少女と影法師
黄昏時、井戸のそばにうずくまりしくしくと泣き続ける少女が一人。
辺りに人気は無く、陰鬱な泣き声が響き続けている。
「気が滅入るなぁ、やめてくれよ」
そんな少女に、声をかける影がひとつ。
年の近い少年のような声。この近所に住む子供なら、一度くらいは顔を合わせたことがあるはず。だが、彼女はその声に聞き覚えが無い。
声の主は、誰なのか。
振り返るとそこに、『影』がいた。
地に貼りついているはずの、影そのもの。彼女よりも少し背の高い人影が、声の主だった。
友達の影が勝手に動き出したら、こうなるかもしれない。
まず間違いなく、人間では無い。出会い方次第で、彼女は悲鳴を上げていただろう。
そうならなかったのは、それの話し方や身振りがあまりにも気安かったから。
「何なの、あなた?」
「見ての通り、妖怪だ。『影法師』と呼んでくれ」
日が沈んだ後は、彼達の時間。
彼らにとって、一日のはじまりはこれからだ。だというのに、いきなりすすり泣きなんて聞かされたらたまらない。
「暗くなる前に帰りな。一人で泣いてないで、家族に話を聞いてもらえば良い」
「まるで、人間みたいな事言うのね」
「別に不思議なことじゃないさ。付喪神って知ってるかい?」
長い年月を経た、器物から生まれる妖怪。影法師もそんな中の一体だった。
「大勢の人に使われて、長い年月を過ごしてきた。だから、人やその考え方には慣れてるのさ。ついでに言えば、化けられるようになったのも最近だ。妖怪らしさよりも人らしさが勝ってるんだろうね、俺は」
「……ふふっ、変わってるのね」
さらりとそんな事を言う影がどこかおかしくて、彼女は笑ってしまった。
目の端にはまだ、涙が溜まったままだというのに。
怖いもの、不思議なものであるはずの妖怪。
彼女の目の前にいるそれは、どちらとも思えない。とても身近で、親しみの持てるなにか。
自分が変わり者という訳では無い、と影法師は言う。
「俺は、タヌキの爺さまに化かし方を習ってるんだ。それで、稽古の合間に色々話をするんだよ」
そんな世間話のひとつにこんなものがあった。
「その爺さま、近所に住んでる庄屋さんと仲が良いらしいんだ。古い友達で、孫の自慢とか、世間話とか、人間同士みたいな付き合いをしてるって」
その妖怪の性質次第で、人間と友好的な関係を築く事も十分にあり得る。そこは人と変わらない。そして、逆も然り。
「人を食い物にするようなおっかない奴だって、もちろんいる。真っ暗にならないと出てこないだろう。けど、あまり遅くまで外にいると目を付けられるかもしれない」
少女にはその存在を感じ取れない、『出てくる者たち』に影は視線を向ける。
「だからさ、早く家に帰りなよ。親が心配するから」
「……また、あなたに会える?」
彼女が、何を言っているのか。
影がそれが理解するまで、少し時間がかかった。何も無いはずの顔に、僅かな動きが生じる。
「この位の時間は、大体いつもここにいるよ。知り合いなんて数える程しかいないからね。話相手になってくれるなら大歓迎さ」
表情だけでは分からずとも、声に想いが強く表れている。
影法師は微笑んでいるのだと、少女は理解出来た。
――――
少女は影と、頻繁に会うようになった。
話し相手として、遊び相手として。
その日もまた、彼女は井戸のそばで影の名を呼ぶ。
「影法師、いる?」
「ああ、ここに」
どこからともなく黒い霞が集まって、井戸のふちに腰かける少年の姿を形作った。
「今日はどうした? しょんぼりして」
「……私って、かわいくない?」
またか、と影は額に手を当てる。
「まーた何か言われたんだな」
初めて出会った日、彼女が泣いていたのも原因は同じ。
これまでにも、同じようなことはあった。そしてその度に影法師は、彼女の話を時間が許す限り聞いている。
「いい加減、どうにかした方がいい」
「そうじゃないの」
少女の言葉が、影のそれを遮る。
彼女は、そういう話がしたい訳ではなかった。
「影法師は、どう思う?」
「……あぁ、そういうことか」
意図を察した影は、こっちへおいでと手招きをする。その足元には、水の入った桶がひとつ。
覗いてみるよう言われた少女。水面に映る自分の顔は、眉がへの字を描いている。
