とある英雄のその後 弐 ★
■ フェンリット
気づけば時間を示すために作られた法具――時計は、朝の一〇時半を指していた。
場所はベッドの上。
シアと姉さんが暴れまわった形跡が見られる。
掛け布団やシーツがぐちゃぐちゃになっているのだ。
既に二人の姿はない。今頃リビングで過ごしているのだろう。
せめて直していけよと思うけれど、それがあの人達なので溜息をついて諦める。
大体三時間は眠っ……気を失っていたらしい。
貴重な時間がこんな事で消費されたとは、何とも腹立たしい限りである。
シアの奴、これで「ニートの朝は遅い」とか言い出したら張り倒す。
乱れていた布団類を直し、服を着て、寝癖を押さえながら寝室を出る。
リビングへ向かうと案の定、家内の二人がいつも通りの様子で寛いでいた。
「ああ、起きましたか。おはようございます、フェンリット。朝食はテーブルの上に用意してありますよ」
白と青色の着物を着て、髪を後頭部で捻り上げて纏めたシアが言う。
彼女がお気に入りの格好だった。
言葉に従ってテーブルに視線を向けると、確かに朝食は用意されていた。
なんということはない、ザ・朝食といった品目だが、注目すべき点はそこではない。
これが、おそらく、二時間は前に用意されたものだという事である。
「ちょっと待とうか。なにサラっと朝のごたごたを水に流した風な顔で言ってんだよ。僕は腹部の痛みより温かい朝食の方が欲しいんだが。家人に美味しいご飯を用意するのはその日の料理担当の義務だと思うんだけど、そこんところどう思ってるのさ」
この家に住む三人は皆が皆それなりに料理が出来る為、料理当番なるものが存在する。
今日はシアの番だった。
料理を温めるくらい魔術を使えば容易いのだけれど、気持ちの問題があるだろう。
僕に言及される当のシアは悪びれた様子も見せずに、
「水に流すも何も、あれはお互い様という形で話が付いた筈でしょう? フェンリットだって言っていたじゃないですか。不慮の事故ですよ、事故。私としては最後の最後で裏切った貴方に物申したいところですよ」
料理の話題に一切触れやがらないぞコイツ。
加えて話の捏造ときたもんだ。
救いようがないね。
「話はついてないしお互い様でもないし。ともかく、僕の上に乗るのは禁止。そして僕はあの件で味方になった覚えなんてないから。あくまで僕は被害者だから」
「えー」
「えー、じゃねーよ。そして結局、僕の意識を刈り取った肘は誰のものなのさ」
唇を尖らせるシアに、僕は顎をくいっと持ち上げて尋ねた。
まあ実際の所、誰が犯人なのかはなんとなく分かっている。
ここで正直に答えるようなら態度を改めるつもりだけど、どうだかね。
案の定というかなんというか、彼女は面白いぐらいに頬をピクピクさせはじめた。
「だ、誰でしょうかね? 気が付いた時にはもうフェンリットは沈没していたので分からないです」
「下手な嘘をつくのはやめなって。目が泳いでる」
私です、と言っているようなもんだろそんなの。
頬を引き攣らせつつ、僕は朝食のメニューに注目した。それらを指先で軽くつつく。
「うわ、ほとんど表面カピカピじゃないか」
「それくらい魔術で温めればなんとかなるじゃないですか」
「そういう問題じゃないんだよ」
間髪入れずにつっこみを入れると、シアは少し考えるような表情を浮かべて、
「……ハッ! そう、フェンリットが起きてから調理するより、出来てるものを温めた方が手っ取り早いしすぐ食べられると思ったんです。これは私の、きっとお腹が空いているであろうご主人様への精一杯の思いやりなんです!!」
「ふふーんみたいな顔されても。それ確実に今思いついたよな。変な間があったよな。真っ赤なこじつけだよな」
「そんなことないですって。フェンリットは私の命を救ってくれた恩人なのですから」
「お前はその『命の恩人』の胃にストレスを与えたり肘鉄を喰らわせたりしているんだけど弁えてるのか?」
「それに、私はフェンリットの事を信頼しています。これくらいの事で怒るような人だとは思っていません」
「自分の非を認めてるじゃねーか! そして信頼にかこつけて僕の行いを不当にサゲるな!!」
