空蝉にカケテ
「大丈夫か美代?」
「……うん」
「辛いなら休めば良かったのに」
美代の真っ青になった顔と目の下にどんよりと浮かぶ黒い隈が体調不良を訴えていた。
寝不足だけではないだろう。美代が風邪を引くなんて長い付き合いでも片手で足りるほどしかないため、心配だ。
「明日は体育祭だから、休めないよ」
今にも頽れそうな美代。
これから始まる授業を乗り越えられるとは到底思えなかった。
「ここまで来たら準備たってやることはあまりないんだし」
机に突っ伏した美代のおでこに手を当ててみる。
「熱はないみたいだけど……」
「たかくんは心配性なんだから」
「いやダメだ……」
このまま美代を一人で帰すのも心配だし、意地でも帰らないとか言い出しそうだ。
「体調が戻るまで保険室で休んでろ」
「本当に大丈夫だから……」
斜視する美代の呼吸も心なし不規則なものだ、だったら――――
「ちょっ――!」
俺は美代の手を強引に掴んで教室から連れ出した。
「明日出られないよりマシだろ?」
「…………うん」
俯いた美代の顔に翳りが降りた。
その原因を俺は自分のペースで引っ張っているからだと思った…………。
三階から保健室のある一階までは少し距離がある。俺は手を離して美代の前で片膝を付いて背を向け、
「悪い、ゆっくり運ぶから、乗れ」
「……!!」
拒絶の声は背後からなく、代わりに一呼吸分の間が降り、そして無言で乗っかる確かな重みと体温。
背から伝わる鼓動の速さに俺は美代を背負ってすぐに立ち上る、気遣いながらも速くなる足を抑えられずにはいられなかった。
足でドアを滑らせると保健室のベッドに美代を寝かせる。
「今朝から体調が悪いみたいなんです」
そう保険室のおばさんに伝え、俺は教室に戻ろうとしたとき、袖を引っ張られて振り向いた。
「たかくん……ごめんね」
「気にするな、ゆっくり休んで体力を回復させろよな、授業のノートは取っておくからさ」
「…………うん、ありがとう」
僅かな間の後、美代は頬を持ち上げて笑みを浮かべた。俺にはその笑顔が何故か儚そうに、作られたような表情に見えた。
「また、放課後来るから」
それまで休んでるんだぞと言外に釘をさしておく。
教室に戻ると出席簿を片手に呆然と立ち竦んだ近橋がいた。
「孝明っ!!」
「んっ! なんだ」
「よく来た」
なんだそれはと思ったが、一時間目の授業で近橋が来てみれば、教室には誰もいない。ボイコットにあったと勘違いして呆けていたらしい。
手短に美代を保健室に連れていった旨を伝える。
「珍しいな、風邪か?」
「熱はなさそうだったけど」
普段、風邪などとは縁のない美代だけにこういうときは一大事とばかりに周囲が騒ぎたててしまう。
近橋も心配そうに続けた。
「山城さんご夫婦も風邪で床に伏せっているみたいだしな、流行病とかじゃなきゃいいんだけどな」
「山城さんって村の端に住んでる?」
「あぁ、何でも旦那さんの風邪がうつってしまったらしくてな、もう一ヶ月近くになるけど、まだ見かけないな」
「それ風邪じゃないんじゃないか? もっと都会のでかい病院とかに」
「一応医者には診てもらってるらしい。最近見かけないのも、孝明の言うとおり隣町の大学病院で療養してるのかもな」
「それならいいけど」
さすがに小さな村なだけあり、他人事ではない。放課後、見に行って美代の体調が悪化していたら、医者に診てもらうように言おうと思うのだった。
……たぶん杞憂なのだろう。放課後の保健室、ベッドの上で静かな寝息を一定のリズムで刻み、眠っている美代の顔色は朝より血色が良い。
そっとおでこに手を当ててみても平熱ほどの温かみしか感じない。
「……たかくん?」
「――! 悪い起こしちゃったか」
「いいの。どれくらい寝てた?」
「もう放課後だ」
窓から差し込むオレンジ色の陽が美代の顔を照らし出し、俺は直視できずに目を細めた。
「体調はどうだ? バッグは持ってきておいたからこのまま帰れるぞ」
「うん、寝たからだいぶ良くなった」
「心配させるなよ」
