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窮地③

「おいしん、何をぼうっとしてる。私達も行くぞ」

「あ…いや…うん…あの、親父」

「なんだ?」

「俺…体調が悪いから部屋で寝てるわ…ごめん…」

「は?おっおい…!しん!?」


 この瞬間、俺の頭は到頭とうとう限界を迎えた。

 受け入れがたい現実に、俺の脳は考えるのを止めた。

 状況の整理を諦め思考を止めた瞬間、今までの疲労が精神と肉体をむしばんだ。

 頭は割れるような酷い頭痛に襲われ、全身は鉛のように重く、心は不安と恐怖で染まり切っていた。

 最早親父の呼び掛けに答える気力すら残っておらず、返事をせぬまま親父の前を横切り無言で階段を上り始めていた。


「(もう訳が分からない…きっとたちの悪い夢…そうだ夢なんだ。だから部屋に戻って寝よう…)」


 悪夢を見ているというのに自分の頬をつねったりせず、自室へ向かい寝ようとする己の矛盾した行動に俺は気が付かない。

 いや……気が付かないというのは間違いか。だって今の俺にとってこれが夢か現実かななんて、最早どうでも良いことだからな。

 なぜなら既に思考を放棄した俺が求めていたのは、疲労を少しでも回復させるための休息、一時でもこの場から逃れる為の時間だったからだ。

 まぁ仮にこれが夢でなくても元々挨拶を済ませたら戻って寝るつもりだったのだ。誰にも文句を言われる筋合いは無いし、そもそも俺がいなくなったところで何の問題もないはずだ。

 なんせ俺は大家の息子で、何の変哲もない只の大学生何だからな…。

 あぁ…これでやっと安心して休める…。


 ……

 …


「あらァ~?そんな寂しいこと言わずに一緒にお茶しましょう?でないと、お姉さん泣いちゃうわァ~」


 足が止まった。あと一歩で階段を上がり切るところだった。

 身体が固まった。呼吸と瞬きを一瞬忘れた。


「ンッフフフ」


 その薄気味悪い女の笑いは昨夜の悪夢を俺に思い出させる。

 身体の内側、肺や心臓といった臓器の表面にも大量の冷や汗が流れるような感覚に襲われる。

 勇気と力を振り絞り、何とか逃れようと身体に力を入れようとするが……俺の身体は微動だにしなかった。

 それは先程玄関で押さえ付けられた感覚、頑丈なベルトで体中を拘束され縛り付けられた感覚とは違う。

 それはまるで身体の中に数十万とある筋繊維一本一本の自由を奪われたような感覚で、首から下が完全な石になってしまったような…そんな感覚だった。


「逃げられると思っているのかしらァ~?」


 この不可解な現象の元凶ユエルは、俺の両肩に優しく添えるように両手を置き、真後ろから俺の耳元で囁いた。

 捕えた獲物おれの肌を舐めるように、絶対に俺が彼女ユエルから逃げられない事実を刻む為に、ユエルは俺の耳元で囁いた……俺より背丈が低いユエルが、階段を上がっている最中の俺の真後ろで、()()()()()()()()のだ。


「お…おれがいなくても…いいでしょう…」


 優しく置かれた、白く、細い、女性らしい華奢な手……だというのに、俺は自分の両肩が強力な万力で締め付けられている錯覚に襲われた。

 緊張の余り心臓の鼓動が速くなり、捻りだす声は震え背筋は凍る。

 動くはずの目も首と同じく1ミリと動かず、恐怖でジッと前を見詰めている。

 努めて平静を装おうとしたが……動揺しているのはバレバレで、何とか意識を保つのが精一杯だった。

 

「あらあら、何を言っているのかしらァ~?むしろ私達がお話ししたいのは、あ・な・た・だ・け・よ」

「なっ…!?」

「あらァ~?まだ分かっていなかったのかしらァ?存外お馬鹿さんなのねェ~貴方あなた


 後ろでユエルが嘲笑ちょうしょうを浮かべているのは容易に想像が出来た。

 しかし俺の心には苛立はなく、恐怖すらも不思議と和らぎ落ち着きを僅かに取り戻していた。

 なぜなら……今のユエルの言葉で全ての辻褄が合ったからだ。

 昨夜の公園での出会いも。今日親父が経営するアパートに引っ越して来たのも。さっき俺だけの動きを止めなかったのも。全て最初から意図的に俺を狙っての事だと、今彼女の言葉でハッキリとしたからだ。

 だがそれでも全てが腑に落ちた訳ではない。むしろ未だに理解出来ない事の方が多い。当然だろう?だって………俺には全く心当たりがないのだから。

 ユエルを始めロレンス家の3人とは初対面だ。恨みを買った覚えがなければ恨まれるいわれもない。

 だというのに……何故ユエルは俺に付きまとうのか?そもそもどうして俺なのか?その理由が俺には皆目見当が付かなかった。


「ンッフフフ。なぜ自分が?って顔ねェ~」


 顔が見えぬユエルが俺の表情を読み取り、背後で囁き笑う。


「そうねェ~話してあげてもいいけど、条件があるわ」

「…じょう…けん?」


 唐突にユエルの口から出た条件という言葉、一体どんな無理難題を突き付けられるのかと、俺は緊張で唾を飲み込んだ。


「うっふふ。そう…じょ・う・け・ん」


 ユエルが俺の耳元に楽しげの声を吹きかけた次の瞬間――――突然俺の身体は『クルンッ』と回った。

 

