紅葉を
辻秀香はいつも通り、放課後の人気の無い廊下を歩いていた。
ここから先あるのは図書室で昼休みならちらほらと人がいるのだが、放課後となれば人は皆無といってよかった。
秀香はいろんな本に出合えるこの図書室が好きだった。
実際彼女は高校三年で後数冊本を借りて読めば、この図書館の本を読破出来そうな勢いである。
「……久しぶりにあの本もいいかな?」
秀香は頭の中で読んでない本のタイトルや読んだ本で気になるもののタイトルを思い出し、ニッコリと微笑んでいた。
図書室のドアを開けると図書室独特の匂いに秀香は更に笑みを深めた。
しかし、すぐに、彼女の表情が凍りつく。
「えっ……。」
中に人がいないと思い込んでいた秀香だったが、実際は人がいた。その人は図書委員ではない。普段はきちりと着込んだスーツだが、今はネクタイをゆるくして机の上でうつ伏していた。
「……先生?」
正式に言えば彼は先生ではなく教育実習生だ。
「……ん?誰だ?」
焦点の合っていない目が秀香を捕らえる。
「…辻?」
「本城先生……。」
「…今何時だ?」
「五時を回りましたけど……。」
「ヤベ…寝すぎた。」
教育実習生の彼は頭を掻き、のろのろとした動作で体を起こした。
「辻はどうしてここにいるんだ?」
「放課後だからです。」
「……本が好きなのか?」
彼からの質問に秀香は戸惑い始め、後退する。
「悪い…俺の悪い癖だな…。」
彼は秀香が怯えている事を敏感に感じ取ったのか、素直に謝ってきた。
「弟にもよく言われる。」
「弟さんがいらっしゃるんですか?」
「まあな、つーか、敬語なんか使わなくてもいいぞ。」
「ですが……。」
教育実習生だとはいえ、彼は一応秀香にとっては教えを請う対象なのだから、彼女が戸惑うのも当然だろう。
「いいんだよ、どうせ、ここには俺とお前しかいないんだしな。」
「……無理です。」
「……。」
強情な秀香に彼は眉を顰めた。
「何故だ?」
「貴方が教育実習生とはいえ、私にとっては先生ですから。」
「……。」
彼は肩を竦め、秀香に尋ねる。
「辻、お前の下の名前は?」
「秀香…秀でて香るで、秀香ですけど。」
「そうか、俺は征義だ。」
「……。」
秀香は怪訝な表情を浮かべながら彼、征義を見た。
「本城先生?」
「二人の時は征義だ。」
勝手に決められた事に秀香は目を見張った。
「何を……。」
「別にいいだろ、どうせ、教育実習は残り一週間だしな。」
「……良くありません。」
「お前、俺よりよっぽどセンコウだな。」
妙に幼い口調になる征義に秀香は小さく眼を見張った。
「本城先生。職員室に戻らなくてもいいんですか?」
「不味いよな。」
「だったら、戻らないと。」
「…しゃーないな。」
ゆっくりと腰を上げる征義は秀香を見た。
「秀香、いつも放課後はここに来るのか?」
「ええ、まあ……って。」
思わず下の名前で呼ばれた事をスルーしそうになった秀香はそれに思い至り、顔を顰めた。
「何で下の名前ですか!」
「またな、秀香。」
意地悪く笑う征義に秀香は怒鳴る。
「馬鹿っ!」
秀香はすっかり自分が何をしに来たのか忘れ、ただただ征義が出て行った扉を睨んでいた。
***
「征兄、機嫌よさそうだな。」
夕食のコンビ二弁当を食べる弟は気味悪そうに、そう言った。
「まあな、丁度いいおもちゃを見つけたんだ。」
「……。」
弟は心底その見知らぬ人に同情した。
「程ほどにしろよ。」
「……逃げられるぞ。」
「逃げる前に捕まえるさ。」
「……。」
弟は完全に沈黙して、ご飯を頬張る。
「ふぉんふぁに(そんなに)。」
「口に入れながら、喋るなよ、汚い。」
「……。」
弟はご飯を飲み込み、征義に言う。
「そんなに、気に入ったのか?」
「ああ、あんな目をしたヤツ始めてみた。」
「……。」
弟は何か言いたげな顔をして、ジッと征義を見ていた。
「気になるのか?」
「別に。」
インスタントのお吸い物をすすりながら、弟はそっぽを向く。
「結構俺ってもてるんだよな。」
「…自分で言うか普通。」
呆れる弟を無視して征義は言葉をつむぐ。
「まあ、俺自身も俺のどこがいいんだか、とか思うさ、それでも、あいつは真っ直ぐに俺という人間を見ていたんだ。」
「……。」
弟は軽く目を見張った。征義に言い寄る女性は殆どは彼の容姿に引かれての人が多く、征義はいつから眼鏡をかけて始めた。
彼自身は目がいいのだが、他人と遮断するために、眼鏡をかけ、自分を守っている節があったのだ。
「嫌われるなよ。」
「ああ、そうなったら、元も子もないからな。」
「……。」
弟は最後のご飯の塊を飲み込み、手を合わせる。
「ごちそうさん。」
「勉強か?」
「ん、下手にあいつら刺激したらヤベェからな。」
弟が言うあいつらが誰なのか理解している征義は苦笑を浮かべた。
「まっ、頑張れよ。」
「他人事だと思って。」
「他人事だからな。」
征義の言葉に弟は苦笑を浮かべる。
「それにしても、お前上位の成績を修めているのに、煩いのか?」
