採掘場とフェルスウィンを結ぶように大きな街が幾つかある。
採掘された石材や石炭はフェルスウィンからアイゼンブルグ大公の許可の元、国内や国外へと流通させている。
そんなお硬いイメージの地方から華やかな踊りと音楽、そして歌を融合させた新しい娯楽を作ったのが、ローレンゼン城伯の父である。
アンネリーゼは、この文化が国中に広がりいつかは他国まで伝わって欲しいと願っていた。
そうして2人が雑談に花を咲かせていると、ベルク村から行商人たちがやって来た。
「おっと、来たね。仕分けしてくるから待ってな」
「お願いね」
シェイはベルク村の荷物を手際よく分別し、手紙の束を見つけると地区ごとに振り分けていく。そして、首を傾げると何度も手紙を確認し、最後には困った表情で帰って来た。
「ごめんよ、アンネリーゼ。アンタ宛の手紙が無かったんだ……」
「そう……。姉さんも忙しくて出し忘れたのかもね。探してくれてありがとう。また来るわ」
「あぁ、また来な」
外に出るとアンネリーゼは不安そうに歩きながら考える。
もし、風邪だったらどうしよう。もし、手紙も書けないような怪我をしていたらどうしよう。すぐに会いに行けない距離にいる唯一の家族のことを思うと心が痛かった。
姉のクラウディアは、すぐになんでも我慢してしまう。両親を早くに亡くし、祖父母に育てられ早くに自立をしなければならなかった環境故だろう。
そんなクラウディアは、アンネリーゼにとって姉のようで母のようで、かけがえのない存在である。
祖父母の元で働ける年齢を迎えたクラウディアは、このフェルスウィンから出て故郷に戻り先生として、村の重役として祖父の代わりに働くことにした。自分が村に住み、祖父を街に戻したとき、クラウディアは優しく、こう言った。
『アンのやりたいことをしていいの。あなたの歌声は、きっと多くの人に認められる。昔言ってた夢をまだ追いかけているのなら、素敵な舞台に立った貴女の姿を見せてね』
その言葉でアンネリーゼの道が決まったのだった。
銀幕の舞台に立ち、姉を迎えにいくのだと、固く誓った。誰よりもアンネリーゼの才能を信じて送り出した姉の存在があったからこそアンネリーゼは、どんな状況でも心は折れなかった。
しかし今は心細かった。姉に何かあったのではと思うだけで、不安で仕方ない。こんな弱気でどうする、と自分を叱咤しても不安感は澱のように積もって行くばかりだった。
予定では劇団に行って軽く歌の訓練をするつもりだったが、この調子では練習にもならないだろうとアンネリーゼは、今後の予定を全て切り上げ、家で落ち着くことにした。
●○●
家に帰ったアンネリーゼは、暖かいお茶を淹れてソファに座る。窓から見える天気は雪がちらついていた。
時間が経つと、否応のない不安も落ち着きを見せ余裕のある考えができるようになった。
ベルク村は標高もあり、早くに雪が降る。きっと早めの積雪で手紙が出せなかったんだろう。春先になったらむしろ自分がベルク村に顔を出しに行こう。次に送る手紙の内容を考えていると、ドンドンっとドアが強くノックされる。
「きゃっ」
思わず持っていたカップを落としてしまった。床の上で割れたお気に入りのカップから紅茶が飛び散ってしまう。幸い服は無事だが、このノックしてくる人物への怒りがふつふつと込み上げてくる。
「どちら様ですか?」
怒気を含ませた声だったが、相手はそんなことを気にする余裕もなく声に反応して名乗った。
「ベルク村のハイネだ! アンネリーゼの家で間違いないか!?」
「ハイネ!?」
久しぶりに聞く声に、アンネリーゼは慌ててドアを開く。
雪崩れ込むように入って来た青年に驚きを隠せなかった。