影の黒い手が、そんな彼女の顔を覆った。
「少し、待ってな。良いものを見せてやるよ」
十数えるくらいの間の後に、手が退かされる。
その向こうにあったのは、いつも見慣れた彼女の顔ではない。化粧をした女の顔が、代わりに映っている。
少女が自分の顔に手を当てると、水面の像もそれに倣う。誰か、別人の顔が彼女の物として映されている。
「どうだい、大人になった自分の顔は」
「これが……?」
言われてみれば、母の顔に似ているようにも思える。だが、言われなければ気付かないほどに自分の顔とはかけ離れている。
綺麗だとは思うが、成長した自身の顔だと言われても信じられない。
「本当にわたしの顔なの?」
「そうだよ。化粧はさせたけど、俺が予想した『こうなるかもしれない』という顔さ」
「あなたの『予想』なのね」
「信用してないなぁ?」
影の手によるこの予想、まったく根拠のないものという訳ではない。
「最初に会った日、言っただろう。物として、人と長い時間を過ごしてきたって」
育ち、老いる多くの顔を見てきた。そんな経験に基づく予想が、水面に映るこの顔。
「お世辞に、こんな手間をかけたりしないさ」
「あなたの言うことは信じたいけど……」
そうするには予想と今の顔との、違いが大き過ぎた。
母親もきれいな人ではあるが、自分がそうなると思うことができない。
「……照れくさいからやりたくなかったが、しょうがない」
再び振られた影の手、その向こうには術の解けた元の顔。
「自分の目が、人より大きい自覚はあるか?」
真っ黒な指が、彼女の目を指す。
言葉を聞かずとも、呆気にとられた顔を見れば答えを聞く必要はない。
「そうかしら?」
今まで、自分の顔を人と比べて見たことなんてない。
少女は水鏡の像を見つめながら、自身のまなじりに触れる。
影は指で、自身の口角を上げた。真っ黒な顔で分かりづらいが、笑みの形を作っているのだと彼女には理解できた。
「笑ったり、泣いたり、何を考えているのかはっきりと顔に出るのさ。目は口ほどにものを言うって言葉、あるだろ」
笑った顔、怒った顔、悲しい顔、驚いた顔。自分で色々と表情を変えてみる。
すぐそばにあっても、見えることのない自身の顔。こうして確かめても、影の言葉が本当なのかは分からない。
「俺は、そういうところが良いと思う。……最初にあった日、あの日見たお前の笑顔は『雲から顔を出した月』のようだった」
「ほめてくれてるの?」
「それ以外の何だって言うんだ? 繰り返すけど、お世辞を言ってるつもりは無いよ。面食いってのとは違うけど、顔にはうるさいんだ」
「……元気でたわ。ありがと、影法師」
「そりゃよかった。さて、今日は何をしようか」
――――
水面に映る顔を変えた日から、影法師は自分の術を少女に使うようになった。
隠れ身、分け身、あるいは変化。
影であるからか、目を欺く術に長けた影法師。その技は日に日に上達していく。
強い光、白昼の日光などで術が解けるという欠点もあったが、少女の求めに応じていく内に克服されていった。
それを知った少女が、影にある頼みをしたのが事の起こり。
「遊びに行きたい?」
「そう。大人の姿で、隣の町へ行きたいの」
「なんで?」
「この間連れていってもらって、楽しかったから。大人なら、ひとりでいても大丈夫でしょ」
「そういう意味じゃないよ」
影法師は、そういうことが聞きたいのではない。
覚えた術のひとつに「影で包んだものを遠くへと運ぶ」ものがある。これを使えば行き来は楽になるが、問題はそれ以外のことだ。
「また親に頼めば良いじゃあないか。なんで俺に?」
「そんなの、あなたとも行きたいからに決まってるじゃない」
「……またしれっとそういうことを」
距離が近いから、こういうことを言ってもらえる。影にとっては嬉しいことだが、素直に喜ぶことはできなかった。
思ったことを素直に口にしてしまう、というのは良いことばかりではない。
出会った日、彼女が泣いていたのも「売り言葉に買い言葉」といった具合で友達とケンカをしたからだ。
「俺と行って、楽しいのかい? 日中は暗がりじゃなきゃ術は使えないし、姿も現せないよ?」
「影の中には居てくれるし、それならお話はできるんでしょ? 一緒に色んなものを見に行きたいの」
