第一話
「ほら、とっとと学校行きな!」
「飯食ってる最中だババア!」
平日の朝、ベッドから起きて飯食ってると母親が文句言ってきた。確かにちょっと寝坊して時間的にギリギリだが飯を食う時間ぐらいはあるはずだ。
「だいたいオトンは良いのかよ! まだパジャマだぞこのおっさん!」
「俺は今日と明日休みだから」
「そうだよ。あっ、それとお父さんと私は今日帰って来ないから。ホテルでディナーなのよ。うふふ」
うふふって言うかデュフフと笑うオカン。キッモ。ウチの両親はどこにでもいるフッツー夫婦ではあるが何気に仲が良い。これで美男美女なら様になっていただろうが、二人して若さを失った正しく中年の代表みたいな外見をしているので正直言ってキモイ。
「そうなると俺の飯は?」
「五百円やるから自分で用意しな」
「えー」
「えー、じゃないよ。お金あげるだけ良いと思いなさい。まったく、これなら紅緒ちゃんも愛想尽かす訳だわ」
紅緒とは隣の家に住む日下部さんの娘の名前だ。小学生の頃は一緒に遊んだ事もあったが中学に上がると段々と疎遠になっていった。
「愛想って……寧ろ自然だろうが。異性と無邪気に遊ぶのは小さい頃だけだろ」
「モテない言い訳にしか聞こえないよ。せっかくまた同じクラスになれたんだから、声かけなさいよ!」
「えっ、嫌だよ。理由もねえし」
「かーっ、駄目だねウチの息子は。お父さんからも何か言ってやってよ!」
「智彦……」
新聞に視線を落としていたオトンが顔をあげる。
「そのままじゃずっと童貞だぞ」
「ふーん。ごっそさん」
オトンの戯言を無視し、漸く飯を食い終えたので椅子から立つ。食器は重ねてシンクの中に放り込んだ。
「待て待て待てっ! それでいいのか息子よ!」
「寧ろそんな煽りをするオトンの方がそれでいいのかと」
「………………」
俺の言葉にオトンは黙り込み、オカンは犀川家の男二人に呆れた視線を向けていた。あんたのダンナと息子だぞ。
阿呆な両親を無視して家を飛び出す。このまま全力で走ればホームルームまでには間に合う。そう思いながら歩道を走っていると車道側でトラックが蛇行していて、スピードも出ていた事もあって横転して荷台に積まれていた物が勢いで飛び出す。
それは工事現場の足場などで使うらしき鉄のパイプの束だった。それらが倒れた弾みで固定具から外れて、一斉に歩道を走っていた俺を襲う。
「マジか」
「すいません遅れましたちょっと事故に巻き込まれたせいなんで決して寝坊した訳では――」
ホームルームがとっくに始まってしまっている時間、教室のドアを開けながら即席の言い訳を早口で言う。こういうのは勢いが大事だ。
危うく事なきを得たが事故に巻き込まれたのは本当で、気絶したトラックの運転手を倒れたトラックから引っ張り出したせいで遅れてしまったのだ。
このまま一息で説明しようとしたところで、教室はもぬけの殻なのに気付く。
「あれ、移動教室だっけ?」
首を傾げながら教室に入る。ホームルームがすぐに終わるのは珍しい。担任教師が年配で動作が遅くいつも時間が掛かる。そもそも一限目は移動教室でないし、椅子が倒れていたりと何だか変だ。
疑問に思っていると、開けっ放しにした後ろのドアがいきなり閉まる。直後に教壇を椅子にして誰かが座っているのに気付いた。
「あらら、遅刻? とんだ不良生徒がいたものね」
こいつ、最初からいたか?
降って湧いたかのように教壇に座っているのは一人の少女だった。全体的に色素が薄く、紫色の目をした綺麗な――綺麗、なのだろうか?