「煩いさ。あいつらは人間関係によってオレを見ているからな。」
「正直、鬱陶しいさ。」
「洸太。」
「征兄はそんなセンコウになるなよ。」
弟の言葉に征義はニヤリと笑った。
「当たり前だ。」
「んじゃ、お休み。」
「ああ。」
弟が部屋に篭ったら朝まで出ない事を知っている征義は頷き、流し台に飲み終わったカップを持っていく。
「さて、あの子猫とどう戯れるかな?」
獲物を狙う獣のように爛々と目を輝かせながら、征義は明日を楽しみにした。
***
その日秀香は厄日だと思った。
「何でこんな目に……。」
肩を落とす秀香は朝からの事を思い出して、うんざりしていた。
「あの……顔だけ教師。」
珍しく毒づく秀香は背後にいるその元凶に気付いていなかった。
「誰が、顔だけ教師だ?」
「――っ!」
ギョッとしたした顔で振り向くとそこには教育実習生の征義が不敵に笑っていた。
「…い、いつから……。」
青白い顔で秀香が尋ねると征義はまるで好きな子を虐める子どものようにニヤリと微笑んだ。
「何でこんな目にって所だよ。」
「……。」
つまりは今さっき来た所だという事なので、秀香はホッと息を吐いた。
「で、何でこんな場所に来ているんだ?」
「………さあ、何ででしょうね。」
秀香は征義に己の手に持っているものを見られないように、こっそりと背中に隠し、空いている手でスカートについた土を払った。
「……お前。」
「何ですか?」
急に眉を寄せた征義に秀香はキョトンと首を傾げた。
「何を隠しているんだっ!」
目ざといのか、征義は秀香が隠したものを見破り、彼女の手を掴み、彼女が持っているものを無理矢理見る。
「――っ!」
彼女が持っていたのはボロボロにされた下靴だった。
「お前……。」
「こんなのは日常茶飯事ですから。」
「何で、センコウにチクらない。」
「意味のない事ですから。」
「だからといってっ!」
珍しく荒れる征義に秀香は軽く目を見張った。クールでそう簡単には動じそうもない彼がこんなにも自分の事に関して感情を顕にするとは予想していなかった。
「黙ってされたままなのかよ、反撃ぐらいしろよっ!」
「こんな子どもがした事で?」
「……。」
秀香は冷めた表情でそう言い、征義は軽く目を見張る。
「まあ、このくらいなら可愛いものでしょうけど。」
「……秀香?」
「これ、見てください。」
秀香はそう言うと、袖を下げ、その白い手首を見せる。
「――っ!」
白い手首には古い切り傷……リストカットの痕があった。
「これ、中学の時に……付けられたんです、あの時は人間不信に陥るくらい、もう絶望的でした。」
「……。」
「何度も止めて、止めて、と叫んだけど、誰も助けてはくれなくて、辛かった……。」
まさか、秀香にそんな過去があるとは思っても見なかった征義は苦渋の表情を浮かべた。
「だけど、その人たちも辛かったんだよね、色々抱え込んでいて、人を傷つけることでしか、それを示す事が出来なくて、辛かったんだろうね。」
「……秀香…。」
まさか、自分を傷つけた人間を庇うとは、優しすぎる秀香に征義は顔を歪めた。
「私だって怒っていますよ、だけど、それと同じくらい私は他人を傷つけたくないんです、自分と同じ様に傷を負う必要なんて誰にもないんですから。」
「……。」
征義はそっと秀香の手を取り、その手首に唇を押し付けた。
「――っ!行き成り何をするんですっ!」
バッと音を立てて秀香は征義から逃れようとするが、彼は不敵に微笑んでいた。
「傷を癒そうとな。」
「もう、傷は塞がっていますっ!」
悲鳴にも近い叫び声を上げる秀香に征義はくつくつと笑った。
「初心だな。」
「なっ!」
顔を真っ赤に染め、秀香は思わず片手を振り上げ、征義の頬を狙ったが、彼はそれを予測していたのか、易々と秀香の腕を掴んだ。
「そういうところも可愛いな。」
「――っ!」
秀香は絶対にタラシだと心の中でぼやきながら、征義を睨んだ。
「このタラシっ!」
「何処がかな?」
「全部がですっ!」
「そうやって恥じる姿もやっぱりいいな。」
「――っ!貴方は変態ですかっ!」
「失礼な、可愛いものを見て可愛いと言ったら、それは変態なのかい?」
「……。」
確かにそう言われれば変態とは違うだろう、しかし、秀香にとって征義の言葉は寒気がするほど嫌な言葉なのだ。
「もう、貴方の所為で色々と面倒が起こっているんですっ!もう私なんかにちょっかい出すのを止めてくださいっ!」
「……面倒?」
征義の目が急に険しくなり、秀香は体を強張らせた。
「つまり、これは俺の所為なのか?」
「……。」
征義は秀香の下靴を指差す。
「………成程……下種どもめ……。」
秀香の無言が肯定だと察した征義の顔はこの世のものとは思えない程悪鬼にも似た形相をしていた。
「ほ、本城先生……。」
「何だ、秀香。」
「か、顔恐いです……。」
「そうか?普通だと思うがな。」
「……。」
秀香は冷や汗を流しながら、征義から顔を背けた。
「んで、誰がやったんだ?」