俺はやっと胸がすく思いでため息を溢した。授業中も気が気でなく、ノートは取っていたが何をやったのか頭の中に入ってこなかったのだ。
帰り道、美代はしっかりとした足取りで歩いていた。それでもどこか億劫そうにしているのが気にかかって自転車に乗るか? と提案してみたりもしたのだが、首を横に振られてしまう。
「近橋がおっかないこと言うから、さすがに心配したよ」
「先生が?」
「あぁ、山城さんが夫婦揃って一ヶ月近くも風邪だかに罹ってるんだって」
「――――!! 初めて聞いた」
「俺も近橋から聞くまでは知らなかったよ。近橋の家が山城さん家の近くだからな」
何か考えた美代に「今度お見舞いに行こうか」と誘ってみる。
「……そうだね」
「全然見かけないらしいから、隣町の病院で療養しているのかもって、行ってもいないかもしれないけどな」
「早く治るといいね」
「…………あぁ」
夕陽を背に照らされた美代の横顔が歪み、俺は数回目を瞬かせた。
「じゃあ、私はここで、たかくん明日は頑張ろうね」
「…………」
カバンを後ろ手に持った美代が微笑みながらそんなことを言う。
俺は美代の言葉を聞き流していた。なんて言えばいいんだろうか、凄く綺麗だった……体調が悪かったせいなのか、いつもの美代とは対照的に触ったら壊れてしまいそうな繊細な美しさに俺はしばし瞬きすら忘れ、背後の陽に眼を眇めることすらせずに魅入った。
「たかくん?」
「……! あぁ、そうだな。本当に送っていかなくていいのか?」
「うん!」
「明日も体調が悪かったら無理するなよ。また来年もあるんだから」
「来年……そうだね、じゃあまた明日」
美代が振り返っていつまでも手を振る光景は今日もない。ここ最近、【ケイドロ】の話題を持ち出さなくなったため、俺は飽きたのだろうと楽観視した。
俺は美代が見えなくなるまで小さくなる背中を見続けた。
そして今日もまた、
「ふう~」
笊の上にどっさりと乗る数々の野菜。初日から毎日お裾分けを貰い続けている。
俺は顔の前で手を合わせていつものように頂戴するのだ。冷蔵庫の中もそろそろ満杯だ。一人暮らしには贅沢なのだろうな。
§ § §
体育祭当日、高校生だからこの呼び方をしているだけで、小学生や中学生、その親や村人は大抵運動会と呼んでいる。
カラッとした天気に俺は「あぢぃ~」と溢しながら気だるく自転車を漕ぐ。
【ケイドロ】の警察役は当日に発表されるのだが、大凡の見当は付いていた。可能性としては俺か美代だろうな。
昨日の今日で美代にはやらせたくないのだが。
登校中、宮地のじいさんの姿を見つけることはできなかった。
自転車を止め、校庭を一望するとすでにちらほらと保護者が陣地を確保している姿が見える。とはいっても雑然するほどではない。
生徒の数が少ないだけあり、保護者も三十人程度だろうか。
教室で体操着に着替え、校庭に舞い戻ると美代の姿を見つけた。
「美代、体調はどうだ」
「おはようたかくん」
「……! おはよう」
「大丈夫だよ。絶好調」
はにかんだ美代は珍しく意気込んでいた。
運動会とは言っても人数が人数なだけに、チームに分かれて競うようなことはない。競っても個人種目の50メートル競走とかだろう。玉投げに玉転がしなんてのもあるけど、その際は先生たちも参加したりする。
プログラムは午前中に一通り終わってしまう。昼食を挟んで午後の目玉を残して終わり。
「たかにぃ~、美代ねぇ~」
と高いトーンで呼ばれると、俺たちは同時にその方向を向いた。
小学生らが整列して、準備運動のために間隔を取り始めている。
「準備運動をしないと怪我しちゃうって先生が言ってたぞ」
「悪い悪い」
俺は美代と顔を見合わせてクスリと溢した。どことなく俺もやる気が湧いてきた。
「はっはっは~追いつけるものなら、追いついてみろ」
「チキショォォォ!」
俺はリレーで後ろを振り返りながら、追い縋ってくる小学生たちを煽るように校庭を一周。
後ろで憎々しげな顔を浮かべるちびっこたちも必死に腕を振る。
緩めた速度でも余裕を持てる。
(おっ!)