そいつの姿をより詳しく見ようとすればするほど、輪郭が朧げになり段々とあやふやになっている気がする。見えているのに覚えにくいと言うべきか、全体は分かるのに細部を見ようとすると分からなくなってくる。
「お前誰だ? ウチの生徒じゃないよな」
「神よ。平伏しなさい」
聞かなかった事にしよう。
「ここのクラスの連中は?」
「無視とは良い度胸だけど答えてあげるわ。こことは違う世界に私が送った」
「はぁ?」
「謂わば剣と魔法の世界よ。私の暇潰しで異物を混入させたの」
何を言っているのだろうかこの女は。だがふと心当たりがあって、クラスでもオタクとして有名な男子生徒の机を漁る。
「これ?」
「そうそれ!」
取り出したのはライトノベル。金髪で巨乳な美少女が表紙だ。せめてカバーぐらいしろと思う。
ともかくこの女はライトノベルの世界の事を言っているらしい。
現実とノベルの区別が付かない可哀想な奴らしい。
「うん、そっかー、なるほどなー。それじゃあもう一度聞くぞ、このクラスにいた連中はどこ行った? 分からない? あっそう」
途中でだるくなったので話を切って鞄を自分の机に置いて改めて時間割を確認する。やっぱり移動教室じゃない。そうなるとクラスメイト達はどこに行ったのだろうか。もしかすると俺が忘れているだけで何かあったのか。だが学校行事となれば他クラスも移動している筈だが、こっち来る途中で横目に見た限りは普通にホームルームをしていた。
一体何があったのだろうか? 面倒だから帰っても良いだろうか?
「無視してるんじゃないわよ」
「うおおおっ!?」
いきなり机と椅子が跳ね上がったかと思うと、俺の体もまた浮き上がり教室の壁にぶち当たるほど投げ飛ばされる。
「何しやがる!」
「私がやったって言ってるじゃない」
「…………よし、クラスメイトがいない事態にお前が関わっていると仮定しよう。どこにいる?」
取り敢えずこいつが何かしたと仮定しよう。手品か科学が知らないが理屈はどうでもいい。
「だからこことは違う世界」
「じゃあ連れて帰って来いよボケ」
「人間風情が何を命令しているのかしら。私は神よ」
「自称神サマね、ハイハイ。もう一回聞くぞ。みんなをどこやった? いい加減にしないと殴るぞ。俺は女だろうと大統領だと殴れる男だ」
「ハァー……」
愚か者を目にして疲れ果てたと言わんばかりの深い溜息を女は吐いた。こいつ本当にさっきから失礼だな。
「『お前は呼吸をするな』」
「――――」
女が言った瞬間、呼吸ができなくなった。一体どうやったのか。だがこいつが言葉を放った瞬間にその通りの事象が起きた以上、関係あるのは間違いない――よし、殴ろう。
「矮小な存在が神である私に舐めた口をぶぅ!?」
なんか言ってた女が俺の顔面パンチを受けて吹っ飛び黒板にぶつかる。
「は? え? な、殴った? 私を? ただの人間が!?」
「あっ、息できる。で、お前何?」
「何、とかこっちのセリフ……本当に人間!?」
「当たり前だろバカヤロウ。それよりもお前だお前。どうやったのか知らねえけど、人の息止めたりとかして……まさか本当にクラスの奴らを攫ったのか? だとしたら――」
「調子に乗るな人間風情が!」
女が叫んだ瞬間、見えない壁が押し寄せてきたかのように正面から押されて教室の後ろの壁に叩きつけられる。そのまま壁に磔にされる。
「私の顔を殴った罪は償ってもらうわ!」
喚く女を無視して、体を拘束する見えない力に抗って俺は壁に張り付いた腕を引き剥がす。次に頭、肩、足、最後に背中。
「死ぬより恐ろし……恐ろ……え?」
「雪だらけの道を向かい風浴びながら歩く感じだな」
北陸に住む祖父母の近所の道を掃除した時の経験が活きたな。
一歩一歩教室の床を踏みしめるように前進しながら手の骨を鳴らす。
