1-13 死ねない理由
瞬きするのを忘れた身体は、硬直したままで動かない。次第に瞳が乾いていき、視界が霞む。唇は震え、顔は真っ青になり、体温が下がっていく。
ノルマンドの言葉はそれほどまでにフェンリットを蝕んでいた。
当事者からの直接的な糾弾。
それが、胸の中心に杭を撃たれたかの如く響いた。
《フェンリット、フェンリット!!》
頭の中にシアの声が響き渡るが、フェンリットに応じる余裕は無かった。
今はもう地図にない『ヌルの町』、そこに住んでいたノルマンドの家族、それを含めた全てを殺して生き残ったフェンリット。
何一つとして、彼が否定できる事柄は存在しない。
全てが事実であり、過去であり、現実だった。
もはや誰を、どんな人を殺したかすら覚えていない程に殺しているフェンリットは、ノルマンドの家族が本当にいたのかなんて分からない。
それを証明する手立てなんてない。
フェンリットを混乱させるために、ノルマンドが嘘をついているのかもしれない。実は家族は生きていて、ヌルの町に住んでいなくて、今も平和に暮らしている可能性だってある。
だけど。
だけど彼が向けてきた憎悪は紛れもない本物だった。
ならばきっと、フェンリットは殺してしまっている。
記憶にすら残らない方法で、無残で残酷な終わりを突き付けてしまっている。
そう考える方が簡単で、間違いが無かった。
「町に戻ったはずなのに、そこに町は無かった」
ノルマンドは告げる。
「瓦礫が散らばり、形を残した家なんて一つもない。人の姿なんてあるはずもなく、死体さえ形を残してるものは無かった」
「……、」
「町の住民は、俺の家族は、人として死ぬ事すら出来なかった。まるで塵のように、無残に殺された訳だ」
ノルマンドの言葉が容赦なくフェンリットを串刺しにする。
彼の言う事に間違いは無かった。
覚えている。全て、完全に記憶している。
一日の内に廃墟――瓦礫の山となった一つの町。あの惨状の中に、人としての存在を保った死体はなかっただろう。
「俺は必死に探した。母親を、父親を、たった一人の妹を。だけど見つかるはずがない。そもそも『人』があの場所には無かった。家族と過ごした思い出? 大切な宝物? あったはずだった。あの場所には全部があったはずだった。それも全部、貴様のせいで失った!!」
――冒険者であったノルマンドは、いくつかの町を転々としていた。
よくて中堅だった彼は、即席で色んな冒険者とパーティを組み、依頼をこなしては実家へと仕送りをしていたのだ。
それくらい、普通の冒険者だった。
どこにでもいる、ただの冒険者だった。
そんな彼が久しぶりに故郷へ帰ろうと、竜車の席を買い、長い時間を掛けて移動している途中に。
ヌルの町が、無くなったという話を耳にした。
噂ではない。
実際にヌルの町へ赴いた冒険者が、そこにもうヌルの町が無かったのだと、別の町で話していた。
彼は走った。
既にない町へと向かう竜車は無いと言われ、ひたすらに走った。息を切らし、汗を流し、自分の故郷が無くなっているかもしれないという現実に頭を真っ白にしながら、駆け抜けた。
――そして、辿り着いた彼の視界に広がったのは、瓦礫の海だった。
「なあ、御嵐王」
ノルマンドは【無定の大鎌】をフェンリットに突き付ける。
「英雄気取りのクソ野郎」
虫ケラを見る様な目で、彼は告げる。
「あの町に住んでいた全ての人と、その人々に縁のある全ての人に懺悔しながら――死んでくれ」
動き出す。
今まで活動を停止していた魔王が、その巨体で風を切ってフェンリットへと接近する。
【無定の大鎌】を構えたノルマンドが、黒いローブをはためかせて駆ける。
フェンリットの反応は、著しく遅かった。
「――ッ」
伸縮自在、リーチ不定の黒鎌を避けると、その先には魔王の巨大な拳。
横殴りの一撃を、いくつかの物理障壁と肉体硬化でやり過ごす。だが衝撃は殺せるわけもなく、軽々とフェンリットの身体は吹っ飛んだ。
進行方向に聳え立つ木に激突。
「ぐっ!?」
肉体硬化はしていたためそれほどのダメージはなかったが、肺から空気が押し出されて苦痛が全身に広がる。
追撃の手を止めない敵ではなかった。
ふと視線を上げれば、そこには遠方から伸びてきた【無定の大鎌】。刃の先はフェンリットへ向けられていて、それはただ振り落とされた。
無理やり身体を捻ってそれを回避する。
黒い鎌は地面に深々と突き立った。
《フェンリット!! 聞こえていますか、フェンリット!?》
シアの声がどことなく遠く聞こえてくる。
フェンリットの頭を支配していたのは、どこまでも続く空白だった。
あの男の目的は復讐だ。