「さ、さぁ……。」
「本当に知らないのか?」
「し、知りませんよ、それに思い当たる人なんて、山ほどいますから……あっ…。」
「成程、やはり複数か。」
「……。」
征義の今浮かべている表情を知るのが恐くて、秀香は早くこの場から逃れられるように必死で祈ったのだった。
そして、解放された頃にはもう日が沈みかけていた。
***
「……なんでこうなるのかな……。」
秀香は溜息を吐きながら、横にいる征義を睨み付けるように見る。
「何だ?不満があるのか?」
「……。」
秀香は何でこんな事になったのかと眉を寄せながら回想を始めた。
『もう、遅い、俺が送る。』
『結構です。』
『そういうな、女だからな、変なのが出たらどうするんだ。』
『……。』
目の前に十分変な人がいるんですけど、と秀香は思うが、それを決して口にはしない。
『安心しろ、何もしないからな。』
『……。』
信用できないのだが、結局秀香は征義に押し切られてしまったのだ。しかも、選択肢が無い質問で。
『それじゃ、仕方ない、俺の車に乗って大人しく送られないんなら、お前のその下靴をそんな事にしたヤツラを退学させるぞ。』
『なっ!』
秀香が他人を思いやる心が人並みか、それよりも少なかったら、こんな脅しは脅しではなかっただろうが、秀香は異常なほどお人よしであったために、結局頷く事しかできなかった。
『それじゃ、裏門でな。』
『はい……。』
肩を落とす秀香に気付いていないのか、それとも気付いていてワザと気付いていない振りをしているのか、多分後者だろうが、征義は己の車を取りにいった。
回想を終えた秀香は溜息を吐き、見覚えのある道を見ながら指示を飛ばす。
「この先右の瓦の屋根です。」
「ああ。」
「……。」
本音は今すぐにでもこの車から降りたかったが、絶対に無理だろう。
「どうして、私なのでしょう?」
「秀香?」
「私意外にも…他の人には失礼ですけど、地味な人はいっぱいいると思いますけど。」
「……分かっていないな。」
そう言うと、征義は車を止めた。
「俺はその澄んだ目に惹かれたんだ。」
「…何処が澄んでいるのかしら?」
「十分澄んでいるさ、俺の知っている奴でそんな目をしている奴は滅多にいない。」
「いるんなら、その人と付き合えばいいじゃないですか…。」
秀香の言葉に征義は苦笑する。
「残念ながらその目を持っているやつは実の弟か俺の男の友人たち後は、従弟…まあ、それも男だな。」
「……。」
秀香は本気でその男友達が女だったらと真剣に思った。
「…本当に分かりやすいな、お前。」
「えっ?」
秀香が二、三回瞬きをして、征義を見ると彼は楽しげに笑っていた。
「お前、俺の男友達が女だったら良かったのに、とか思っただろ?」
「……。」
図星を突かれた秀香は俯くが、征義はそれを許さなかった。
征義は秀香の顎を捕まえ、己の顔を近づける。
「いやっ!」
秀香は両手を突き出し、征義を引き剥がそうとするが、残念ながら少女の力では彼を引き剥がす事は出来なかった。
「……秀香?」
「いや…いや…。」
ガタガタと震える秀香に征義は悪ふざけが過ぎたかと思ったが、それだけではなさそうだ……。
「ごめんなさい…ごめんなさい……。」
震える秀香は誰に対して謝っているのか分からないが、何度も何度も同じ言葉を壊れた人形のように繰り返した。
「秀香……。」
「……ごめんなさい…ごめんなさい。」
「――っ!」
あまりにも痛々しい姿に征義は秀香の肩を掴んだ。
「秀香っ!俺を見ろっ!」
「――っ!」
秀香の目が大きく見開かれ、その瞳に征義の姿が映った。
「…本城…先生……。」
「……悪い、お前を傷つける気なんかないんだ……。」
ようやく安心したのか、征義は秀香の肩に己の額を押し付けた。
「悪い…。」
自由奔放で自分の事しか考えない人なのだと、秀香は勝手に思い込んでいたが、実際はちゃんと人を思いやる心を持っているのかもしれない、その表し方が下手で何処をどう見ても他人を虐めているようにしか見えなくとも……。
「先生はどうして、私なんですか?」
「……多分、お前と俺は近くて遠い存在なんだ……。」
「先生?」
「そこに惹かれた。俺と同じ様に人を…他人を怖れている所があるのに、それなのに…お前は傷つける人間すらも包み込んでしまう、そんな所があるが、俺にはない……。」
征義はふと見えた、秀香の髪を纏めているゴムを引っ張った。
「あっ!」
しんみりしている雰囲気で秀香は警戒心を解いていた所為で、その行為に気付いたのは己の髪がふわりと舞ったところだった。
「綺麗な髪だな…括っているなんてもったいない…。」
「先生……。」
秀香の握りこぶしが小刻みに震えているが、征義はそれに気づいているというのに、わざと無視して、彼女の髪を撫でた。
「本当に、もったいないな…。」
「いい加減に――っ!」
秀香が叫ぼうとした瞬間、征義の知らない男が窓ガラスを叩いていた。
「んあ?」
人の悪い顔をする征義だが、秀香はその人の顔を見てさっと顔を青くさせた。