「よし、何が何やらさっぱりだがお前が原因なのは確かだよな。自分で言ってたもんな。それじゃあクラスの連中をどこにやったのか白状してもらおうか」
自称神様の女に詰め寄る。理由も方法もさっぱりだが、何より大事なのはクラスメイトらが戻ってくるのかどうかだ。
「ヒッ、く、来るな!」
「お前が先にやって来たんだろが!」
怒鳴り、飛びかかろうとしたところで教室の床や壁、天井が強い光を発した。
視界が一瞬で真っ白となり、女の姿を見失う。次の瞬間、光が現れた時と同様の唐突さで消えたと思ったらそこは青い空がどこまでも広がり白い雲が浮いている場所だった。
つまり空の上に俺はいた。
ほんの僅かな間の後で、重力が仕事を思い出したのか俺は自由落下を始める。
「おいいいいぃぃぃぃいいっ!?」
当たり前に落ちていく俺。手足をバタつかせるが、一瞬浮いたかな? と思える程度で何の解決にもならない。
下を見れば森林の緑と大きく起伏の立った山々。落ちたら死ぬ。というか下が水でも死にそう。
「あの女かっ、あの女の仕業か! 次に会ったら有無を言わさずボコる!」
怒鳴っている間にも落下中だ。どうしようかと悩んでいると、落下の途中で巨大な鳥が飛んでいるのをを発見する。ジャンボジェット機サイズの鳥だ。あのサイズの鳥が飛べるのかはさておき、上手く上に落ちるか掴まれば落下死の心配は無くなる。
不意に、巨大鳥が緩やかにカーブし始めた。
「おいおい、離れるなよ!」
もう少しだと言うのに離れられたら掴まる物無くなるだろ。必死に腕を伸ばす。羽の先でも掴まる事ができれば落下は免れるのだ。チャンスは通り過ぎる瞬間のみ。
「うおおおッ!」
必死に伸ばした手が翼の先端の羽の先っぽを掴んだ。届いた! 絶対に手放すものか、なんて思っていると掴んでいる羽根が抜けた。
「抜けんのかよ!」
巨大鳥は明後日の方向に飛び去って行く。万事休すかと思ったが、落下速度が遅くなっている。どうやら持ったままの羽根が風を受けて速度を落としてくれるらしい。
これを縦ではなく横にすればパラシュートになるのではと思い引き寄せる。だが落下している状態で上手く姿勢を維持するのも難しくグルグル回転してしまう。
「これならどうだ!」
腕の力だけで羽根を横向きにさせて代わりに体を上に押し出して上に足を付ける。そうしてサーフボードのように立ってバランスを取る。
「おっ、ほっ? よっと……イケるなこれ!」
巨大な羽根が空気抵抗を受けて落下速度が落ちる。空を斜め下に滑空しているので落下地点も決めれそうだ。やれるもんだなと思いつつ、着地する場所を決める。
森の中に大きな湖があるのを見つける。滑空していると言っても速度はある。森の中に突っ込むよりは水の中に落ちた方がマシだろう。
螺旋の軌道を描きながら湖の上を滑空する。もう少しで着水できるだろう――と思ったところで湖の水面の下に大きな影が見えた。
なんだと思う暇もなく、水面から鯨サイズの魚が口を開けて飛び出して来た。
「は?」
そして、ギザギザの鋭い歯を持った魚羽根ごと食われて俺の視界は真っ暗になった。
「何だここ! 生物は何でもかんでもデカいのが普通か!?」
湖の中から這い出て悪態を吐く。湖の上では俺を丸呑みした巨大魚が浮いている。飲み込まれた時に中で暴れ回ったので気絶しているようだ。
服を脱いで吸い込んだ水を絞り落とす。ふと湖から水の音がして巨大魚が起きたのかと思ったが、見てみると巨大魚にピラニアっぽい魚が群がっていた。大きさは違えど見た目が同じなんだが、共食いか?
巨大魚の姿が消えてピラニアが立てる水飛沫が収まった頃には水に滲んだ血の一滴も残っていなかった。
「過酷だ」
絞りはしたものの服を改めて着るがやっぱりごわごわして気持ち悪いな。
それはそれとしてここどこだ?