アンネリーゼが3歳までベルク村で過ごし、祖父に会いに故郷に戻るたびに一緒に遊んだ4つ年上の彼の名前はハイネ。濃く煮出した紅茶色の髪と瞳で、癖っ毛の髪質が特徴だ。すっかり逞しく青年に成長した彼は息を切らせ、苦悶の末に言葉を吐き出した。
「アンネ……ごめん。……クラウディアが、死んだ」
「…………なに、言ってる、の?」
涙ながら告げるハイネの言葉をアンネリーゼは理解出来なかった。
ただ今まで簡単に思い出せた姉の顔が思い出せなくなっていく。まるで遥か遠くに行ってしまうように闇に包まれてしまう。
どこか遠くから、ハイネが呼ぶ声が聞こえる気がした。
●○●
「アンネ、アンネリーゼ」
「あ……」
名前を呼ばれ、強く肩を揺らされて初めて目の前の光景を認識できた。
こうして、久しぶりに帰った家は、寂しく薄暗く、ただただ冷たかった。
先にアンネリーゼの家の中で待っていたハイネの父、クライヴが「お悔やみ申し上げます」と、声をかけてくれるが上の空の返事しか返せなかった。
姉の訃報を聞いてからの記憶が定かではないが、不確かながら覚えているのは、次の日を待って出発し2日かけて故郷のベルク村に来たこと。そして今、姉の確認をする所だと言うこと。
人型に膨らんだ白い布。
それを退けて確認するまでは、姉ではない可能性がほんの僅かでもある。そう思うとこの布を掴むことすら恐ろしく感じた。確認して、そこに姉が横たわっていたら、姉が死んだと認めなければならない。自分が姉を殺すようなものだ。
もちろん、思考のどこかでは「そんな事はない」と分かっている。なのに、体が動かない。まるで足も手も蝋で固められたかのようで自分の意思でも、どうしようもなかった。
定まらない思考と恐怖で呼吸も浅く、早くなっていく。
「ハイネ、アンネリーゼを支えてやんな」
見てられない程に顔色が青白くなっていくアンネリーゼを思いやりたいが、彼女の家族をこのままにしてはおけない。
クライヴも辛い現実に向き合う決意を固めると、白いシーツを掴み、そっと顔の部分を捲る。
「姉さん……クラウディア姉さん」
布擦れの音と共に、白い顔が現れた。
アンネリーゼは力無く姉に駆け寄り、熱のない体に触れる。色味のない肌は弾力を失い、固くなっていた。
かさつく皮膚、重く閉じられて再び開くことのない瞼。その全てを否定したくて、出来なくて、胸を掻きむしりたくなる言葉にできない感情が次々と襲ってくる。
記憶の中にある長くたなびく亜麻色の髪。煌めく宝石の様な青い瞳。柔らかく優しく微笑む、あの笑顔が、白く色のない冷たい死に顔に塗りつぶされる。
最後に見た最愛の家族の顔が、最悪の形に上書きされてしまう。
泣きながら膝から崩れ落ち、姉の死体に縋り付く。
「いやぁぁぁ……ッ! どうして、姉さん! お願い、お願いだから目をあけてよ……、独りにしないでよ…う、ぅああああああっ!!!」
込み上げてくる嗚咽と悲鳴にも似た悲痛な叫びが家の中に響く。
そして、アンネリーゼの涙が尽きるまでハイネは寄り添い続けた。
アンネリーゼは目を真っ赤にして、ハイネに問う。
「ハイネ、どうしてクラウディア姉さんは死んでしまったの? 病気だったの?」
「……おそらく、物盗りの奴らが、クラウディアに見つかって咄嗟に殺したんじゃないかって俺らは思ってる」
「物盗り? 姉さんは強盗に襲われたの!?」
「仕事終わりの夜中に帰り道でクラウディアの家から大きな物音を聞いて駆けつけた時に、フードを被った怪しい奴に刺されてた……。慌てて逃げた奴を追いかけたけど、見失った。……本当に、本当にすまない」
その時のことを思い出しているハイネは、石から水を絞り出すような苦しい声だった。よく見れば、ハイネの目元は赤く彼も多くの涙を流したのだろう。