効果はあったようだ。ハァハァと荒い呼吸を上げながらスピードが上がっていく。
「だが、俺には追いつけまい――――ほぶっ!!」
後ろを振り返りながら走っていた俺は足を絡ませ、ゴール直前で土煙を上げながら盛大にこけた。
あっという間にちびっこたちに抜かれた俺は見事ビリとなって4位という情けない旗を持たされるはめになってしまった。
「ざまぁみろ」「余裕かましてからだぞ」
口々に笑い合い、観客も少ないながらも楽しんでいた。
今日ばかりは俺もこれでいいかと、肩を竦めてビリに甘んじてやるのだ。
本当に楽しく、体育祭も悪くないなと思い直す時間を過ごす。
女の子なんかは俺の足から滲む血を心配してくれる心優しい子もいるが、やっぱりこういうときに真っ先に来るのは昔から変わらず彼女しかいない。
「もう、やると思った」
座り込んだ俺の頭上から聞き慣れた声音が降り、俺は手で陽を遮りながら振り返った。
そこには腕を組んで呆れた顔をした美代が救急箱を片手にため息を溢している。
俺は苦笑いで答えるしかできなかった。
「すぐに消毒するから」
そう言った美代は手早く消毒液を取り出し、傷口に噴射、手慣れた手つきで絆創膏をバシンっとはっつけた。
「っつ~!」
「自業自得」
「あ、ありがとう。美代もそろそろだろ」
「あっ!」
反対側で美代待ちのレースが待機している。
「美代ねぇ~早く早く」
なんて声がちらほらと聞こえてきていた。
「ほら、俺が戻しとくから早くいけよ」
「ありがとっ!」
救急箱を奪い取った俺は急かすように美代の背中を押すのだ。
こんなやり取りを繰り返しながら午前の部が終わり、各人昼食を取る。
美代の両親も来ていて、俺も昼食に預かった。
「孝くん、怪我は大丈夫?」
「はい、これくらいは」
「母さん、孝明だってもう子供じゃないんだ」
俺はレジャーシートの上で美代のお母さんとお父さんを向かいに談笑に興じる。
「午後のケイドロは走れないんじゃない?」
「えっ!? ……これぐらいならなんとか」
「そお……」
「まだ孝明が警察をやるとは決まってないんだろ?」
「はい、たぶん俺になりそうですが」
「いや、孝明しかいない」
少し強い口調でおじさんがそう紡ぎ、返答までに少し間が出来てしまった。
「そ……そうですかね」
齟齬のようなやり取りにたじろいぐ俺をよそに美代はビクッと反応を示す。
「美代どうしたんだ?」
一人蚊帳の外で黙々と食べていた美代。
「――! ううん。なんでもないよ」
「もう孝くんもまだまだね。今日の昼食は美代が早起きして作ったのよ」
「……! びっくりした。こんなに作れるようになってたのか」
クスクスと笑みを浮かべるおばさんとおじさん。本当に他愛ない会話がこの後も続く。
しかし、美代だけはその輪の中にいなかった。
午後を知らせる十三時のチャイムが鳴り、俺と美代は校庭に戻る。
「美代、やっぱり体調が悪いのか」
懸念を直接問いただすが、美代は首を縦には降らなかった。
「大丈夫だよ。それより最後の種目なんだから頑張ろうね」
「あ、あぁ」
気が付けば、保護者たちが観戦するエリアには年寄りだけでなく、村人の多くが駆けつけていた。
俺は珍しいなと思い首を傾げた。その中には宮地のじいさんの顔もあったし、村長の三富さんまでいる。
俺の知る限りこんなに大勢の人が見に来たのは初めてのことだった。
そして、まだ競技が始まってないからなのか、その様相は厳粛と重苦しい雰囲気だ。
全員が立ち尽くし、話声すら聞こえない異様な光景だったが、大概競技が始まれば騒がしくなるだろう。
ケイドロの為の牢屋が運ばれる。
「……!!」
車輪の付いた巨大な牢屋だ。錆びた鉄格子が嵌められた正方形の牢屋。
いつもはサッカーゴールだったのに、ずいぶん雰囲気を出すんだな。
傍にいる近橋に聞いたら「今年から本格的な物を使うらしいんだ。俺も昨日聞いたんだよ」とちょっと意外感を露わにした。
準備が整い、当然のように今年の警察役として俺の名前が上がる。
毎年、この人選にわぁっと声が上がるものだが、今年はそれがなく、誰一人として反応しない。
各々配置に着く、
「美代、本当に大丈夫なんだろうな」
「しつこいよ? 私は健康体だから大丈夫」
「でも……」
美代は反転して俺に背を向ける。
「私が参加しないわけにはいかないの」
小声でぼそりと口が動いた気がしたが、それを聞き返す時間はなかった。
牢屋の前に俺も移動し、最初に泥棒が逃げる、30秒後に二回目のスタート音が鳴り、俺は走った。
捕まえ易い小学生を一人ずつ確実に牢屋に入れ、続いて本気を出して中学生たちを追う。
観客たちはそれを固唾を呑んで見守っていた。
その異様な光景に俺の思考が阻まれることはない。
そう、何故か次第に楽しくなってきたのだ。いつもよりあまり疲れないし、追いかけるというより、追い詰めるのが楽しくて楽しくてしょうがないのだ。
視界の端で観客の一人が顔を青褪めさせて、戦慄いた口に手をやるが、俺はそれを何とも思わずに泥棒を追いかけた。
観客たちは獲物を追う狼のように孝明の口が孤を描いていることに怖気を走らせていたのだ。今にも悲鳴を上げそうになっている者も一人や二人ではない。
唇を噛み締める年寄りたちが目の前で繰り広げられる捕者劇をじっと……ただじっと見詰めていた。
孝明の眼が猫のように細長に集束しているのに気付いているのは老人たちだけだろう。
俺は姿勢を低くして駆ける。
今ももう少しで追いつける。
手を伸ばせば…………ホラ、ツカマエタ。
ギリっと指が掴んだ腕に食い込んで、敏樹の顔が苦悶に歪む。
「たかにい! 痛い、痛い」
俺はそんな敏樹の訴えに耳を貸さずに次の獲物へと視線を向けていた。
「――――!! たかにい、どうしちゃったんだよ」
涙目になった敏樹が俺の顔を見ながら悲痛な視線を向けるが、投影されることはなかった。
牢屋に入れられた敏樹が真っ赤に染まった腕を擦る。
俺は一顧だにせず、最後の獲物に向かって駆けていた。
制限時間まで、まだ5分残して……。
遠くに見えるのが美代だと俺は認識していただろうか?
