街-2-手をつないでお買い物
一本橋の正面は突き当たりの石の壁になっていて、左へ曲がると階段がある。
折り返しの踊り場を経て、もう一階分くらい階段を上ると、街のメインストリートらしき場所に出た。
メインストリートは市場になっていた。
道の両側に所狭しと色とりどりのテントが出店し、様々な品物が無造作にばらまかれた宝石のように陳列されている。
見たこともない野菜や果物、宙吊りになった大きな肉や、今水揚げされたばかりの魚や貝、手の込んだ紋様の更紗や、その他わけのわからない物たち。
初夏の日差しがそれらの品物に反射して、激しいコントラストを与えている。
市場は、夕飯の買い物をする人たちで溢れていた。
老若男女様々な人たち。
道行く人たちは、パステルカラーの、ゆったりとした服装をしている人が多い。
みな、安らかな表情をしていて、思い詰めたようだったり、不機嫌そうだったりする人は一人もいない。
この世界にはエリスの他にも人がいるのだ。
「人がいる……。みんなこの世界に暮らしているのか?」
「そうだよ。みんな絵を描いたり、詩を作ったり、楽器を演奏したり、お話ししたり、ご飯食べたりして暮らしているよ」
「ここのお店を出している人たちは働いている? んだよな」
「働くって……何?」
「えっ⁉︎ 働くっていうのは、お金をもらうために、何か人の役に立つことをすることだよ」
「おかねってなあに?」
「うっ……」
僕が前にいた世界では最重要アイテムだった、『お金』の概念について尋ねられ、思わず言葉に詰まってしまう。
「お店を出している人たちは、多分昔からやっていたから、何となくやっているだけで、『おかね』っていうのをもらうためにやっているわけではないよ」
「でもさっき『夕飯の材料を買いに行く』って言っていただろ。『買う』っていうのはお金と物を交換する時に使う言葉じゃないのか?」
「うーんとね……『買う』っていう言葉は、『お店で物を分けてもらう』っていう意味で使っているよ」
『買う』という表現があるってことは、かつては貨幣経済が存在していたのか。
今のこの世界では労働という概念は薄いらしい。
「じゃあ、まずは、夕ご飯の材料を買いに行こう!」
エリスに手を引かれて、市場の通りを進む。
雑踏の歓声はうるさすぎず耳に心地よい。
どこかからうっすらとバイオリンの音色が聞こえる。
周囲を眺めながら歩みを進めていると、エリスの心配していたことが少しわかった。
道行く人たちから、頻繁に視線を送られるのだ。
理由としては、大まかに三つくらいあるのかなと予想する。
一、エリスが可愛いから。
ニ、僕が異質な存在だと街の人に気づかれているから。
三、ちっちゃな女の子に、手を引かれて歩いているのが奇妙だから。
まあ、どれでもいいけどね。
「ばんごはんっはー、なにに、しようかなー」
エリスが歌うような調子で問いかける。
「ご主人サマは、魚と肉、どっちが食べたい? あっ、どっちを選んでも野菜のメニューは必ず出るからね。サラダとか、おひたしとか。野菜は大切だよっ」
「うーん、どっちでもいいかな」
「それなら、何か嫌いなものはなーい?」
「食べられないもの以外は何でも食べるよ」
元も子もない回答をしてしまった。
「うーん、じゃあ、今日のメニューは、トマト煮込ハンバーグとイカのトマト煮と、レタスとパプリカのサラダにしよう!」
「結局、肉と魚介両方になっちゃってるよ。しかもトマトがダブってしまったぞ」
「トマトとハンバーグ嫌いなの?」
まるで、世界が終わってしまいそうな顔で問いかけるエリス。
「いや、どっちも大好き」
「ほんと⁉︎ よかったー!」
今度は向日葵のような満面の笑みを浮かべる。しかも、上目遣いで。
エリスはちょっとからかうと、表情がころころ変わって、すごく楽しい。