ハイネが実はクラウディアに淡い恋心を抱いていたのをアンネリーゼは知っていた。
想い寄せていた相手の突然の死は彼にも暗い影を落としている様だ。
ハイネの苦しそうな様子が、今のアンネリーゼの心を唯一、慰撫する。
「ありがとうハイネ、姉さんの最期に寄り添ってくれて……」
「俺は何もできなかったよ。あと、クラウディアを看取ったのは俺じゃないんだ」
ハイネはクライヴに視線を送る。
クライヴは頷くと、階段に近づき2階に呼びかけた。
「おーい、もう降りて来てええぞ」
階段を降りてくる足音は軽くて、その人物が小柄であることがアンネリーゼには予想できた。
しかし、予想外だったのは、降りて来たのが子供であったこと。なによりアンネリーゼによく似た薄紫色の髪に、クラウディアによく似た煌めく青い宝石のような瞳だったこと。
まだ幼いながら目鼻の整った顔立ちからは、気品を感じる。
「クライヴおじちゃん、その人だぁれ?」
「えーっとな、アンネリーゼさんだ。おまえのかーちゃんの家族だよ。……混乱すると思うが、このチビはクラウディアの息子なんだ」
「…………ごめんなさい、ちょっと頭が、追い付かなくて。え、姉さん結婚してたの?」
「いいや、結婚なんてしてたら村の男どもが泣き叫んだだろうな」
当然の疑問に、クライヴ親子が首を横に振る。
その事実にアンネリーゼの声が引き攣った。つまり姉は未婚のまま誰かと契り、子を成したと言うこと。
その行いは、ふしだらな事で忌むべき事だ。それを、あの優しい姉が行なっていたかと思うとアンネリーゼは目眩を覚える。しかし、取り乱してはいけない。子供には何の罪もないのだから。
「そう、そうなのね。理解は出来ないけど状況は飲み込んだわ」
「すまんな、生前のクラウディアから絶対言うなって念押しされてたんだ」
クライヴが気まずそうに髭をさする。
「いえ、姉の願いを聞いてくれてありがとう御座います。私の耳に入ってたら相手方の家に殴り込んでたでしょうから……」
「想像できちまうよ……。まぁ、今日は移動で疲れただろ? 葬儀は明日からにしよう。クラウディアは教会に連れて行くけどいいか?」
「では、最期にお別れを言いたいので、少しだけ家の外で待ってて貰えますか?」
「あぁ、ゆっくりやりな」
「アンネリーゼ、無理しないようにな」
クライヴとハイネが家の外に行ったのを確認して、アンネリーゼはルーカスに振り向く。
まだ3か4歳くらいの少年であるが、子供の存在を隠してそんなに年月が経っていたのかと驚きを隠せない。おっとりとして優しげな姉は嘘をつけるような人ではない、と何処かで思い込んでいたのだろう。
ひとまず、アンネリーゼはルーカスと目を合わせるために、同じ目線になる様に屈む。
「初めまして。私はアンネリーゼ・ノイマンよ。突然やって来てこう言うのもなんだけど、今日から私とあなたは家族よ。よろしくね」
「ぼくは、ルーカスです。……おかあさんは、いつ起きるの?」
「……っ」
アンネリーゼが家族になる。その事をうまく理解できないルーカスは、自分の家族、母クラウディアの寝かされている場所を不安そうにじっと見る。
死んだ者とは、もう2度と会えないのだと伝えなければ、とアンネリーゼは心を決める。それが理解してもらえるかは分からない。それでも、有耶無耶にする事だけはしたくなかった。
「ルーカス……あのね、お母さんもう起きないの」
「やだっ!!!」
それは間髪入れない拒絶の声だった。
ルーカスの目にじわりと大粒の涙が浮かぶのを見て、アンネリーゼは認識を改める。この小さい子は、本当は分かっているのだ。2度と母が起き上がらない事を。でも、あまりにそれは悲しくて、その現実を分からないふりをしている。