コイツどさくさに紛れて自分の罪を肯定した挙句こっちが悪い風向きにしやがった。
Be cool……落ち着け僕。苛々していても意味がない。
シアだって普段はいい狐なのだ。
それに、九割九分彼女が悪いとしても、僕に裸を見られた事実は変わらないのだ。
そう考えると僕も少し悪かったかなぁなんて思えてくる。
「(……でもやっぱり、たまにイラっとさせてくる所が惜しまれるよな本当に)」
「なにか言いましたか?」
「普通にしてれば気遣いも出来るし見目も綺麗だし文句なしのパートナーなのに」
「なっ、い、いきなり褒められても困りますが!?」
「たまにポンコツだし」
「ポンコツとは酷い言いぐさじゃないですか? 私は自分がそこまで抜けているとは思いません」
「時折うざいからなぁ」
「あ、あ、上げて落として更に落とすとは面妖な……」
はぁ。
心の中で溜息をつきつつ、僕はリビングで寛ぐもう一人の姿を視野に収める。
ソファに腰を掛けた少女――姉さんは、一冊の本を両手に持って読んでいた。
長いとはいえない足を組んで読書をする彼女は、どこからどう見ても最年少なのだが年齢はこの中で一番上である。
合法ロリというやつだ。
朝は見えなかった、右頬から額にかけて右目を貫くようにして走る赤い紋様が目立っている。
黒風の魔女・シュトルム。
それが彼女に付けられた名だった。
顔の右半分を除けば魔女らしさなんて感じられない姉さんは、僕の視線に気が付いたのかこちらを向く。
「……どうしたの」
「え? ああいや、なんでもないよ姉さん。ぼーっとしてただけ」
「……わたしの裸でもおもいだしてた?」
「ブフッ!」
突然姉さんから放たれた言葉に僕は思わず吹きだした。
いきなり何を言い出すんだろうこの義姉は。
「いや!? 言っておくけれど僕は姉さんの裸ほとんど見てないからね!?」
「嘘。ガン見だった」
「嘘じゃないって! 見る間もなく撃沈したって!!」
声を張り上げるも、姉さんは取り合ってくれない。
「視線をヒシヒシ感じてた」
「いいよもういいよこの話題やめようよ!! 誰も幸せにならないからさ!!」
「誤魔化さなくてもいい」
「誤魔化してないから!?」
「昔はいつもいっしょにおふろはいった」
「なんですって!?」
「子供の時の話だからああああああああああああああああ!!! つーかシアもそこだけ食いつくなッ!!」
なんで今日の姉さんはこんなにも炸裂しているのだろう。
いつも以上に喋る気がするし、天然な部分が全力で前に押し出されている気がする。
眠たげな目付きをした姉さんはやり取りに満足したのか、本を閉じてソファから立ち上がる。
側にあった机の上にその本を置き、僕の元まで歩いてきた。
「座って」
「???」
椅子を指す姉さんを見て首を傾げる。
元々これから食事をする予定だったので、自分の朝食が置かれた場所に腰を下ろした。
すると姉さんは僕の後ろに回り込み、静かな声で術韻を紡ぐ。
「始祖の水よ」
水属性汎用術式。
空間に漂う『水器』が姉さんの魔力と混じり合い、術式を演算。
事象を引き起こす。
現れたのは無数の小さな水滴だ。
それが姉さんの意思に従い、ふわふわと宙を舞う。
彼女が展開したのは『水を生成する』術式。
もっとも簡単で単純な汎用魔術の一種である。
……何をするつもりなのか分かった。
「姉さん、寝癖くらい自分で直せるよ」
「……だまって直されるの」
「……はいはい」
シュトルム姉さんは、捨て子だった僕の『育ての親』だ。
僕が赤ん坊の頃から姿は変わっていないけれど、『母親』のような存在であることは間違いない。
なら何故、僕が姉さんと呼んでいるのかといえば答えは簡単だ。
姉さんにそうしろと言われたからである。
単純に『母親』という立ち位置が嫌なのか、『姉』という立ち位置になんらかのこだわりがあるのかは分からない。
でも、時々こうして『姉の様な振る舞い』をする辺り、きっと後者なのだろう。
振る舞い、なんて言い方をすると取って付けた印象を与えるかもしれないが、彼女の行動は至って自然体だった。
生み出した水滴で適度に僕の髪を濡らし、寝癖を直していく。