「お、お兄ちゃん…。」
「秀香、何やっているんだよ?」
声は流石に聞こえなかったが、口の動きでそれを読んだ。
「せ、先生っ!ここで十分ですっ!」
「はぁ?」
間抜けな顔をする征義を無視して秀香は慌ててドアを開き、外に飛び出した。
「な、何でお兄ちゃんが…。」
「バイトの帰り。」
そっけない返事に秀香は兄が激怒している事に気づく。
「秀香。」
「はい……。」
「そいつ誰だ。」
兄の登場にすっかり頭から抜け落ちていたが、さっきまでいた車の中にはまだ征義がそこにいるのだ。
そして、車の中でも誰かを睨み殺せそうな顔がそこにあった。
二人の視線に体を震わせながら、秀香は簡潔に説明する。
「お兄ちゃん、こちらは教育実習の先生で本城先生。」
「はじめまして、本城です。」
「本城先生、こちらが兄です。」
「どうも、妹が世話になってます。」
お互いに爽やかに挨拶を交わしているのに薄ら寒いものを感じた。
「妹さんを送るつもりだったんですけど、その様子じゃ、大丈夫ですね。」
「……妹に何かあったのか?」
「ええ、そうですね、下種どもが彼女の下靴をボロボロにしたんですよ。」
「……成るほど。」
兄はニヤリと笑い、そして、征義もまた不敵に笑っていた。
「よければ、家に来ませんか?」
「いいんですか?」
「ええ、妹を送ってくれた礼をしないといけませんからね。」
「それじゃ、お言葉に甘えて。」
互いに顔を見合わせ、笑いあう二人は第三者の目から見れば仲のよい友人同士に見えるのだが、ある意味当事者である秀香にとっては恐ろしいものとして、その目に映っていた。
「それじゃ、車に乗ってください。」
「ああ、ありがとう、ほら、秀香も乗れよ。」
「……。」
逆らう事の出来ない秀香は渋々と再び車に乗り込んだ。
***
「秀香、今日の晩飯は?」
「肉じゃが。」
「おっ、いいな。」
秀香は手洗いを済ませ、エプロンをつけて台所に立つ。
「お兄ちゃん、ちゃんと手を洗ってよね。」
「わーてる、子どもじゃないんだからな。」
子どもよりも性質の悪い兄に秀香は悪態を吐きたくなるが、仕方なく冷蔵庫から必要な食材を取り出し始める。
「……おい、本城。」
「行き成り呼び捨てかよ、辻。」
「はっ、お前なんか呼び捨てで十分だ。」
何処となく自分の知人たちや弟と同じにおいを感じ、征義は苦笑を漏らす。
「まっ、別にいいけどな。」
「確かに。」
「お前、秀香に近づいて何を考えてんだ?」
「気に入ったんだよ。」
簡潔な言葉に秀香の兄は嫌そうに顔を顰めた。
「初対面の奴によくこうなれなれしく出来るな。」
感心する征義に秀香の兄は眉を吊り上げた。
「おれだって初対面でこうやって堂々と家に上がりこむ奴を始めてみたぜ。」
「お前が誘ったのにか?」
くつくつと笑う征義に秀香の兄もニヤリと笑った
「お互い様か?」
「そうだな。」
「で、本題だ。」
急に人が変わったように真剣な顔をする秀香の兄に征義もまた真剣な表情を浮かべた。
「秀香、妹の身に何があった。」
「どいつかは分からねぇが、あいつの下靴をボロボロにして焼却一歩手前だな。」
「……。」
「しかも、初めてじゃないみたいだ。」
「やっぱりか……。」
苦々しそうに顔を歪める秀香の兄に征義は意外そうな顔をする。
「気づいているのに、何もやっていないのか?」
「出来ないんだよ、あいつ普段はボケ~、っとしているけど、妙な所で勘がいいのか、勝手に動いたら怒るんだよ。」
「……成程な。」
納得する征義はチラリと台所にいる少女を見た。
「確かにあの強情ぷりは初めてだな。」
「だろ、あいつの強情さの右に出るもんなんかいないさ。」
「言いすぎだろ?」
「いいや、本当に一度譲らないと決めたらあいつは本当に信じられないほど、一途なんだ。」
「……。」
「たとえ、自分を殺そうとしている人でも、その人を信じてたら決して逃げないような奴だよ。」
遠い目をする秀香の兄に征義は不思議そうな顔をした。
「何かあったのか、あいつの過去に。」
「ああ、たっぷりな。」
即答された征義は絶句する。平凡な人生を送っているようにしか見えない少女にどんな過去があったのか、征義は知りたいと思うが、それは本人の意思を尊重してじゃないと聞けない事だと思った。
「お兄ちゃんっ!」
「あっ?」
鋭い声が聞こえ、征義は顔を上げるとそこには怒りで眉を吊り上げている秀香の姿があった。
「手、洗ってないでしょっ!本城先生もっ!」
「「……。」」
確かに二人は話に夢中で秀香の先ほど言った言葉を無視してそのまま話し続けていた。
「駄目じゃないっ、子どもじゃないんだから、ほら、さっさと行動する。」
まるで小さな子ども扱う母親のように、秀香は二人を急かす。
「そんなんだから、胸が大きくならないんだよな。」
「なっ!」
兄の言葉に秀香は顔を真っ赤にさせて絶句する。
「は~、こんなのを嫁に貰う奴なんていないぞ。」
「俺が貰ってやるから安心しろ。」
「……何冗談言っているんですか。」
