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窮地

「ああ…」


 妖しく輝く二つの真紅の瞳……それを見詰めた瞬間、不思議な力で固く閉じられていた俺の記憶の扉は大地を揺るがす火山噴火の如く大爆発により吹き飛び、爆発と共に噴き出した記憶達は山の斜面を流れる灼熱のマグマのように俺の脳内を恐怖で焼いた。

 止まらぬ震えと止まらぬ汗、その不気味な真紅の双眼から視線を逸らす事の出来ない俺の眼に映っているのは、この世のモノとは思えぬあの巨躯きょくの化け物よりも恐ろしい―――月光を浴びながら鳥肌が立つほどに美しい端麗たんれいな顔を歪ませる、あの女の姿だった。

 つまりそれが意味する事は、昨日出会ったあのばけものが今俺の目の前にいるこの女性――ユエル・ロレンスで、そしてユエル・ロレンスは今…我が家に引っ越しの挨拶をしに来た新しい住人という事だ。


「…あぁあああ!?」


 その事実を理解した俺は、腰を抜かしその場に崩れ落ちた。

 そして恐怖で力の制御を失った身体を震わせながら、少しでも、少しでも目の前の恐怖から距離をとるために後ずさりをした。

 しかし力が入らぬ身体をいくらバタつかせたところで距離は殆ど取れず…だが、目の前のばけものから逃れる為には身体を動かすしかなかった。


「ウッフフフ!ひどいわァ~まるで化け物を見るみたい。おねぇさん傷付いちゃうわァ~」


 そんな無様ぶざま足掻あがく俺を楽しげに見下ろしていたユエルが靴を脱いで我が家に上がった。

 必死に距離を取ろうとする俺を嘲笑あざわらうようにゆっくりと、ゆっくりと1歩また一歩と小さな歩を進め、俺との距離を大きく詰めて来た。

 それでも何とか逃れようと、俺は必死に身体を動かしたが……背中に当たった壁が無慈悲にも逃げ道が無い事を俺に告げた。


「!?おおおおりゃじ…!けっけいさす…!」


 背中で感じる絶望―――まるで断崖絶壁に追い込まれた獲物のような心境の俺は、何とかこの状況を打開すべく必死に考えを巡らせた。そして一筋の光、親父に助けを求めるという希望の光を見付けた。

 恐怖で口が思うように動かない。

 震えで呂律ろれつが殆ど回らない。

 だが仮に俺の言っている事がハッキリ聞こえなくても、俺の異常には間違いなく気が付くはずだ。

そうすればこの状況から逃れ……。


「(あれ…?そういえばなんでさっきから二人とも黙ってるんだ?)」


 そこで俺はやっと()()()()()()に気が付いたのだ。

 恐怖心から正常な考えが出来ずにいたが、冷静に考えれば親父も母さんもおかしい。

 どうして…どうして二人とも…()()()()()()になっているんだ?

 普通目の前で息子が変な声を出して震え始め、その場に崩れ落ちたら心配するはずだ。

 いや…そもそもユエルが口調を変え笑い出した時点で大騒ぎしてもおかしくない。

 更に言えば今ユエルは腰を抜かした俺を追い込むように迫って来てるんだ。力づくで止めるなり、大声を出すなり、何かしらの反応が全くないのは不自然だ。

 

「一体な…」

「あらァ~ようやく気が付いたのかしらァ~?」

「ひっぅ!?」


 突如目の前に現れた真紅の双眼。悪魔のような笑み。背筋を凍り付かせる声。


「ウッフフフ」


 昨夜の公園…俺を草の上に叩き付けた時と全く同じように、ユエルはしゃがんで俺の顔を覗き込んだ。そして俺の眼前には昨夜見たあの…背筋が凍るあの冷笑が広がっていた。

 どうして俺がこんな目に遭うのか?俺が一体何をしたのか?なんでユエルはこんな事をするのか?突然こんな理不尽な状況に直面し、俺の中にはそういった疑問や不満は確かに存在した。

しかし…そんな事がどうでもよくなる程に、俺は怖かった。目の前の女が、得体の知れないこのユエルが、ただただ純粋に恐ろしかった。

 だからこそ…だからこそだ、俺は助かりたかった。この恐怖から逃れたかった。平和な日常に戻りたかった。

 だって俺は―――何も悪い事なんてしていないのだから。


「た…」

「ん?なァにィ~?」


 喉まで出かかっているのに言葉が出ない。

 『助けて』という一言が恐怖で出ない。

 その一言さえ言えばこの地獄から解放されるはずなのに、目の前にいる女の微笑みが俺を震わせ身体の自由を奪っていく。


「た…た…助けて…くれ…」


 それでも何とか俺はその一言を口から出した。

 震える口と今にも涙が溢れだしそうな潤んだ眼でユエルに言った。

 次の瞬間――――目の前の女は、今まで見た中で一番の笑みを……極上の笑みを浮かべた。

 一度はほころばせた口元の口角は先程よりも更に鋭く吊り上がり、時折不気味に歪ませていた真紅の目は熱したバターのようにとろけ、整然と並んだ純白の歯は目の前の獲物に食らいつく準備をした。

 心満意足しんまんいそく―――この上なく心が満たされ極上の笑みを浮かべたユエルはこの瞬間を待ち焦がれていたのだ。哀れにも壁に追い詰められ、無様にも座りこみ震える事しか出来ない俺が命乞いするこの瞬間を。

 ゆえにユエルは笑った。

 俺から【助けて】という言葉を引き出して愉悦の表情を浮かべた。

 しゃがんで俺の顔を覗き込むその端麗な顔に、極上の笑みを浮かべたのだ。


「…親父と…母さんだけでも…」

「えっ!?」


 だが次の瞬間ユエルの表情が一変した。

 とろけた目を丸くさせ、大きく吊り上がった口は小さくなり、まるで俺の口から放たれた言葉が信じられないと言わんばかりの反応を示したのだ。


「…俺の事はいいから、お願い…します…」


 自分の呼吸が荒くなるのが分かる。

 心臓の波打つ速度が速くなり、鼓動の音が大きくなっている。

 怖い…恐怖で今にも泣きだしてしまいそうだ。だが絶対に泣く訳にはいかなかった。なぜなら俺は曲がりなりにも男だから…男の意地があるから。恐怖で声を震わせていても、全身を汗で濡らしても、そこだけは絶対に譲れなかった。


「ふ~ん…」


 その紅い瞳をシッカリと見詰め返し、弱弱しくも己の意地を貫いた俺を見ていたユエルの表情は無になっていた。そして一呼吸置いて、ユエルはゆっくりと俺にその手を伸ばしてきた。


「(あぁ…終わりだ…)」


 ゆっくりと俺に近付いて来るユエルの手、それを見た俺はこれから起きるであろう出来事を想像して―――――固く目を瞑った。


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