冷たい感触を撫でられる手付きをくすぐったく感じながらも、僕は自分の事に意識を向けた。
「熱量操作、上昇変化」
シアが用意した料理に軽く触れつつ術韻を唱える。
その名の通り、対象の熱量を操作する魔術だ。
細かな調整は術者の腕に左右されるが、その点に関しては全く問題はない。
時折シアが今回の様な真似をしでかすので、その内に熟練していったのだ。
不本意かつ納得のいかない理由ではあるけれど。
自分の舌に合う丁度いい温度まで上げると、カピカピだった表面が良い具合にとろけ、美味しそうな匂いが漂ってくる。
悔しいがシアの料理の腕は結構高いのだ。
そうこうしている間に姉さんの方も終わったらしい。
「……ん」
「ありがとう、姉さん」
「どういたしまして」
短い会話を終え、僕の後ろからいなくなる姉さん。
と思ったら、彼女はテーブルを挟んだ向こう側……僕の正面に陣取って椅子に座った。
相変わらず眠たそうな目付きだが、その瞳にはなにやら真剣な色が帯びている気がする。
「フェンリット」
「ど、どうしたの姉さん? なんか今日はいつもと違うね。どこか調子悪かったりする?」
「……あなたにだいじな話があるの」
姉さんは口数が多い方ではない。
魔術の修練や、シリアスな場面では饒舌になるのだが、私生活を送る上では彼女の言葉数は非常に少なかった。
だから、姉さんの口数が少しでも多くなると、僕らは無意識に表情が引き締まるよう調教されていた。
それが何かしら重要な話題の可能性が高いからだ。
居住まいを正し、姉さんの目を見つめる。
シアもシアで寝ていた身体を起き上がらせて姉さんを見ていた。
二人分の視線を受け止めた姉さんは、やがてその小振りな唇を開く。
「……わたし、家出するから」
「…………………………は?」
――思わず呆けた声が出てしまった。
シアもその宣言が予想外だったからか口を半開きにしている。
なんていうかアイツ、本当に残念美人だな。
だが姉さんは至って真面目なのか、眠たげな目付きで真っ直ぐにこちらを見ている。
僕は一瞬で真白になった頭を働かせながら、
「え、あ、うん……あれ? これは僕の認識がおかしいのかもしれないけれど、家出っていうのは宣言するものなんだっけ? 嫌なことがあった人が、家族に何も言わずにひっそりと出ていくようなのを差すんじゃなかったっけ?」
「その考えで合ってるはずですよ、フェンリット」
「だよね。そうだよね」
シアのフォローに少し安心しながら息をつく。
これはもしかしなくても、姉さんの天然力がシリアスを上回ったという状況なのだろうか。
というかそれ以外に考えられない。
すると姉さんは、間違いなんて無かったかのようにもう一度口を開いた。
「わたし、いえを出るから」
「う、うん、そうだよね……で、どうして突然そういう話になったのさ?」
さっきの一幕のせいで完全に気が抜けてしまった。
なのでつとめて気楽な語調で姉さんにそう尋ねた。
少なくとも僕がこの家に住んでいる間、姉さんは何処か別の場所を宿にしたことは無いはずだ。
僕が此処を離れていた一二歳から一七歳までの期間については、何も聞かされていないから知らないけれど。
僕の問いかけに、姉さんはいつものゆったりした声で応じる。
「……すこし、用事ができたから」
「用事……ね。まあ深くは詮索しないけれどさ」
姉さんだって人間だ。
ずっと山奥に篭っているのを苦に感じる時だってあるのだろう。
右目と赤い紋様に関しては、大きな眼帯を使えば隠すことが出来る。
そうすれば、人里に下りても問題はないはずだ。
色々と心配なところはある。
でもそれを話したところで姉さんは考えを曲げないだろうし、黙って見送ろう。
「……そこでフェンリットに提案なんだけど」
「提案? もしかして僕に着いてこいとか? 別にいいけれど、そうしたらシアも一緒に来ることになるよ」
「なんですか、そのちょっと厄介な人を扱うような言い草は」
ジト目のシアを無視して続ける。
「それでもいいなら一向に構わないよ」
「私はフェンリットの『守護獣』でもありますからね。一時も離れる訳にはいきません」