征義の言葉に秀香は盛大に顔を顰めた。
「……。」
「……ぷはは。」
黙りこむ征義に対し、急に兄に秀香は不思議そうな顔をした。
「何か変な事言った?」
「ははは、あ~、腹いてぇ。」
「…笑いすぎだボケっ!」
急に征義は秀香の兄を足蹴りするが、それでも秀香の兄はけらけらと笑い続けていた。
「あ~、本当に鈍感な妹を持っていると苦労するな。」
「はっ、鈍感な奴を貰おうとするこっちが苦労するだろうがっ!」
征義の言葉に秀香の兄は鼻で笑い、にやりと笑った。
「てめぇ見たいな遊び人にはちょうどいいかも知れねぇな。」
「俺は遊んだことねぇ。」
「嘘だろ?」
「マジだ。」
妙に仲がよくなった二人に秀香は唖然としていたが、すぐに自分の目的を思い出し、息を吸った。
「いい加減にしなさいっ!」
秀香の怒鳴り声が辻家に響いた。
***
「機嫌直せよ。」
「……。」
もくもくと食事を続ける秀香に兄は苦笑を浮かべた。
「秀香~。」
「……。」
「秀香。」
征義に呼び捨てにされ、秀香は黙って睨むが、その目の前に御飯茶碗を差し出され、目を丸くさせた。
「おかわり。」
「――っ!」
自分勝手な征義に秀香は怒鳴りたくなったが、そうすれば彼の思う壺になりそうなので、黙って席を立った。
「おい、本城。」
「何だ、辻。」
「人の妹を勝手に呼び捨てにすんなよ。」
「いいじゃねぇか。」
「てめぇは教師だろうが。」
「正確には教育実習生だから、まだ免許は取ってないさ。」
「……。」
秀香の兄は行儀悪く箸を噛んだ。
「おれはてめぇを認めてねぇぞ。」
「お前に認めてもらわなくたって結婚できる。」
さらりと言う征義に秀香の兄はギロリと彼を睨んだ。
「てめぇ、正気かよ。」
「ああ、悪いが本気だ。」
「何でてめぇのような奴があいつを。」
「あいつは俺に似ていてだけど、異なる存在だ。」
「……あいつとお前が似てるはずがねぇだろ。」
「……さあな。」
肩を竦めてみせる征義の目の前にドンと大盛りにご飯が盛られた茶碗が置かれた。
「おっ、サンキュー。」
「……。」
征義は秀香の不機嫌そうな顔に気づいているのに、わざと気づいていないような顔をしているので、秀香はそんな征義の態度に腹を立て、彼を一睨みした。
「何だ?俺の顔に何かついているか?それともこの顔に興味があるのか?」
「……。」
秀香の怒りが限界に来ていたのか、彼女は台所に行きある調味料を持ってきた。
「さっさとそれ食っていなくなれっ!」
そう言うと塩を思いっきり征義にぶっ掛けた。
「わっ!」
「……。」
先ほどまで驚いていた征義は、まさか塩をまかれるとは思ってもみなかったので苦笑する。
「酷いな、秀香は。」
「馴れ馴れしく呼ばないでくださいっ!」
秀香は征義を睨むが、彼はニヤリと微笑んだ。
「いいじゃねぇか。」
「良くありませんっ!」
「何でだよ。」
「私にとって貴方は教育実習生、つまりは先生なんですっ!」
「……別にまだ大学生だぞ?」
「それでも、変わりありませんっ!」
「……。」
征義は頑固な秀香を一瞥して肩を竦める。
「長期戦になるとは思ったが、こんなに頑固だとは正直想定外だ……。」
眉を寄せ、考える征義に秀香の兄はニヤリと笑った。
「どうだ、こいつは一筋縄じゃいかねぇだろ?」
「そうだな、だけど、悪くない。」
「お前、Mか?」
「いや、違う、ただこんなにも懐かない子猫を飼いならすのが楽しみなだけだ。」
「……うげっ、秀香可哀想にマジでやな奴に惚れられたな。」
「煩いっ!」
全てを聞いていた秀香は顔を真っ赤にさせ、己の部屋に逃げ込んでいった。
「本当に、子猫みたいで飽きないな。」
「…はぁ、マジであんな子どもの何処がいいんだか。」
「全部。」
即答する征義に秀香の兄はこれ以上何も言わず、そして、食事を終えた征義は荷物を持ち自宅へと帰っていった。
***
秀香はこの日も不機嫌な表情で図書室にいた。何故なら目の前に嫌な奴がいるからである。
「何でここにいるんですか。」
「何処にいようが、俺の勝手だろ?」
「ええ、確かに貴方の勝手ですが、何で私の行く先々に貴方がいるんですかっ!いい加減うざいですっ!」
「へ~、お前でもうざい、とか言うんだな。」
「当たり前です。」
秀香は征義を睨みつけ、ドンと彼の前に本を置いた。
「返却でお願いします。」
「ああ。」
慣れた手つきで征義は返却の手続きをする。
「それじゃ、私はこれで。」
「ちょっと、待て。」
今すぐにでも立ち去ろうとする秀香に征義はその手を掴んだ。
「何ですか、急に。」
「お前……、また何かあったのか?」
「……。」
秀香の眉間に皺が寄る、だけど、その表情は今にも泣き出しそうな、そんな顔だった。
「別に何にもありません。」
「……嘘だろう。」
「何もないって言ったら、何もないっ!」
礼儀正しい、秀香の仮面が剥がれ落ち、苦痛を耐える秀香の表情が現れた。
「秀香……。」
「いい加減にして、私は別にこのままでいいの、だから、余計な事は考えないで。」