「やだよね。でも、そうしてるとお母さんが安心して眠れないの。……だからお母さんが安心出来るように、さよならしてあげて」
「やだ、やだ、やだぁぁ!! おかあさん、おかあさぁぁぁんっ!!!!」
迷子の子供のように、火がついたように泣き叫ぶルーカスをアンネリーゼは抱きしめた。
すぐに駆けつけてくれる母が、動かない。すぐそこに居るのに、いつもなら抱きしめて頭を撫でてくれるのに。もう二度と、安心させてくれる温もりはないのだと、別の人の温もり包まれながらルーカスは実感する。
「うぁぁぁああぁあぁぁぁぁ!!!!」
ルーカスは処理することのできない感情を声に出すことしか、今は出来なかった。
子供の泣き声は、よく響いた。
家の外にいたクライヴ親子も、その声を聞きながら静かに目を伏せる。
悲痛な声を慰めてやれる立場にない彼は祈った。
「あぁ、神様……。どうかあの2人が手を取り合って、前に進めるように、手助けをして下さい……」
クライヴの真摯な祈りが神に届く事を願うばかりである。
●○●
大粒の涙流し、声が枯れるまで泣き続けたルーカスは、真っ赤になった目から、最後の涙を搾り出しながらアンネリーゼと一緒に人形に膨らんだ白いシーツの前に跪き、祈りを捧げる。
「ぅ、……ぅう、……お、お母さん」
「……」
俯いて祈りを捧げ終わったアンネリーゼは、ルーカスの背中を優しく撫でた。
小刻みに震える体が祈りの姿勢を崩すと、立ち上がりながらそこからどうすれば良いのか分からずに立ち尽くしていた。
アンネリーゼは、そんなルーカスの頭を少し撫でた後、玄関まで移動してドアを開けると呼びかける。
「クライヴさん、お願いします」
「もういいのかい?」
「むしろお待たせしてすみません。姉をよろしくお願いします」
深々と頭をさげてアンネリーゼは、クライヴ親子を家の中に招き入れる。男2人の力で板に乗せられたご遺体が運び出されていくのを、アンネリーゼは自分の腕に爪を立てて見送った。
扉を狭そうに潜っていく最愛の姉の変わり果てた姿に、本当は縋り付きたかった。ルーカスのように、いやだ、行かないでと叫びたかった。
そうしないのは、きっともう自分が『妹』という立場にないからだ。
もうすでに自分は『親のいない子供の養母』なのだ。人は勝手に大人になるわけではない。きっと立場で大人になるのだ。そして得た立場を受け入れ心を込めた時、自他共に大人として認められるのだろう。
アンネリーゼは、もう心を決めた。
だから、最後に一言、『妹』としての本音を誰にも聞こえないように声を押し殺して吐露した。
「いかないで、姉さん……っ」
大好きな姉が手の届かないところに行くのを妹アンネリーゼは認めたくなくて、しかし大人のアンネリーゼは、それを受け入れた。
ルーカスは、声を殺して泣くアンネリーゼの姿を後ろから見ていた。
アンネリーゼが涙を溜めた瞳を拭いながら、家の扉を閉めると再びルーカスに向き直る。
「辛いこと言って、ごめんね。ルーカスも疲れたでしょ。ゆっくり休んでて。晩御飯できたら呼ぶから」
「ん……」
ルーカスは、涙で目元が赤くなったアンネリーゼを直視できなくて、俯く。
言おうとしてうまく言葉に出来ないでいるルーカスの様子を観察してみたが、意図はうまく理解できなかった。
なのでアンネリーゼは選択肢を増やしてみることにした。
「おしゃべりする? それともここに居る?」
「ここに居ても、いい?」
「もちろんいいよ。何かあったら言ってね」
アンネリーゼは、キッチンの椅子にルーカスを座らせ、暖炉から火を取り出すと竈に火を入れ、そこに小さな小枝などを入れて火を大きくすると太い薪を数本追加して安定させる。
「時間かかるから、少しおしゃべりしましょう。」
