#5
その日の夜は月明かりが綺麗でした。リア様は、夕食は自室で一人で摂ります。というのも旦那様の現在の奥さまは、非常にリア様を怖がっているそうで、リア様は気を遣って自室でお摂りになるそうです。その怖がっている理由が、ただ単に精霊語を喋るリア様が怖いからなのか、それとも今の地位が脅かされるのが怖いのかはわからないとお付きのメイドの一人に教えてもらいました。
「###%」
一緒に夕食どう? と促しますが、毅然と断ります。
「いえ、身分不相応ですから」
リア様が食べ終わると食器を片付け、食後の紅茶を注ぎます。
「###」
君は食べた?
「いえ、食べていません」
「###%」
一緒に食べればいいのに。
「リア様が食べ終わったら食べます」
「#€##」
え? 今なんて言ったんだろうか? 当然だが、リア様の仰っていることは何でもわかるわけではない。
「リア様今なんて?」
そう聞き返すとリア様は窓を開けた。秋の冷たい夜の風が吹く。お月様は風を照らしているのに、夜風は冷たい。まるで風が哀愁を漂わせているみたいだ。
「#€##」
リア様はさっきと全く同じ発音をした。聞き返しても何を意味しているかわからない。きっ
と他のお付きのメイドもこの沈黙が怖いのだろう。リア様にまるで失望されたような気がして。何だかこの数日でリア様をわかったような気になっていた。リンゴォ様にも褒められて何から何までわかったような気がしてしまった。自分は恥ずかしい人間だ。これをきっと弁えていないというのだろう。
「リア様」
でも、だからってわかろうとする気持ちを捨てる訳にはいかない。
「私、まだリア様のこと全然知りません。でも、きっとわかって見せます」
リア様はわかって貰えないと悲しげな顔をする。そんな顔させたくない。
「時間がかかってもリア様の言葉を解読して見せます」
そう言うとリア様は優しげな顔で笑った。
今日この出来事を日記の序文とすることにした。
私の想いを忘れない為にも。
西の国にも冬が訪れようとしていた。このお館での生活もそろそろ半年になろうとしていた。私の生活は代わり映えがない。朝リア様の部屋の暖炉をつけてリア様を起こし、朝食を持ってきて、掃除をして、昼食を持ってきて、午後の紅茶を持ってきて、夕食を持ってきて、食後の紅茶を持ってくる。あれ? 交代制だった筈では? お付きの筈のメイド達も私の役割みたいに渡してくるし、メイド長も執事長も何も言わない。これは実質の専属メイドか? ああ、もう一つ変わったこともある。
「そこの発音はhaではなくàだと言っているだろうが!」
「はい! ha」
「だから違う。音をきちんと認識しろ。私が言っているのはà、君が言っているのはhaだ」
「は、はい!」
何故だかリンゴォ様が言葉の授業をしてくれているのだ。リア様はそれを楽しげに見ている。リンゴォ様は元々リア様の家庭教師でもあるのだからリンゴォ様が教えることは何ら変哲もないのだが、何故私が教わることになるのだか。リンゴォ様が今教えて下さっているのは、中央国プレイアの発音だ。何でも東西南北のどの国も話している言語の80%程は変わらないそうだが、アクセントに関しては、大きく変わってしまうらしい。特に貴族としてプレイアの発音を物にできないのであれば、馬鹿にされるそうでこうして勉強しているらしい。普段かなり温厚なリンゴォ様は教える時だけ少し怖い。だけどそれは期待の裏返しだと気づいてから、自分に喝を入れて頑張る。段々と私も遠慮がなくなり、御茶会も一緒の席に座っていたりと周りの目が気にならなくなっていた。やっかみを受けるかと思っていたのだが、実質は周りからはどう見られているかと言うと「可哀想」だそうだ。
最初の頃こそ、仕事が楽だと思っていたが、メイドの仕事とどちらが大変かと言われれば、甲乙つけがたい。
最近なんて他の歴史や数学なんかも習わされそうだ。一体ただのメイドに何を求めているのか?
