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玉砕

 まるで大量の氷が入った水風呂に投げ込まれたかのように、一瞬怒りで熱くなった身体は完全に冷え、ほほには冷たい汗が流れた。

 恐怖と絶望―――恐怖は俺の身体を小刻みに震わせ、絶望は俺の思考を鈍らせた。

 そして…皮肉なことに、思考が鈍った今だからこそ、俺の口からは理性に縛られない純真無垢な素朴な疑問が漏れていた。

 それは彼女ユエルの言葉を聞き、彼女ユエルの行動を考え、ずっと腑に落ちなかったこと。

 彼女ユエルは言った「俺に近付くのは自分達の都合」だと。

 ならばあらかじめ俺や周囲の事について調べ、用意周到に準備をしていたことは明白、現にアパートの入居に関してはリノベーションの工事中に親父に連絡をしている。

 そして昨夜、あの夜に…あの公園で俺が魔女ユエルに出会った事も偶然ではなく、意図的であったことは疑いようがない。

 なぜなら彼女ユエルが魔女である事を隠して俺に近付くつもりだったのなら、昨夜の公園での出来事の説明がつかない。

 実はアレが偶然で、公園で俺を化物から助ける為に姿を現したというのは無理が過ぎるし、何より今目の前で彼女ユエルが正体を明かした説明がつかない。

 つまり彼女ユエルは最初から、自分が魔女であることを隠す気など更々(さらさら)なかったということだ。

 だからこそ…だからこそ俺には分からなかった――――――なぜ彼女ユエルえて俺の記憶を消したのか。


「ふふッ……ンッフフフフ!!」


 鳥肌が立った。

 不敵に笑っていたユエルの笑みがより一層薄気味の悪いものへと豹変し、鳥肌が立った。

 吊り上げていた口角を更に鋭くして笑っているのに、ユエルの口元はどこか嬉しそうに緩んでいるように見えた。

 腹の底から無理やり恐怖を引きずり出す笑いなのに、身の毛もよだつ笑い声なのに、その笑い声はどこか幸せそうに聞こえた。


「だってェ~その方が面白いでしょうォ~?」


 その言葉を聞いて、俺は言葉を失った。


「現に最高だったわァ~玄関で見た貴方あなたのアノ顔、狼狽うろたえた様子、もうゾクゾクしちゃって、まるで身体中に電流が走った感覚だったわァ~」


 俺の記憶を消した理由、ソレは全く合理的ではない、ただのたわむれだったのだ。純粋な快楽、ただそれだけの為にユエルはわざわざ俺の記憶を消したのだ。混乱と恐怖で取り乱す俺の反応を、ただただ楽しむ為に。


「あぁでも記憶を消したというのは間違いよ、私はあなたの記憶に鍵をかけただけ。だからしっかり鍵は開いたでしょう?私の目を見た時に、ウッフフフフ!!」


 ようやく気が付いた…俺は最初から魔女ユエルに遊ばれていたのだ。昨日のあの夜あの公園で…いや、もしかするとその前から…俺が気付いていないだけかもしれない。もしくは…この魔女ユエルに何かされて、それすら忘れさせられたのか…。

 あれ?今俺は悔しいのか?悲しいのか?恐怖しているのか?絶望しているのか?最早自分の感情が分からなくなっていた。非情な非現実が一気に押し寄せ、頭の処理が追い付かず、そして……いつの間にか俺自身が考える事を諦めていたから…。


「はぁ~~…姉様」


 俺が廃人へ片足を突っ込みかけたその時、大きな溜息と共に『パタンッ』と何かを閉じる音がユエルの真横から聞こえた。それは今まで我関せずと沈黙を貫いてきたもう一人の魔女、銀色の短い髪と同色のメガネをかけたロレンス家の次女―――ラル・ロレンスが本を閉じた音だった。


「あら?どうしたのかしらラル?」

「流石にやり過ぎです。このままでは我々の活動に支障が出ます」


 姉であるユエルに見られながら、ラルさんは右手の中指で『クイッ』とメガネの位置を直し、無表情ながら少々呆れ気味な物言いで斜め左に座る俺を指さした。


「…あらあら、確かにすこぉ~しやり過ぎちゃったかしら?」


 ラルさんに言われて改めて俺を見たユエル、そこには脳内機能が停止しかけているパンク寸前の俺が、ひらきっぱなしの口から魂を吐き出す勢いで脱力している姿があった。


「…御姉様…鬼畜」


 少ない口数ながらも的確に相手の急所を狙うような物言いと、可愛らしいが相手の奥底を覗くようなジト目、吹けば飛びそうで押せば折れそうな華奢で儚げな女性がラルさんに続いてユエルを非難する。それは今までマイペースにお茶を楽しんでいたロレンス家の三女、クリス・ロレンスさんだった。


「なっ…!?いいじゃない、少しくらい楽しんだって!」

「何事にも限度というものがあります。私達の目的は五条ごじょう しんへの接触と利用、脅迫して廃人にしてどうするのですか?」

「それは…」

勿論もちろん最大限利用する為に多少強引な手段が必要なのであれば構いません。しかし、私達にとって一番有益なのは五条ごじょう しんが自発的に我々に協力することです」

「…御姉様…ほどほど…大事」

「ああもう、分かったわよ!」


 二人の妹に苦言をていされたユエルは返す言葉がなかったのだろう、バツが悪そうな表情を浮かべて改めて俺の方を見た。


「はぁ…安心なさい。貴方あなたが私達の言うことを聞く限り危害を加えるつもりはないわ。素直に従ってくれさえすれば、貴方あなたの周囲に被害が出ないよう最大限努めるし、貴方あなたの家族の安全も保障する。だから安心なさい」

「…は?」


 安心なさい――その言葉を聞いた瞬間、俺の体を支配していた恐怖や動揺といったものは消え去っていた。


「ふざけんなよ…」


 目には熱い光が戻り、体には溢れるほどの力が戻り、俺は…全体重を預けていた椅子から震える身体をゆっくりと起こした。


「ん?」

「ふざけんなよっ!!親父と母さんを人質にしておいて安全は保障するだと!?安心しろだと!?人を馬鹿にするのも大概にしろよ!!」


 最早もはやユエルに対する恐怖心や己の命の事など頭にはなかった。あったのは目の前の女、この魔女に対する怒り…俺の大切な家族を巻き込んだユエルに対する純粋な怒りだけだった。


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