地に足が付いて一息つけたところで考える。あんな巨大な鳥や魚が地球にいるとは考えにくい。もしかしたら未発見の生物かもしれないが二つともが同じ場所でほぼ同時に見つかる訳がない。
変な力持ってた自称神の仕業なのは間違いないだろうが、目先の問題としてここからどうするかだな。
現在地が分からない。空から見た光景は森ばかり。横切るように川が流れているのが見えたが人が住んでそうな街見えなかった。文明が川に沿って発展したとか歴史の授業で習ったが人いねえじゃん。
森の緑が邪魔で見えなかったのか、そもそも人間がいないのかもしれない。
取り敢えず湖から森の奥に通ずる川に沿って歩いてみる事にする。途中、何か食べる物も探しておこう。
寝る場所は……地面の上でもいいだろ。夏場はしょっちゅう外泊して騒いでアスファルトの上で朝目が覚めた事なんてよくある。
森、と言える場所には近所に山もあるしキャンプで入った事は何度もあるが知っている場所以上に緑が深い。咽せるほどの緑の臭いもする。人の手が入っていない自然とはここまで濃いものなのか。
気温は暖かいのだが、高所から落ちた上に服着たまま水の中を泳いだせいか体が重い。それと段々と暑くなってきた。横に川があるので都度水を飲んでいるが、この暑さはシンドい。
真夏のジメジメした空気よりは乾いているのが救いと思いつつ暑さに耐えながら暫く歩いていると、森の方から草が激しく揺れる音がした。
動物か、人か。デカイのとしか遭遇していないから若干警戒しながら音のする方を見てみると、森の中から毛むくじゃらの何かが飛び出して来た。
「キュッ!?」
そいつは俺がいるのに気付いて慌てたのか足を滑らせて転んで、コロコロと俺の足にぶつかるまで転がる。
何だこの生き物? 大きさは一メートル弱。焦げ茶色の体毛をしていて見た目がハムスターと言うか耳の短いウサギと言うか。なんか女子が好きそうなビジュアルをしている。それと首にスカーフのような布を巻いている。
「ペットか?」
短い手足をバタつかせて起き上がろうとするそいつを両手で持ち上げる。
「どこか近くの人が住んでるのか?」
持ち上げたまま顔を覗き込む。
「キュ、キュイ! キキュ、キキッ!」
「…………目に知性がある」
少なくとも近所のバカ犬と比べてとても賢そうだ。それに俺の顔を見返してビビっている感じの顔だ。そう思うと、ただの鳴き声だと思っていた声が俺の知らない言葉なだけのような気がしてきた。
あらゆる思わぬ現地人との遭遇!? と思っていたらまた森の方から茂みを掻き分ける音がした。顔を上げると、緑色の肌をした真っ赤なボサボサ髪の……鬼? みたいなのが立っていた。
ブッサイクな面で下顎が大きくそこから鋭く長い牙が唇の外に出ている。腰布を巻き、手には石の棍棒という原始人スタイルだ。
鬼は森の中からジャンプして俺の正面に大きな音を立てて着地する。そして上から俺を見下ろしてくる。
デカい。同年代の中でも背が高く高校入学当初はバスケ部とバレー部に勧誘されまくった俺だが、鬼は二メートル以上の身長とそれに見合う体格だった。
えーっと、もしかして原始時代でこの緑色の生き物がこの世界の原始人に当たるのだろうか? それにしても荒々しい外見だ。だが見た目で判断するのはいけない。例えば俺とか。
もしかすると捕まえたこのモコモコとした生物の飼い主かもしれない。そう、こんな見た目で可愛いもの好きとか、或いは嫁や娘のペットでお父さんが代わりに散歩していたとか、そういう可能性だってある。
モコモコは尋常じゃない暴れっぷりで逃げようとしているけど。
何にしても、コミュニケーションを図ってみる。
「えーっと、こんに」
挨拶をしようとしたら、強い衝撃が俺の頭を襲った。鬼が棍棒を振り下ろしたのだ。
視界が真っ赤に染まり、俺は膝から崩れ落ちる。殴られた所が火傷したみたいに熱く、血管が激しく脈を打っている。
悲鳴のように鳴きまくるモコモコの動物が鬼に捕まるのがボンヤリとする視界の端で見えた。俺には興味ないのか、緑の鬼は背を向け、モコモコの首根っこを掴んだまま立ち去ろうとする。
その肩を俺は掴む。
「おいコラテメェ、いきなり何してくれるんだボケ」
振り返った鬼の顔に驚きが満ちる。その顔を、腹パンでより歪ませる。
痛みと衝撃で鬼の体が『く』の字に曲がって棍棒とモコモコを落とし、地面に膝をつく。おう、いい感じの高さだな。
鬼の赤髪を掴み、引き倒しながら顔面に膝蹴りを叩き込む。鬼は顔の至る穴から青紫色の血を流すと、地面に完全に倒れて動かなくなった。
「ざま……あっ、ヤバいかも」
頭を殴られたせいか、フラフラする。体も重く気持ち悪い。それなのに血は熱く流れる感覚がする。これは駄目だな。
俺もその場で倒れる。おっかしいな、頭殴られただけでこうも調子が悪くなるなんてなかったのに。こういう時はさっさと寝るに限る。
瞼を閉じる間際、無事だったのかあのモコモコが俺の顔を覗き込むのが見えた。
次に目が覚めた時、俺はモコモコの国にいた。