窮地②
「えらいえらい。おねぇさん感心しちゃったわぁ~」
「え…?」
頭に伝わる柔らかい感触、耳を疑う優しい声、死を覚悟していた俺は…驚きの余り閉じたばかりの目を見開いた。
そして驚く俺の眼に飛び込んできたのは……艶めくサラサラな銀髪、白雪の様に白い柔肌、瑞々しいピンクの唇、そして―――まるで聖母の様に慈愛に満ち、我が子を慈しむように微笑む一人の美しい女性の姿だった。
優しく微笑み優しく俺の頭を撫でる女性、そこに先程まで浮かべていた悪魔の様な笑みの面影は微塵もなく、今自分の前にいるこの女性は本当に同一人物なのか?と疑いたくなる程に、目の前の女性は美しかった。
もし俺が今までの彼女を知らなければ、これが初めての出会いであれば完全に心を奪われていただろう。そう断言できる程に、この容姿端麗という言葉が似合う女性は美しかった。
「おねぇさん嬉しいわぁ~。こんな状況でも家族の事を一番に考えられるなんて、ただの変態腰抜け骨無しチキンじゃなかったのねぇ~」
だが性格は最悪だった。
「…御姉様」
俺が目の前の女の性格の悪さで我に返ったその時、ユエルの後ろから儚げな女性の声が聞こえた。
「あら、ごめんなさいねぇクリス。そうね、そろそろお茶にしましょう」
か細い声の主は、俺とユエルのやり取りを終始玄関に立って見ていたロレンス家3姉妹の三女、クリスさんだった。
今にも消え入りそうな声で呼ばれた長女はゆっくりと立ち上がり、俺に背を向けて三女に答える。
そして何事もなかったかのように、軽い足取りで俺から離れ、母さんの真横を通り過ぎ、脱いだ靴を履きなおして玄関に立ち、再び俺と向かい合った。
それはユエルが本性を現す前、俺や母さん達に異常が現れる前と全く同じ状況だった。
恐怖から逃れる為に壁まで逃げ、今も尚寄りかかっている俺だけを除けば…。
「ウッフフフ」
そんな無様な俺を見て長女は楽しげに笑う。
三女は眉一つ動かさずに玄関から俺のこと見る。
次女は何時から読んでいたのか?その手の中に収まっていた本を無言で静かに閉じ、消した。
「(え?本が光と一緒に消えた…)」
「あらァ~?いつまでそうやって床にヘタリ込んでいるつもりかしら?さっさと立ちなさい」
手の中にあった本が消えるという衝撃的な光景を目の当たりにし、呆気に取られている俺を尻目にユエルは少し強い口調で俺に命令した。
俺を挑発するような物言いのユエルに、僅かながらも残っていた俺の男としてのプライドが刺激される……しかし腰の抜けた俺の脚には力が入らず、立ち上がれそうな気配は全く感じなかった。
「はぁ~さっさと立ちなさい。私達はお茶が飲みたいの」
俺の情けない醜態を見て露骨な溜息をついたユエルが腕をゆっくりと動かす。
片方の腕を胸の高さまでゆっくりと上げ、人差し指を俺に向けた。
床と平行に向かい合った人差し指、次にユエルはその手を『クルン』と回転させた。
回された手首と床でへたり込む俺を指す人差し指、一体何をしているのか…そう俺が疑問を浮かべた次の瞬間―――俺の身体は浮いていた。
「!?」
ユエルが俺に向けた人差し指をクイッと曲げた瞬間だった。
こっちに来いとでも言うかのように、ユエルが天井を見上げていた人差し指を起こした瞬間―――俺の身体は強力な力によって引っ張られ、跳んでいた。
それはまるで重力の位置が俺の足元から正面に入れ替わったと錯覚するくらいの衝撃で、張り詰めた弓から放たれた矢の如く勢いで、俺はユエル達がいる玄関に向かって力強く引っ張られた。
「さぁ、立ちなさい」
そのユエルの言葉と共に宙を跳んでいた俺の身体は、まるで赤子を抱き締める様に突然宙で優しく急停止をし、ゆっくりと床に下ろされた。
そこは今も尚無言で佇んでいる母さんの真横、俺が先程までユエル達に挨拶をしていた場所、つまりは彼女達の目の前だ。
そこに俺は…直立不動で立たされていた。
まるで地面に根をしっかりと張った一本杉の様に、背筋を伸ばして立たされていた。見えぬ、分からぬ、不思議な力によって押さえられて…。
「お利口さんねェ~ウッフフフ。じゃあラル、お願い」
「はい姉様」『パチンッ!』
動けぬ俺の目の前でユエルは微笑み、右隣にいるラルさんに何かを指示する。
するとラルさんはゆっくりと右手を自分の目線の高さまで上げ――――『パチン』と指を鳴らした。
「奥様のお心遣い、本当に痛み入ります」
「いやですよ奥様だなんて!オッホホホ!」
次の瞬間、固まっていた親父と母さんが動き出し、母さんが喋り始めた。
それは宛ら再び再生された一時停止中の映画―――映画の中の人物は停止中に何が起こったのか知る由もなく。どれだけの間止まっていたのか知る筈もなく。止まっていたという事実に気付く事すらなく。一時停止していた場所から何事もなく再び動き出す。
嬉しそうにユエルと話す母さん。そんな母さんを若干呆れながらも見守る親父。優しく柔らかい笑みを浮かべて淑やかに話すユエル。無言無表情で佇むラルさんとクリスさん。俺以外の全ての人間が不自然なほど自然に振舞っている。
まるで…まるで俺だけがたった一人、あの止まっていた時間を過ごしたと錯覚するぐらいに。
「こら信、そこに立っていてはお客様の邪魔になるだろう」
信じられぬ事実と信じたくない現実、その二つに直面し半ば放心状態になっていた俺を呼び戻したのは親父の声だった。
「あぁ…」
親父に注意されて我に返った俺は、ユエル達が靴を脱ぎ始めていることに気が付いた。どうやらこれからお茶を飲むために我が家へ上がるところのようだ。
俺は親父に言われた通り、ユエル達の邪魔にならない位置に移動した。その際、俺の身体を押さえつける不思議な力は既になくなっていたが……俺がソレに気が付くことはなかった。
「うふふふ。とても楽しみですわ」
靴を脱いで家に上がったロレンス家の3人、母さんを先頭に我が家のダイニングへ向かうため俺の前を横切ろうとしたその時、母さんの真後ろにいたユエルが俺の方を見た。
重なる互いの視線、ほんの一瞬だが間違いなく俺とユエルの目は合い、そして―――俺の眼に映る真紅の瞳は妖しく微笑んだ。
その瞳は俺にハッキリと伝えていた。先程までの出来事が紛れもない現実であるということを…。
「……」
俺から目を離すと、ユエルは親父達に気付かれることなく、何食わぬ顔で妹達と一緒にリビングへと入って行った。
そんな彼女を俺はただ茫然と見送ることしか出来なかった。