「おしゃべり?」
「そう、おしゃべり。なにか私に聞きたいことある?」
そう問われて、ルーカスは考える。
目の前の、自分の色によく似た人のことはとても気になった。なにせ、母と姉妹だというあんまり似てないのだから。
「本当に、お母さんの家族なの? 髪の色も目の色も似てないよ?」
「……その質問も久しぶりね」
野菜を切っていた手を止めて振り返る。
アンネリーゼは薄い紫色の髪に、瞳はゼラニウムのような鮮やかな赤い色彩をしていた。
窓から降り注ぐ陽の光できらきらと輝く姿は、華美な装いをしていないのに宝石に彩られたかのように美しい。
「私は祖母、ルーカスにとって曽祖母のエルフリーテおばあちゃんによく似てるんですって。だからあんまり両親に似なかったのよね。ルーカスの髪の色も紫よね。エルフリーテおばあちゃんに似たのかしら?」
「僕の髪の色は、お父さんそっくりだってお母さん言ってた」
「お父さん……」
ルーカスの言葉にアンネリーゼは目を細める。
この言い方では実の父を見たことすらないのだろう。むしろ生まれた事を、きっと知りもしないに違いない。一体どこの馬の骨のか分からなかったが、少し希望が持てた。
紫色の髪はアンネリーゼも祖母くらいしか知らない。国の北側では珍しい色なだけで実は中央や南に多い可能性もあるが、少なくともそこら辺の男ではないようだ。つまり、かなりの距離を移動できる職業か、地位を持っていると言うこと。
アンネリーゼはルーカスの容姿を観察すればする程、平民の血筋だとは思えなかった。
まだ幼いが、顔立ちは整っており目鼻立ちがしっかりして、丸く大きな瞳に柔らかな髪質は絹のようで、妖精や天使というのは、この様な姿なのかも知れないと思わせる。
外見の美しさから、ルーカスの父は大きな商家、もしくは……。
「貴族……」
「アンネリーゼ、さん?」
「なんでもないわ。私の名前長いでしょ。アンネ叔母さんでも叔母さんとでも呼んで」
「うん、ありがとう叔母さん」
料理を再開しながらアンネリーゼは思案する。
ルーカスの父が貴族だとした場合、姉が殺された理由は物盗りの可能性が下がること。明確な殺意をもって行なった可能性が高い。事実、家が荒らされた形跡は少ない。
殺意を持った犯行だと仮定した場合、本来の標的は、まだ小さなルーカスだろう。家督の問題でも出てきた可能性が高い。しかし、もしそうなら一つ疑問がある。婚外子であるルーカスの存在を危惧するほど、後継者に困窮している可能性が出てくることだ。
もしそうなら、ルーカスの父はすでにこの世にいないか、正常な状態ではないかもしれない。
「1発、顔面をぶん殴ってやりたかったけど無理かもなぁ……」
流石に、病人や死人を殴りつけることは憚られる。
元気なら遠慮なく殴打してやろう。
意気込みを固めつつ、しんなりした野菜炒めに燻製肉を放り込み馴染ませると、それをボウルの中に入れる。ボウルの中の溶き卵と和えて、オーブンで焼いてる間に、先に下茹でしていたキャベツを取り出し、軽く刻むと大きな鍋に放り込む。豆類、じゃがいもと玉ねぎ、ベーコンを少々入れ、スープを作る。
「はい、どうぞ。召し上がれ」
「わぁ、すごく美味しそう!」
ほくほくのじゃがいもを美味しそうに頬張るルーカスの笑顔を見てアンネリーゼは思った。
何があってもこの子を守らねばと。姉の忘形見、自分のたった一つの縁。最後の親類である彼が立派に育ち大人になる姿を、天国の姉に報告できる様に自分が育てていくのだと。
――クラウディア姉さん、私まだそっちにしばらく行けそうもないわ――
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