「いや一時は離れるようにしろよ例えば寝床とかな。プライベートもなにもあったもんじゃない」
「なんですか? 何か見られたくない疚しい所でもあるんですか……?」
「あってもなくても尊重されるものだと思うんだけど」
シアはなんていうか、真面目でクールな時とお馬鹿な事をする時の差が激しすぎるんだよね。
そんなやりとりをしつつ、僕は再び姉さんへと視線を向ける。
「で、結局のところどうなのさ?」
「……これを機会に、フェンリットもいえを出るといい」
相変わらずの眠気眼で僕を見つめながら彼女は続ける。
「フェンリット。あなたは外にでていた四年間をのぞいて、一五年もこの山奥にこもってる。それはきっと、あなたぐらいの人にとっては『普通』じゃない」
「……、」
「そして、外にでていた四年間にしてみても、けっして良い時間だったとはいえないはず」
否定、できない。
もともと否定なんてするつもりはなかったけれど。
「だから、いつまでもこんな寂れたばしょにいないで、外の世界にでてみるといいよ」
そう言う姉さんの表情はとても柔らかい。
最近見る事がなかった、優しい顔つきだった。
彼女は僕の秘密を知っている。
首も据わっていない赤ん坊のまま捨てられていたらしい僕を拾い、育ててくれたのが姉さんだ。
山の奥で、誰も近寄らないような場所で、彼女はたくさんの愛を注いでくれた。
救われたのは身体だけじゃなかった。
だから話した。
僕が抱える『秘密』を。
「……ここはだいじょうぶ。強い魔物が沢山いるからもともと人はよりつかないし、結界の術式を付与した法具を置いておく」
「――そっか。ならなんの心配も無い訳だね。強いて言うならば、姉さんがどこかで行き倒れないかくらいか」
「フェンリット、それはちょっとわたしをバカにし過ぎかも」
「ははは、冗談だって。姉さん、普段はおっちょこちょいで天然で間が抜けてるところあるけれど、いざという時はしっかりしてるもんね」
なにはともあれ、姉さんなら何とか上手くやる事だろう。
気になるのは期間だけれど、尋ねたところで「決まってない」と返ってくるのは目に見えている。
自分から言ってこない辺りからお察しだ。
シアは僕の動向に注意を向けている。
彼女は僕がここを出ると言えば着いてくるし、ここに残ると言えばそれに従うだろう。
それが僕とシアの関係性。
限りなく主従に近しいそれ。
……シアには戦いに巻き込んだりとそれなりに迷惑をかけている。
思い返せば、彼女はこの世界を碌に知らないはずだ。
なら、シアに色んなものを見せてやるのもまあ、悪くないか。
僕も大して世界を知っている訳じゃあないけれど。
「分かったよ。折角だから、少しばかり漫遊してみようか」
「……そうするといい」
シアは無意識にか白い尻尾を揺らし、姉さんは薄らと微笑みを浮かべた。
「一先ずの目的地としては『迷宮都市』になるのかな。なんだかんだであそこはまだ行ったことが無かったし」
「『迷宮都市』と言えば、世界で最も冒険者が多く集まるという場所でしたか。迷宮の存在が街を繁栄させたとか」
「迷宮があるから冒険者が集まる。冒険者が増えれば需要供給も大きくなる。と、おおよそそんな感じだね。どうせ僕には戦う事しか出来ないから、そこらでまったり稼ぎながら生活するのも悪くないだろ」
「私はこのままここで過ごすのも悪くはないと思っていますが」
「素直なのはその尻尾だけか? まあ、それに関しては僕も同じだけどさ。でも折角なんだ。あっちとは違うこの世界を色々見て回りたいだろ?」
「ふふふ。なんにせよ、私はフェンリットと一緒ならどこでも構いません」
シアはニコニコと笑顔を浮かべながら尻尾を揺らす。
彼女との付き合いはそれなりに長いが、向けてくる感情が『命を救われた恩義』なのか『いわゆる恋愛方面のソレ』なのかは未だに分かっていない。
どちらにせよ、今の彼女は『僕と一緒にあるべくして生まれてきた存在』なので、それこそ本当に僕が死ぬまでは一緒なんだとは思うけれど。
願わくば、危険なことをせずに平和に過ごしたい。
そんな思いを馳せながら、僕はこれからの事を考えるのだった。