巡り合い③
「はっはっはっ!ぐふぅ!?」
「お父さん、少し黙りましょうか?」
突然親父が苦しそうな声を出して俯き、無言で身体をピクピクと震わせ始めた。
どうやらデリカシーのない発言をした親父に母さんが制裁してくれたようだ。恐らく隣に座っている親父の横っ腹に鋭い肘うちをかましたのだろう。
「あら?信君は今まで恋人がいたことが無いの?」
てっきり笑ってこの話題を流してくれると思っていた彩さんの意外な発言、それが俺にはとても恥ずかしく…とても気まずいものだった。
「は…はい」
そして気まずい返事をする俺の視界に映った、なぜか僅かに口元を綻ばせている幼馴染の顔は俺を心をムッとさせた。
「そう…それじゃあ私達と同じね」
「えっ…?!」
しかし俺の中で生まれた負の感情は一瞬で霧散した。
なぜなら今俺の両目に映っているのは、この世の全ての汚れを洗い流し浄化してくれるような微笑み……そして耳に入った言葉は余りにも予想外な内容だったからだ。
「ちょっと姉さん!?」
「そうなんだよねぇ~僕らも信にぃと同じで恋人いたこと無いんだよねぇ~」
「ふふっ。あら信君、そんなに意外だったかしら?」
「え?あっ…はい…その…3人ともこんなに美人ですから、てっきり彼氏がいると思っていました」
「ぶっ!?ん゛っ?!んんん~~!!」
「おい藍鼻血!鼻血出てるぞ!?」
「大変!?お父さんティッシュ!ティッシュ!」
「あらあら~美人だなんて、お姉ちゃん嬉しいわ。でも残念ながらいないのよね~」
自分の直ぐ右隣で妹が尋常ではない量の鼻血を出しているというのに呑気に話を続けている彩さん。
慌てて近くにあったティッシュ箱を取りに行った親父と、驚き心配して立ち上がった俺と母さんを尻目に『はぁ』と小さなため息をついて困った顔をしている。
「いや彩さん今それどころじゃな——!」
「そうだ、良い事を思いついたわ!いっそ信君が私達3人をもらってくれないかしら?」
「グゥゴハッ!?」
「うぉおおおお!?藍が吐血したぁあああ!?」
「きゃぁあああああ!?お父さん救急車!救急車!!」
「あぁ救急車!救急車ぁああああ!!」
「あっ御心配には及びません。よくある事ですのでお気になさらず」
「よくあるの!?これが!?」
「ほら藍ねぇ水だよ~」
俺達家族は目の前の状況に大騒ぎだというのに、彩さんは全く意に介した様子全くなかった。
一方の葵ちゃんといえば、親父が持ってきたティッシュと何時の間にか台所から汲んできたコップに入った水を藍に手渡し、慣れた手つきで藍を介抱しつつ辺りに飛び散った血をハンカチで拭いていた。
コップを受け取りゴクゴクと水を飲んだ藍は『ふぅ』と一息つくと、先程の出来事が嘘の様に落ち着きを取り戻した。
そして何故か鼻血は止まり、飛び散ったはずの血は葵ちゃんがハンカチで拭いたら綺麗さっぱり消えていた。
「お騒がせ致しました。これはこの子の癖のようなものですので、どうかお気になさらないで下さい。身体は至って健康ですのでご心配なく…ほら藍、おじ様達にちゃんと謝りなさい」
「おじ様、おば様、お騒がせして申し訳ありませんでした」
「い…いや、大丈夫ならいいんだよ…あははは…」
「そ…そうよね~藍ちゃんの身体が第一ですもの!」
親父は手に握られていた119番に掛ける寸前だったスマホをポケットに仕舞い、藍に駆け寄った母さんは自分が座っていた席まで戻り、俺達3人は椅子に座りなおした。
まるで何事もなかったかのように落ち着きを取り戻した藍を見て笑っている親父と母さんだが、その笑顔は明らかに引きつり動揺を隠せていない。そりゃそうだ、俺だって何が起きたかわからず驚きを隠せないでいるのだから。
実の姉妹が吐血をしたというのに焦る様子は微塵も見せず平然と喋っていた彩さんと葵ちゃん、そもそも吐血した当の本人が既にケロリとして優雅にお茶を飲んでいる始末、更に言えばアレだけ派手に鼻血を出して吐血をしたというのに葵ちゃんがハンカチで血を拭き取っただけで綺麗さっぱり血の跡がなくなっている現実、これで驚くなと言う方が無理な話である。
「本当に申し訳ありません。おじ様、おば様、信君…ですがどうかお気になさらないでください」
そんな俺達を見て、心の底から申し訳なさそうに謝罪する彩さん———次の瞬間、俺は突然不思議な感覚に襲われた。
奇妙な浮遊感に身体は包まれ頭の中が軽くなる。
強烈な睡魔に襲われたように鈍った思考の中、彩さんの言葉が脳内で何度も何度も山彦の如く木霊する。
存在しない得体の知れない何かが『彼女の言葉に従え』と訴えかけている気がした。
すると段々と俺達の中にあった違和感や不信感は消え去り、……最後には一体何を気にしていたのか全く分からなくなった。
「そうよねぇ~よく考えたら大した事じゃないわよねぇ。私ったら年甲斐もなく取り乱しちゃってごめんなさい」
「そうだな。いやぁ~藍ちゃん、変に騒ぎ立ててしまってすまないね」
先程の様子とは一転、母さんも親父も恥ずかしそうに笑っている。当然だ、あんなのは紙で少し指を切った程度の事なのだから。
あれだけ大騒ぎをして救急車まで呼ぼうとするなんて、まったく……親父も母さんも一体何を考えていたのやら…。
「……???」
何か変だ。
何かは分からないが何かがおかしい。
自分の思考に何故か違和感がある。
しかしソレが何なのかは皆目見当も付かない。
「(母さんと親父が大騒ぎをして、葵ちゃんがハンカチで血を綺麗に拭き取って、それで…)」
ダメだやっぱり分からない。何もおかしなことはなかったハズなのに…。
「そうそう!信君、信君に大切なお知らせがあるの」
突然思わぬ人から大きな声で話しかけられ、俺は少し驚き戸惑いながら声の主である彩さんの方を向いた。
「な、なんでしょうか?」
「ふふっ、とぉ~ても大事なお知らせ。なんと、藍と葵が信君と同じ学校に通うことになります!」
「よろしくね信にぃ!」
「よ…よろしく頼む…信…」
予想外の内容に少々混乱気味になる。
これから藍と葵ちゃんが俺と同じ大学に通うことになる?つまり…それは…。
「あらやだ!良かったじゃない信!」
「そうだそうだ!お前の花の無い学生生活にようやく春が到来したんだぞ!?もっと喜べ!!」
戸惑う俺を尻目に大喜びしている母さん達。
「2人の事をよろしくね、信君」
その瞬間、春の風が吹いた。
暖かく、穏やかで、心地よい風……彼女の、彩さんの笑顔を見た瞬間、我が家のダイニングに春の風が吹いた錯覚に陥った。
見るもの全てを優しく包み込むような眩しい笑顔、そんな素敵な笑顔に目を奪われた俺は……
「…はい」
心臓の鼓動を抑えるのに必死で小さな返事しか出来なかった。