「あっ、そうだ。肉じゃがはまた今度作ってあげるからね。
まずは、イカを買うために、お魚屋さんに行こう!」
ほんのちょっとだけ歩くと、すぐに魚屋さんのテントにたどり着く。
獲れたてと思われる新鮮な魚介類で店頭はいっぱいになっていた。
魚たちは氷の上に陳列され、水に濡れた鱗が陽光を反射してキラキラと輝いている。
だけど、陳列の仕方が何か変。
魚がみんなこっちに頭を向けて置いてある。
目があってしまって、微妙に気まずい。
中でも深海魚のような、怪獣のような顔をした魚がひときわ目立つ。
銀色の細長い体つきで、口元には細かいキバが生えている。
「エリス……、このグロい魚……何?」
「あー、これ? この魚はメルルーサって言って、あっさりとした白身の魚だよ。
オリーブオイルによく合うからどんな料理にしても美味しいんだ。
香草とムニエルにしたり、揚げてフリットにしたり、スープに入れても美味しいよ!」
「そんなに色々料理できる魚なんだ。顔がグロいからゲテモノかと思った……」
「イカはやめてメルルーサにする?」
「……メルルーサはまた今度にしよう」
「そうだね! わかった。じゃあ、イカはこっちだから——」
白銀に輝くイカが氷の上に山積みになっている。
僕と繋いでいた手を離し、両手の人差し指でムニムニとイカを触り始めるエリス。
「新鮮で美味しいのは……これっ!」
一体その作業で何がわかるのだろう。
しかも、手、イカ臭くなるぞ。
「このイカひとつくださいっ」
店先に顔を出している人の良さそうなおばちゃんがイカを包んでくれる。
水で濡れないように、蝋引きの紙袋に入れているようだ。
「よし、次行こう!」
良いイカを選ぶことができて満足したのか、上機嫌でイカの紙袋を持った手を空に掲げたポーズをするエリス。
僕はエリスが持っているイカの紙袋をさっと受けとる。
不思議そうな目で僕の顔を見るエリス。
「持ってくれるの? ご主人サマって優しいね。さっきもエリスが怖がっていたら抱っこして橋を渡ってくれたし」
「ありがとっ」と言いながら、僕の手に両手で飛びつくエリス。
あーあ、それ、さっき、イカをムニムニしたままの手。
でも、まあ、いいかと思いながらも、手を繋いだままちょっと匂いを嗅いでみる。
あれ、エリスのいい匂いのままだなんだこれ。
もしかしてこの世界のイカは匂いしないんじゃと思って、紙袋を開けてみるが、濃厚なイカ臭がする。
もう一度エリスの手をくんくんしてみるが、やはり何だか甘い、いい匂いがする。
エリスが首をかしげてこっちを見ている。
「もしかして、ご主人サマって匂いフェチなの?」
「いやいや、そんなことないよ、全然そんなことない」
話題を変えよう。
「そういえば、この世界って、海があるのか? 壁の中なのに」
「海はねー、この街の裏側が崖でその下が海岸になっていて、そこから壁際のところまで海が続いているんだ」
海の中にも壁があるってどうなっているんだろうとか、一瞬思ってしまったが、そんなことはどうでもいいことだ。
「それでね、海岸はね、いつ行ってもずっと夏みたいに暑くて、いつでも海水浴ができるようになっているんだよ!
ねえ、今度一緒に海水浴に行こう? ご主人サマの好きな水着をなんでも着るからね。
おうちにね、スイカの浮き輪があるんだけど、まだ一回も使った事ないんだ」
好みの水着をなんでも着てくれるという、すごく魅力的な提案をされてしまった。
エリスは、今見えている腕とか足とかが既に透き通るように綺麗だから、水着になったらさぞ華やかに見えるだろうな。
「街の裏側の方に、海が見えるとっても景色がいい場所があるから、買い物が終わったら行ってみようねー」
「よし、次はお肉やさんだよっ」
<つづく>