「……無理だ。」
「何でよ、私にとってはただの先生、それ以上もそれ以下もないっ!」
「お前はそうだか、俺はそうじゃない。」
「それは貴方の勝手でしょ!」
秀香は何とか征義の手から逃れようともがくが、男の力には敵わなかった。
「ああ、確かに俺の勝手かもしれないが。」
まるで野生の獣を目にしたように秀香はその目を大きく見開き、怯えたような顔を浮かべた。
「俺は気になったら、知るまで絶対にそれを諦めないんだよ。」
「――っ!」
絶対に教えない、と思っている秀香だが、もし、ここで黙ったままなら自分の身に危険が及ぶ気がした。
「わ、分かりましたから…離してください。」
秀香は不本意だったが折れた、そのお陰でいつもの彼女の優等生面が戻った。
「……。」
どこかそれが面白くないのか、征義は顔を顰め、そして何かを思いついたのか、不敵な笑みを浮かべた。
「ヤダ。」
「なっ!」
秀香の漸く戻った優等生の仮面が再び剥がれ落ち、征義は満足そうに微笑んだ。
「やっぱその生意気な顔がいいな。」
「へ、変態っ!」
「変態とは酷いな、傷つく。」
征義はそのまま秀香の手を強く掴んだ。
「ひっ…痛っ…。」
食い込んでいるのではないのかと思うほど征義の手が秀香の華奢な手首を強く握りこんだ。
「は、離して……。」
「んじゃ、話せよな。」
「……別に…ただ教科書がボロボロにされていただけです。」
「……。」
征義の目に怒りの炎が宿り、秀香はやはり言わなければよかった、と後悔をする。
「何で黙ってるんだ。」
「言っても無駄ですし、原因の一つの貴方に言われたくはありません。」
「……どういう事だ。」
ついつい言葉を滑らした秀香に征義は食いついた。
「…………。」
秀香は疲れていたのか、征義を睨み、そして、彼を責めるような口調で話し始めた。
「貴方は女性から見れば魅力的に映るんですよ、それで、貴方が私にちょっかいをかけるから、それが彼女たちに気に食わないんです。」
「……。」
「だから、もうこれ以上私にちょっかいを出さないでください。お遊びなら別の子に――。」
秀香の言葉を征義は己の口を使って黙らせる。
「――っ!」
秀香は征義の胸を叩くが、彼は全く応えていないのか、秀香を離す気がなさそうだった。
「冗談で。」
「……。」
「冗談でこんな事が出来るわけないだろうっ!」
痛みを我慢するように征義は顔を顰め、そして、秀香を抱きしめる。
「マジなんだよ。」
「せ、先生?」
「頼むから……遊びとか言わないでくれ……。」
まるで大きな子どものように見え、秀香は本気で戸惑い始める。
「…………秀香。」
征義が秀香の目を覗き込んだ、その瞬間、まるで見ていたかのように征義の携帯がけたたましく鳴った。
「……誰だよ。」
征義は携帯を開き、中を見ると弟の名前が表示されていた。
「……なんだよ。」
征義は近くの壁を蹴り、そして、電話に出る。
「はい、何だよ。」
『機嫌悪ぃな。』
「ああ。しょうもない用件なら即刻切るからな。」
『はぁ、悪い、征兄。』
急に謝りだす弟に征義は怪訝な顔をする。
「何だよ、急に。」
『明日オレの学校に来てくれないか?』
「……。」
『呼び出しくらった。』
「はぁっ!」
今まで不良と思われている弟だが、今まで本人の説教はあったが、身内の呼び出しだけは全くなかったので、征義は本気で驚いていた。
「お前何をやらかしたんだよ。」
『……はぁ、オレの荷物に変なものを入れられてて、それが荷物検査の時にばれたんだよ。』
「……。」
『不可抗力だ。』
何とも弟らしい理由に征義は頭を抱えた。
「因みに何を入れられた?」
『……ろ…本だ。』
「あっ?」
最初の言葉が聞こえなく、征義が聞き返すと、弟は羞恥の為が次は怒鳴り、その声は近くにいた秀香の耳にも届いた。
『エロ本だよっ!何度も言わせんなこのクソ兄貴っ!』
「……おい。」
征義が弟に話しかけようとするが、無情にも電話は切られてしまった。
「はぁ……。」
「……。」
征義は溜息を吐く中、突き刺さる視線を感じ振り返るとそこには軽蔑したような目で睨む秀香の姿があった。
「おい、秀香。」
「……。」
征義が近づくと秀香はその分だけ逃げる。
「……。」
「……あいつの名誉の為に言っておくが、さっきの言葉はあいつの悪友が面白半分に入れた品物だ。」
「……。」
秀香はまだ信じられないのか、征義を睨み続けている。
「…頼むから信じてくれ。」
「……分かりました。」
あまりにも真剣に言うので、この件だけは秀香は信じてみようかと考える。
「……まぁ、弟に会えばお前なら分かってくれるかもな。」
「えっ?」
征義はそう言うと、そっと秀香に手を差し出した。
「お前なら、多分その澄んだ目で分かってくれる。」
自信満々に言う征義に秀香は怪訝な顔をした。
***
秀香は自宅に帰る前に少し買い物をするためにいつもの通学路ではない道を歩いていた。
「今日は確か卵の特売があるから、それと、トイレットペーパーも安いからそれも買っておきますか。」