最後に顔を見る事も出来ず、家族全てを失った。
その惨劇の張本人であるフェンリットを――御嵐王を殺す。
厳密に言えば、アレをやったのは御嵐王ではない。ましてや、表では誰がやったのか何も知られていない事件である。
その犯人を知っているノルマンドは不可解だった。
だけど彼にとって、そんなものはどうでもいい事柄なのだろう。
真偽がどうとか、どういう理由があったとか、そんなものに耳を貸す必要はない。
目の前に仇がいる。
だから殺す。
復讐する。
それだけだ。
――そして僕は、
視界を覆い尽くす、魔王の黒い巨体。
――彼に殺されても仕方がないクソ野郎で、
両手を組み、真上に掲げた魔王は、圧倒的膂力を持ってして止まったままのフェンリットを叩き潰す。
それを直前で回避したフェンリットは、視界の端でノルマンドが嗤っているのを見た。
――ここで、彼に、殺されるべきなんじゃ……
魔王の身体に穴が開く。
それは、唐突に空洞が出来たという意味ではない。
魔王を挟んだフェンリットの反対側から、縫い影が突きぬけてきたのだ。
《フェンリット!!!!》
完全なる不意打ち。
魔王が再生する事を前提にした、死角からの攻撃。
直前に響いたシアの声だけを頼りに、頭部を狙ったその黒い槍を、首を傾けて回避する。
だが、完全に避けきる事は出来なかった。
ピシッ!! という音を発てて、狐の面が深々と抉れた。
《うぐッ――!?》
頭に、シアの呻き声が響く。
瞬間。
冷水をぶっ掛けられたように、フェンリットの意識は覚醒した。
「――シア!!」
焦った声でシアに呼びかけるフェンリット。ノルマンドはシアの存在を知らないため、唐突なフェンリットの言葉の意味を理解する事は出来ない。
【力ノ帯】の状態でもそうだが、基本的に装備となっている間、その装備についた傷=シアの傷となる。それもあって、フェンリットは特に面積の広い【風ノ衣】を装備して戦いたくなかった。
その事が、頭から抜けきっていた。
ノルマンドの言葉の衝撃で一杯一杯になっていた。
顔を顰めるフェンリット。
対してシアはようやく声が届いたと小さく微笑む。
そして、覚悟の籠った声でシアは言った。
《フェンリット。私の大切な人。これだけは覚えていてください》
いつも自分を助けてくれるパートナーの。
温かな感情が、冷めきっていた身体を包み込む。
《あなたが死ねば、私はその後を追います》
揺るがない意志が伝わってきた。
言葉で説得する事は叶わない、そう思わせるほど気迫の籠った声だった。
きっと彼女は、ここでフェンリットが死ねばすぐにでも自分の命を切り捨てるだろう。
自分の命を捨てるような真似をすれば、それは同時にシアをも殺す事となる。
ならば。
フェンリットが取るべき選択肢は。
――たった一つに、絞られる。
「……簡単に死ねないな、まったく」
《ええ、そうですよ。少しでも私の事が大事だと思っているのなら、お願いですから自分の命を粗末にしないでください》
「――少しじゃないよ」
そこで初めて、彼は余裕のある微笑みを浮かべた。
「少しなんかじゃ、ない」
何を馬鹿な事をしていたんだと、フェンリットは思う。
確かに自分はクソ野郎なのかもしれない。どうしようもない最低な人間なのかもしれない。
だが、今目の前にいるこの男はなんだ?
女の人を痛めつけ、人質に取り、魔王を支配し、魔物を集めて町にけしかけようとしている。いや、既に町の方では防衛戦が始まっているはずだ。その前には、ドラゴニュートなんて強力な魔物を引きつれ、実際に町を襲撃している。あの騒動で怪我人も出た事だろう。防衛戦では、死者だって出るかもしれない。
そんな騒動を起こしているこの男は。
これから惨劇を起こそうとしているこの男は。
掛け値なく、フェンリットと同等のクソ野郎ではないか。
理由があったのかもしれない。
自分の家族を殺され、故郷を滅ぼされ、憎しみに駆られた結果、今の彼があるのかもしれない。
だがそれは、関係ない他の人を傷つけて、殺しても良い理由とはならない。
彼が殺していいのはフェンリットだけ。
仇であり、復讐対象であるフェンリットだけなのだ。
――だけど、僕はまだ死ぬわけにはいかない。
フェンリットの瞳に意思が宿る。
生気が戻る。
魔王とアマーリエのリンクを断ち、不滅の効果を無くして魔王を滅ぼす。
ノルマンドの攻撃を無効化する力に対処して、奴を倒しきる。
町へと襲い掛かる魔物達を殲滅し、人々を救う。
やるべきことは多い。
だが、やらなければならない。
復讐を否定できる身ではないけれど、それでも、誰も幸せにならない悲劇の物語を生み出さないために。
――攻略、開始だ。