「……そういうことなら良いか。受けるよ、そのお誘い」
少女の持つ悪いくせ。それがこの「お出かけ」を、最悪なものにした。
大人になった彼女の姿は、人の目を引く。いい人も、わるい人も。少女は性質の悪い男たちに声をかけられ、対応を間違えた。
姿だけではなく精神も大人であったなら、彼らをうまくあしらうことができたかも知れない。だが彼女は、いつも通りの対応をしてしまった。侮られることを何より嫌う彼らには、最悪の対応を。
当然、少女は追い回されることになる。
影も彼女を助けることは出来ない。日光の下で術が解けないようにはなったが、新たに術をかけるのは無理だ。
逃げ回り続けているのもまずかった。影の術は効果が出るまでに多少の時間がかかる。足を止めたら捕まってしまう彼女を、助けることはできない。
影が手を出すことができるようになったのは、少女が捕まり物陰へと連れて行かれた時。
昼間でも暗く、人知れず危害を加えることのできる場所。
男たちの手が少女に伸びる寸前に、影の中から無数の手が伸びた。少女を囲む者たちを絡めとり、影の中へと引きずり込んでいく。
最後に残った一人の前に、いびつに歪んだ人型の影。男の首根っこをつかみ、頭と思しき部分で、男の顔を覗きこむ。
「俺たちが悪いのは分かってる。だが、それをさせるわけにゃいかないんだ」
少女にかかった変化は解けた。その本来の姿に、男の目が見開かれる。
「おかしな女だと思ったら……!」
「じゃあな」
頭頂が裂け、大蛇のような口が開き男を飲み込まんとする。
「化け物め」
「……その通りだよ」
ごくり、と男を一飲みにした影の大蛇は影に溶け、少女以外はだれもいなくなった。
はずれとはいえ、町中とは思えない静寂の中、影法師がいつもの姿を現す。歪みの無い、見慣れたはずの姿だが、少女の目にはそう見えない。
影の伸ばそうとした手に、小さな悲鳴が上がる。
「……しばらく姿を消す。落ち着いたら呼んでくれ、家まで送るよ」
こくり、と少女が頷いたのを確認した影は、再び闇の中へと溶けていった。
――――
「……あの人たちは、どこへ行ったの?」
家への帰り道、俯き黙り続けていた少女はようやく口を開いた。
「爺さまの住んでいる辺りへ送った」
術の先生であるタヌキの住処は、一日では行き来できない程度に遠い。近くに民家もあるので、まず迷うことはない。
「すぐには帰って来れない場所」の心当たりが、そこしか無かったのだ。
「後始末をお願いしたけど、怒られたよ。今日に始まった話じゃないけど、『気軽に術を使い過ぎ』だってね」
「そう……」
影法師が、人を傷つけるわけがない。実際、傷つけてはいない。
けれど、人が影の中に飲み込まれる有り様は、少女の頭に焼き付いていた。だから、いつものように話そうとしても、言葉が口から出てこない。
「良い機会だから、言うよ」
そんな彼女に構うことなく、影は言葉を続ける。
「何年か、ここを離れようと思うんだ」
「……え?」
聞き間違い、ではない。
「ウソよね」
「まさか、ウソや冗談でこんな事言うわけない」
「なんで!」
「……さっきも言ったけど、理由の一つは『気軽に術を使い過ぎる』からさ」
以前から、先生に注意されていた。
その人のためでも、むやみに術を使うもんじゃない。ここぞという時だけにしておきなさい、と。
影法師は今日、その言葉が意味するところを理解した。
「お前の姿が大人でなければ、ああはならなかっただろう」
「でも、あなたが助けてくれたじゃない!」
「助けられなかった、かもしれないんだぞ」
少女が連れて行かれたのが、もう少し開けた陽の入る場所だったら。影法師は何も出来なかっただろう。
「それに、新しくやりたいこともあるんだ。この辺じゃできないことだから、遠くへ行く必要がある」
少女は、言葉を返さない。
「今生の別れって訳じゃない。またいずれ、ここに戻ってくる」
大きな目に湛えた涙が、今にも零れ落ちそうだった。
「だから、……だからそんな顔で、俺を見ないでくれ」
決心が鈍ってしまう。何もない顔を背けることしかできない。
「さよなら、じゃないな。またいつか絶対に、絶対に会いに行く。だから、その日まで」
「影法師ッ!」