こんなの身分不相応ではないだろうか? イスカ様にどやされたりしないだろうか?
「何をボーッとしてる」
「ヒャッ」
リア様の部屋の入口に立っているといきなり声を掛けられ、びっくりした。噂をすれば、と言うよりも頭に浮かんだだけなのだが、イスカ様が珍しく現れた。別に兄弟仲が悪いわけではないのだが、余りリア様の部屋に訪れない。訪れる理由がないと言えばそうなのかもしれないが。
「兄上は?」
「そちらにおります」
「ふん。見ない間に随分といい身分ではないか」
「いえ、そんなことは」
「兄上だけでなく、リンゴォ氏にも気に入られたと聞いているぞ」
「はい、リア様にもリンゴォ様にもよくしてもらっています」
出会った頃はこの貴族的な口調も怖かったが、今これを聞いても可愛いとしか思えない。こんなものは挨拶に過ぎない。私たちを見てリア様が安楽椅子から起き上がると小さくあくびをした。
「兄上、昨日は夜更かしでもしましたか?」
「%」
「リア様はいつも眠たげですよ。昨日もぐっすり寝たはずですから」
「兄上らしい」
イスカ様は少年のように笑った。
「兄上、狩りに行きましょう」
「##」
魔術師にとって狩りとは、魔獣を魔術によって狩ることを言うそうだ。しかし、リア様はともかくイスカ様は10歳だ。この場合の狩りとは、動物などを魔術によって狩るいわば練習のようなものだ。本来であればリア様とイスカ様のような年齢の子供だけで行くようなものではないけれど、この国においては、リア様より強いものなどいないらしい。と言っても私にとってはいまいち魔獣の強さも魔術師の強さもよくわからない。あれほどの大きな魔獣も見たのは一回きりだし、それもリア様があっさりと倒してしまった。
「父上には、馬に乗って遠出することも許してもらいました。兄上とだったら、狩りに行ってもいいと」
「#」
この時ばかりはイスカ様は年相応に見えた。リア様も楽しそうで、こちらまで嬉しい気持ちになる。
「何か料理人に作らせましょうか?」
といってもサンドイッチくらいしかできないだろうが。
「ピクニックじゃないんだぞ。これは狩りなんだから。それにお前はウサギの死体でもみたら卒倒してしまうのではないか?」
「大丈夫ですよ。ウサギ程度ならよく絞めてましたから」
そう返すと何故かイスカ様に引かれた。そう言えばお父さんも魔術を使って狩りをしていた。ウサギ肉は身が引き締まっていて煮てもよし、焼いてもよしで美味しかった。と言っても城壁外暮らしの贅沢の話で、今からしてみれば丸々と太った鶏肉の方が美味しいと感じるだろうが。
料理人にサンドイッチを頼むと火の魔石と水筒、そして小さくて軽いお鍋と茶濾し、鉄製のコップを取りに行った。これは、ピクニックなんかに使うお出かけ中に紅茶を飲む為の道具だ。もっと大勢の人がいりピクニック何かだときちんと陶器のカップを使うのだが、今回であれば鉄製で十分だろう。陶器で紅茶を飲むと美味しいのだが、ピクニックに持っていったら割れてしまう。
「マリーは付いていくのか?」
サンドイッチを持ってきてくれた料理人さんが世間話に尋ねました。きっとリア様が外出されるのが珍しいからなのでしょう。
「今回はイスカ様とリア様の狩りですから、流石に付いていかないですよ。お二人はお馬に乗られますでしょうし」
私は馬に乗れないし、流石に歩いて来いなんてのは言われない。
「なんでえ、マリーはリア様に気に入られているから三人分入れてしまったわ」
「多い分には大丈夫ですよ。それにきっとイスカ様のお付きの方もいらっしゃると思いますから大丈夫ですよ」
ここでのお付きの方というのは、メイドではなく、男性の兵士と秘書を兼ねたような方で、イスカ様とほぼ年齢が変わらない方やリンゴォ氏と年齢が変わらない方までいる。
逆に言うとリア様はこのお付きの方がいない。