「っ…!?」


 何が起こったのか理解出来ない俺の視界には、今……1階へと続く階段が映っていた。


「それじゃあ行きましょうか」


 気のせいか先程より上機嫌に聞こえるユエルの声が、なぜか再び俺の真後ろから聞こえてきた。

 そして、階段の上で綺麗に回れ右をさせられた俺の身体は、俺の意思に反してゆっくりと階段を下り始めた。

 今度は口すら動かず声も出ない。

 出来るのは瞬きと呼吸、生命を維持する為の動きだけ。

 不気味な静けさが漂う家の中で、俺の身体は俺の意思を無視して一段一段噛み締めるように、ゆっくりと階段を下りて行った……。





「…御姉様…遅い…」


 ダイニングへと続く扉を開けさせられた俺を出迎えた第一声はソレだった。声の主はロレンス家の三女、癖のある長い銀髪が印象的なクリスさん。


「姉様、お遊びはほどほどにして下さい。無駄に時間が過ぎます」


 続けて俺を出迎えたのはロレンス家の次女、短いストレートの銀髪と無機質なシルバーのメガネが印象的なラルさん。

 二人は我が家のダイニングテーブルのリビング側、一番奥の窓際の椅子を空けて真ん中にラルさん手前の扉側にクリスさんと座り、扉を開けた俺の方を…いや、正確には俺の後ろの方を見ていた。


「むぅ~悪かったわよ。でもそんなに怒らなくてもいいじゃない、ねぇしん君?」


 俺の背後から聞こえる女の声、妹達に責められバツが悪そうに喋る女は俺に同意を求め、そして―――


「ほら、しん君も頷いてるじゃない?」


 俺の首を縦に振らせた。

 それはさながら子供のお遊び、身体の自由を完全に奪われた無抵抗な俺で遊ぶ、子供のお人形遊びだった。

 コレはこのユエルにとっては取るに足らない些細な事なのだろう…だが。己の意思とは無関係な意思表示をさせられた俺は、人としての尊厳を踏みにじられる屈辱を感じずにはいられなかった。


「姉様?」


 そんな未だにふざけるユエルを見てラルさんの眼光が鋭くなった。整った顔立ちはそのままで、目には相手にモノを言わせぬ力が宿り、声の音はとても冷たく、先程玄関で見た時の比ではない威圧感をヒシヒシと肌で感じた。


「は~い、分かったわよ。はぁ…じゃあ始めましょうか」


 一体何を始めるのか?ラルの圧を前にして小さな溜め息をついたユエルの言葉の意味を考えようとした瞬間、俺の身体は再び勝手に動いていた。

 扉を開けたところで止まっていた俺の足は一歩、また一歩と歩を進め、ダイニングテーブルへと近付いて行った。

 俺の身体の向かう先はダイニングテーブルのキッチン側、一番奥の窓際の椅子には笑顔で話していたのだろう…笑みを浮かべて凍りついた親父が座っていた。

 キッチンへと目をやると、そこには5人分のティーカップを準備した母さんが停止していた。恐らく紅茶を入れようとしていたところだったのだろう。

 先程の玄関の時と同じ状態である2人の様子を確認した俺は親父の反対側、今入って来た扉側の手前の椅子に座らされ、独特な雰囲気をまとうクリスさんと向かい合った。


「んっふふ」


 俺が席に着くと、今までずっと姿を隠していた声の主がようやく姿を見せた。

 宙を舞う羽毛の如く軽やかな足取りで俺が開けた扉から現れたユエル、浮かべる笑みはとても柔らかくさながら女神のように温かく……しかし、その女神のような優しい笑みが逆に俺の心臓を強く握った。


「あらあら、そんなに怯えなくて良いのよ?別に取って食べたりしないから」


 空いていたリビング側の一番奥の窓際の席、ラルさんの右隣で親父の真向かいの席、そこに流れるような所作で座ったユエルは緊張する俺の目を見てクスクスと笑った。


「ンッフフ。では、楽しみましょう」


 ……楽しむ?一体何を?


「言ったでしょう?これがその条件よ」


 俺の目を見てユエルが答える。頭に浮かんだ疑問に答える。 


「楽しい楽しいお茶にしましょうねェ~ンッフフフ!」


 上機嫌な女の声。たのしげな女の笑い。まるで女神と悪魔が同居したような…優しくも不気味な笑みを浮かべるユエルの笑い声が我が家のリビングダイニングに響き、そして……玄関で聞いたあの音―――『パチンッ!』と指を鳴らした音が、これから始まる長い長いお茶の時間を俺に知らせた。


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