待って、と伸ばした少女の手が、何かを捉えることはなかった。
――――
急な別れから年月が経ち、少女は『大人の姿』へ近づいていった。
影法師の見立ては、概ね正しいものだったと言える。鏡に映る自身の顔を見るたびに、少女は影法師の事を思い出すようになっていた。
化粧をうまくできたなら、『影法師が作った姿そのもの』になれたかもしれない。しかし彼女自身の手では、そこまでうまくはいかなかった。
最近、この近辺に化粧をしてくれる化粧品売りが現れたという話を彼女は聞いた。
ただ商品を売るのではなく、うまい使い方を教えるために実演をしてくれる。
店こそ持ってはいないが化粧品以外も扱っていて、老若男女問わず装いの相談に乗ってくれるのだという。
もしかしたら、その人に頼めば「あの顔」を再現できるのでは。そう考えて彼女は、化粧品売りの下を訪ねた。
知り合いに聞いた通りの場所、そこに居たのは「うわさが本当なんだろう」と思わせる垢抜けた姿の男。
化粧がうまくできないと事情を話せば、すぐにやってみせてくれた。渡された手鏡を覗いてみれば、そこにあったのはかつて見たあの顔。違和感のない、『影法師が作った姿』だった。
郷愁からか、彼女の目に涙が溜まる。
「覚えていて、くれたんだな」
「えっ?」
突然の言葉に振り向くと、男が自身の顔を拭い落とした。
その下にあったのは、何も無い真っ黒な顔。今の自身と同じ、懐かしさを感じさせる顔。
「あなた、影法師!?」
「大きくなったな。俺も、見違えただろう?」
顔を元に戻して、人と変わらぬ自身の姿を「どうだ?」と見せる。
そうと言われなければ気付く事ができないほどに、精巧な業。触れた手に体温すら感じられた。
「お互い成長したってことだ。……本当ならこっちから会いに行くのが筋だと思ったんだが、お前の家が分からなかった」
うわさが立つほど前には、この辺りに戻ってきていた。しかし影は少女の家を知らず、訪ねていくことができなかったのだ。
「こっちに戻ってきてようやく気がついたんだ。よく考えたら、遊びに来てもらうばかりでこっちから行ったことは無かったな、と」
最後の日も、家の近くまでしか行っていない。
だから、仕事をして会える機会を待ち続けていた。
「やりたかったことって、これ?」
「こういう商売がしたかったかって意味なら、少し違う」
影法師は少女と別れてから、先生の伝手を頼って人の集まる都会へ行った。
まずは影の中から大勢の人を見て、人に紛れ込めるようになるまで変化の腕を磨く。
そうして何とか人前に出られるようになってからは、丁稚奉公のようなことを始めた。商売と、人の装いについて学ぶために。
「私に昔やってくれた『大人の姿』は、着物もお化粧も良かったのに」
「多少はな。だが、今ほどじゃない」
昔からできた理由もある。
影は、彼女に持たせた手鏡を指して言った。
「その鏡、何だか分かるか?」
「これ?」
言われてまじまじと眺める。
「けっこう良いものみたいね。高かったでしょ」
「いいや、買ったものじゃないよ。……俺の正体さ」
驚くようなことを告げられ、彼女は手鏡を落としてしまいそうになる。
「やるかな、と思っていたよ。そそっかしいというか、そういうところも相変わらずだな」
足元から伸びた黒い手が、落ちそうになった鏡を受け止めた。
万が一落ちたとしても、長く人と共にあり続けて力を持った物品だ。簡単に壊れる訳がない。
「大勢の女性の手を渡ってきた。特別にきれいな人も、それほどでもない人も、とにかく多くの顔を見てきた」
手に持った自分自身を、懐かしむように撫でる。
「そんなこれまでから思うのは、『目を引く外見が引き寄せるのは良いものばかりではない』ってことだ」
釣り合うだけの強かさがなければ、辛い思いをすることになる。
「お前が成長してそうなったかは、分からない。だが、こっちはそうなった時のために色々なことを身につけてきたんだ」
姿を変える人の技を覚えてきた。世渡りだって多少は分かった。
何かあっても、術に頼らず助けることもできるはずだ。
「だからこの鏡、使ってくれないか」
再び彼女に、鏡を手渡す。
これが言いたかった、これを言うために長い時間をかけた。
「昔とは違った形で、また側に居たいんだ」