リア様は、旦那様の本来の子供ではあるが、五歳から十歳の頃まで死んだと思われていた。前妻の従士などは、前妻様が流行り病にかかり死んでしまった時に、元の家に帰ってしまった。そこから変わるように旦那様の現在の奥さまの家来が勤めているので、今いる殆どの家臣はイスカ様の派閥ということになる。血を考えればリア様が旦那様の跡を継ぐのだが、リア様が精霊語しか喋れないこともあり、貴族としての役目を全うできるかは微妙な所だ。リア様が貰った領地ですら、ほぼ関わっていないというし。
本来だったら御月の人などは旦那様が用意してくれるはずだ。しかし、リア様が急に戻ってきたことと家臣の殆どはイスカ様の派閥であること。また、竜害があったせいで忙しくて出来なかったそうなのだ。
「だから大丈夫だと言っているだろう」
サンドイッチを持ってイスカ様が少し怒ったような声が聴こえた。
「ですが」
「では何だ? お前は自分が兄上よりも強いという気か?」
「そのようなことは…」
「であったらお前は来なくていい。兄上と行くと言っているだろう」
どうしよう。言い争っている従士の方にこれを渡す筈だったのに。話を聞く限り、イスカ様はリア様と二人きりで狩りに行きたいと思っているようなのだ。サンドイッチと紅茶セットを入れたバスケットは決して小さいものでは無いので、私としては、従士の一人、二人は連れていってほしいのだが。
そうこう言い争っているとリア様がやって来て、二人は黙った。
これ幸いとまるで今来たかのように、皆様の前に出た。
リア様はまるで聴いていないかのように歩き出した。
「##」
「外套ですか?」
確かに忘れていた。厩舎までの短い距離といえど、もう冬に近い、この格好では寒いだろう。
「取ってきますね。少しだけお待ち下さい」
サンドイッチを持ったまま、上着を取りに行く。
まあ、厩舎までなので、そこまで暖かい格好はいらないだろうと直ぐに戻ってくるとリア様はそのまま待っていてくれた。
「お待たせしました」
「#>>?」
「そんな格好で大丈夫か? ですか。全然大丈夫です。寒さには強いので」
外に出るとイスカ様は既にいて馬に乗って待っていたのだが、まだ喧嘩しているらしかった。
「御身を気にしているのです」
「兄上がいて、気にすることなぞあるか」
流石に私達に気付くと止めたがリア様も気分は良くないだろう。
馬屋の世話係に馬を持ってこさせるとリア様は馬を撫でた。
「#゜#」
よろしくとでも言っているのだろう。
「お手伝いしましょうか?」
馬の世話係が踏み台代わりになろうとしゃがもうとするのを制した。
鐙に左足を掛けると不自然に右足が上がった。まるで地面がせり上がったかのように右足が馬の高さと同じくらい上がる。恐らく魔術を使ったのだろう。華麗に馬を一人で乗ってしまうとイスカ様が目を輝かせた。
「兄上、今度教えて下さい」
少し困った様に笑ってリア様は頷いた。
「それで…このバスケットは誰に渡せばいいのでしょうか?」
私の仕事はこのバスケットを狩りに行く方に渡すことだけなのである。本来だったら従士の方に渡すべきなのだが、イスカ様が二人で行くと仰るのならどちらかに持って貰うしかない。
「##゜#」
こっちに来てと言われたので、近付いた。どうやらリア様が持っていってくれるらしい。
「兄上、それくらいなら自分が」
その言葉を余所にリア様は私に手を差し出した。私も全力全身でバスケットを上に掲げた。
「リア様?」
しかし、リア様が持ったのはバスケットじゃなくて私の腕だった。
突如として身体が浮く。
「キャッ」
「リア様」
「兄上」
私は気付くと馬の上に座っていた。当然リア様以外は私も含めてびっくりしていた。
「##」
「行くぞって降ろして下さい。リア様」
馬が歩を進めるものだから降りられない。いや、止まっていたって降りられないだろう。馬は思っていたよりも高い。
後ろを振り返ると唖然とする従士と渋々付いていくイスカ様が見えた。