いや、きっとわからなかった。
だって、楽しくて楽しくてしょうがない。シヨウガナインダヨ。
背を向けて逃げる美代へと俺はすぐに切迫した。追い付くのも時間の問題だろう。
すぐに捕まえてしまうより、もう少し、この全力の追いかけっこを続けていたいと思った。
手を伸ばし、届きそうで届かない。あともう少しの感覚が昂揚するんだ……スルンダヨ。
モウ、イイカナ……イイヨネ。
力を入れた足が地面を蹴り上げようとした瞬間――――。
「孝明いいぃぃぃいいいいい!!」
大声量の叱責に似た声が俺の鼓膜を震わせ、伸ばした手に触れる感触。
思考が冷めた瞬間、自分から捕まるように美代の速度が落ちて、俺の手が彼女の細い腕を掴んだ。
声のしたほうへと顔を向けると大人たちの密集した場所があった。その隙間から、宮地のじいさんが口を抑えられている姿が見えた気がした。
「捕まっちゃったね」
振り返った美代は悔しそうな顔とは裏腹に憑き物が落ちたように清々しい顔を浮かべていた。
こうして俺は十九人の泥棒を捕まえることに成功した。途中から夢中になり過ぎてしまったのか、あまり覚えていない。
成果がアナウンスされるよりも前に観客は全員引き返した。その顔はどれもどんよりと青褪めて見えたのは気のせいだろうか?
孝明が見えない場所で、一部始終を見届けていた。三富村長が年寄りたちを引き攣れてこう溢していた。
『最悪だ。今回は十九人も……』
牢屋に入れられた泥棒が解放され、
「たかにい、ひどいよ」
涙を浮かべた敏樹が腕を抱えて出てくる。
あれは俺がやったのだろうか? 全然覚えがない。
でも、敏樹がそう言うからには俺なのだろう。
「ごめん敏樹。腫れてるな、美代湿布を持ってきてくれ」
もしかしたら骨に罅が入っているかもしれないほどの大怪我なのに俺には覚えがなかった。
「本当に悪かった敏樹。帰ったら医者にもらってくれ」
「そこまでじゃないよ」
腕でごしごしと目元を拭った敏樹が強がる。
「ダメだ! 敏樹、俺のせいで怪我をしたんだ。頼む……」
自分への憤りがつい八つ当たりのように怒声に変わり、俺は縋るように頼んだ。
「うん、わかった」
「帰りは寄り道するなよ。安静にしてるんだぞ」
俺は敏樹の分の後片付けを申し出て先に帰らせた。
「きっと大丈夫だよ」
そう背中から優しく掛けられた美代の声に俺はどうしようもない不安に駆られた。
「覚えていないんだ。敏樹があんな怪我をしたのに……」
自分が怖かった。
そこでハッと――
「美代、美代は怪我していないか? 他の連中は?」
「うん、私は大丈夫、みんなも大丈夫だよ」
胸を撫で下ろした俺は、それでも恐怖を拭うことができない。
「たかくんは悪くないよ」
「――――! なんでそんなことを言うんだ。どう考えても悪いのは俺じゃないか」
美代のその一言を看過することができなかった俺は食って掛かった。
美代は俺の不安を知ってか、包み込むように正面から抱きついて腰に手を回す。
「大丈夫、大丈夫だから、何があってもたかくんは気にしないで……」
「なんだよそれ……」
俺はそれ以上怒りを……憤りを口に出すことはできなかった。だって今このときは不安や負の感情が不思議なほど感じることができなかったのだから。
寧ろ、美代の心音が心地よく、俺を安心させていく。