まるで、主婦みたいな事をいう秀香なのだが、両親が二人とも外に出ているのでどうしても秀香が買い物などをするようになってしまうのだ。
一度兄に任せた事もあったのだが、間違えて高いものを買ったり、自分の家では不評の商品を買ったりと散々な事になった事があるのだ。
「ふぅ。」
秀香は小さく溜息を吐き、空を見上げる。
「あの人は一体何なのかしら……。」
秀香はあの教育実習生を思い出し、顔を顰める。
「………はぁ、毒されているわ。」
秀香は重い足を動かす、この時、彼女は前を見ていなかったので、一人の男子学生とぶつかった。
「きゃっ!」
「あっ、悪い。」
少年は体勢を崩した秀香の腕を掴んだ。
「大丈夫か?」
「あ、ありがとう……。」
秀香は少年の耳にピアスホールがあるのを見て、あまりいい顔をしなかったが、少年の目を見てそれを改める。
少年の目は真っ直ぐで、見た目だけならば少々不良の分類に入るだろうが、彼はきっとそんな馬鹿な事をしない人間だと、そう思わせるほど純粋で強い目をしていた。
「……悪い、ちょっとむしゃくしゃしてて前見てなかった。」
「ううん、私もちょっとよそ見してたし。」
「……あれ、その制服って。あの女子高の制服か?」
「ええ。貴方は公立高校みたいね。」
「……え~と…高一じゃ、ないよな?」
気まずそうな顔をする少年に秀香は小さく笑った。
「違うわ、高校三年よ。」
「やばっ、すみません。」
意外にも少年は真面目な方で、秀香に謝った。
「別にいいわよ、言葉を直さなくても。」
「駄目です。こういうのしっかりやってないと。」
見た目とのギャップを感じ、秀香は思わず笑い出した。
「ふふふ、偉いわね。」
「そりゃそうですよ。オレの友人とかって不良に分類される奴らが多くて、こういった事をちゃんとやってないと、マジで煩い大人が多いし。」
「そうね。」
「はぁ、あんま兄貴とかに迷惑かけたくないと思ったのに、かけちまうしさ。」
溜息を吐く少年に秀香は思わず、この少年の話を聞いてみたいと思ってしまった。
「よければ相談に乗ってあげましょうか?」
「……。」
少年は怪訝な顔をし、秀香はニッコリと微笑んだ。
「後でちょっと特売に付き合って欲しいの。」
冗談半分で秀香が言うと、少年は口角を上げ笑った。
「いいですよ、どうせ、暇ですし。」
「ありがとう。」
***
近くのスーパーで特売の品を買った二人は近くの公園にいた。
「ありがとう……あっ、名前聞いてなかったわね。」
「洸太です。」
「コウタくんね、どんな字?」
「さんずいの光で「洸」で太いで、「太」です。」
「私は辻秀香、秀香は秀でて香るで「秀香」よ。」
「秀香さんですね。」
「ええ。」
少年は秀香の顔を見て小さく微笑んだ。
「お人よしなんですね。」
「そうかしら?」
「そうですよ、見ず知らずのこんな不良そうな男に興味を持つなんて。」
「……多分、ある人の事が似ていると思ったのよ。」
「ある人?」
秀香はそのある人を思い浮かべ、言葉を紡ぐ。
「自己中心的で、本当に私の気持ちなんて考えなくて、勝手にずかずか入ってくる自分勝手な人。」
「何か、オレの兄貴と似ているかも。」
「そうなの?」
「ああ、兄貴はさ、昔から器用で結構女性にもてたんだけど、自分勝手な行動をしてわざと女性を近づけないようにしていたんだ。」
「……。」
「オレは小さい時、何で兄貴がそんな事をするのか、分からなかった。だけど、最近になって、兄貴がようやく見えてきたんだ。」
洸太の言葉に秀香はじっと聞いていた。
「兄貴は人が苦手だったんだ。特に瞳が濁った人間が。兄貴の周りに寄ってくる女は結構自分に自信があって、他人を平気で蹴落とす奴が多かったんだ。本当はそんな女が少数なのにな……。」
洸太は兄を考えているのか何処となく痛みを堪えるようなこんな顔をしていた。
「だけど、最近ようやく兄貴の前に澄んだ目の奴が現れたみたいで、兄貴は生き生きしているんだ……。まあ、方向性がかなり間違っているような気がするけど……。昔の全ての女性を否定していた時よりはよっぽどマシだと思うんだ。」
「……。」
「きっと、征兄が会ったのはあんたみたいな人なんだろうな。」
「えっ……。」
秀香は驚いた顔をした。
それは洸太に褒められたからではなく、彼の口から漏れた兄の呼び名からだ。
「…………貴方の苗字って、まさか……本城…とか?」
「ん?よく分かりましたね。」
洸太が頷き、秀香は頭を抱えた。
「ど、どうしたんだよ。」
「何なのよ……。」
「……。」
「貴方の…お兄さんって、教育実習で来ている、本城征義さん。だよね?」
「……まさか、征兄言っていたのは。」
「……。」
「……。」
二人はまさかの接点を見つけ、黙り込む。
「…世間は狭いと言うが、本当なんですね。」
「そうね。」
「秀香?」
「………。」
「………。」
聞き覚えのある声に二人が振り返ると、そこにはスーツ姿の征義がいた。
「お前反対方向だろう。」
「お~い、征兄。オレは無視かよ」
「あっ?何でお前がここにいるんだよ、つーか、何で秀香の側にお前がいるんだよ。」
「……本当に秀香さんしか見えていないんだな。」
呆れたように肩を竦ませ、洸太は秀香を見る。
「本当に面倒なものに惚れられたな。」
「そうね。」
「…………何なんだよ、お前ら二人で。」
「……私は帰るわね。」
「気をつけて。」
「洸太くん、ありがとうね。」
「いえ、こちらこそありがとうございます。そして、兄貴が色々と迷惑をかけてすみません。」
秀香は本当に征義と洸太が兄弟なのかと疑いたくなった。
「ううん、大丈夫……多分…。」
「……何かあれば相談しに来てください…、メールアドレス教えてください。」
「うん、いいわよ。」
二人は互いの携帯電話を取り出し、メールアドレスを渡す。
「本当に兄貴が変な事をやらかしたら言ってくださいね。」
「うん、ありがとう。」
秀香は穏やかな笑みを浮かべた。
「おい、洸太、何人の彼女に何をやってるんだよ。」
「…征兄、こいつはお前の彼女じゃない、だろっ!」
「本城先生、私は貴方の彼女じゃない、でしょっ!。」
同時に叫ぶ二人に征義は眉を寄せるが、二人は征義を睨み続けていた。
***
秀香はふとカレンダーを見て、征義があと三日でいなくなる事に気づいた。
元の生活にようやく戻れるはずなのに、何故か、秀香はそれを寂しく思った。
征義の弟――洸太と出会ってから、征義の行動は少し収まった、多分洸太が征義に色々言ってくれたお陰だと秀香は考えていた。
「……。」
秀香は本を抱え、そして、図書室に向かうとまるで、あの時に戻ったかのように、征義が同じ席で、寝ていた。
秀香はゆっくりと征義に近づき、彼の肩を揺する。
「先生、風邪引きますよ。」
何故自分がこんな事をしているのか、秀香は分からなかった。
自分はこの人が嫌いではなかったのか。
否、嫌いではない、苦手なだけで、嫌いではない。
自分はこの人を避けていたのではなかったのか。
それは自分を暴かれそうで怖かった。
何故自分がここにいるのか分からず、秀香が征義から手を離そうとした瞬間、強く彼に手を捕まれた。
「えっ。」
「秀香……。」
「……。」
自分の名を口にされ、秀香の中にある何か壊れそうになった。
「や……。」
「秀香?」
「ヤダ……ヤダ……。」
秀香の頬から一筋の涙が零れ落ち始めた。
「どうしたんだ?」
優しい低い声に追いついていく自分が酷くいやだった。
逃げ出したいのに、捕まれた手が心地よくて逃げ出せない。
さまざまな矛盾が生まれ、秀香は理解してしまった。
自分はいつの間にか、この男に惹かれてしまったのだと。
そのきっかけを生んでしまったのは、間違いなく、カレンダーを見てしまったあの瞬間からだった。
「どうして、私の前に現れたんですか……?」
「……。」
「会わなければ、こんな気持ちにならなかった……、貴方との別れで悲しいとは思わなかった…、貴方をもっと知りたいとは思わなかった、何で、何で貴方は私の前に現れたのよ……。」
秀香は涙で濡れた目を征義に向けた。
「確かに、教育実習生である「本城征義」とはお別れだ。」
「……っ…。」
「だが、お前との関係は教育実習生と生徒ではなく、ただの男と女として付き合える。」
「先生?」
「あと、二日ある。その後でまた、会おう。その時は、俺はただの征義だ。」
「……はい。」
秀香はこの今の関係は終わるが、また別の関係が生まれる事に歓喜した。
「少しずつ、知っていこう……俺もお前もまだまだ話したりないからな……。」
「はい。」
***
ずかずかと土足のまま自分の領地に入り込んだ男はいつの間にか大切な人へと変化していた。
その人がいたお陰で秀香は自分をさらけ出す勇気を見つけた。
そして、とうとうその人との別れがやってきた。
秀香は一人、図書室にいた。
「秀香、ここにいたのか。」
「先生、いいんですか?」
秀香の言葉に征義は眉を寄せた。
「いいんだよ、つーか、もう先生は止めろよな。」
「貴方がここにいるのなら、まだ先生です。」
「お堅いな。」
「それが私ですから。」
「そんじゃ、学校でたら呼び方変えろよ。」
征義がそう言うと秀香は肩を竦めた。
「分かりました。」
「あっ…そうだ。」
征義は内ポケットを探り、一枚の真っ赤に染まる紅葉を差し出した。
「これ…。」
「今の教育実習生と学生との関係の別れ……「さよなら」の言葉のかわりであり、新しい関係になるお前に贈り物をしたくてな、ごめんな、こんなちっぽけなもので。」
征義の言葉に秀香は首を横に振った。
「十分です。」
「そうか?」
「はい、どんな高価なものよりも、こうした物が私は嬉しいです。」
「……そうか。」
正直、征義としてはもっとちゃんとしたものを贈りたかったが、秀香の嬉しそうな顔を見て苦笑した。
「秀香。」
「はい。」
秀香は差し出された手を掴んだ。
「今日が終わりであり、始まりであるんだな。」
「はい、よろしくお願いします。」