画廊を訪ねた客
さて、話を文久三年、つまり浪士組入洛の年に進める前に、
大正時代にあったという不思議な出来事を語りたい。
実は、これが物語の本筋とどういった関係があるのかよく分からない。
あるいは何も関係がないのかもしれないが、どうも因縁めいたものを感じる話なので、とにかくここに紹介しておこうと思う。
大正三年七月、東京、銀座。
この頃になると、銀座の街も二階建て・三階建ての洋風建築が立ち並ぶようになり、幕末の頃とはすっかり様変わりしている。
銀座通りにはすでに路面電車が開通しているし、「青バス」と呼ばれた路線バスもあった。
数こそ多くはないが、自家用の自動車も走っている。
洋装も珍しいものではなくなり、
カフェでは、珈琲の香りを楽しむ(自称も含めて)文化人たちの姿も見える。
そして夜には、街路灯に電気の明かりが灯り、街を照らすようになった。
少し前まで、チョンマゲとかいうおかしな髪型の男たちが、往来をふん反り返って歩いていたのがウソのような光景だ。
そんな時代。
当時、京橋に「画博堂」というギャラリーがあった。
三階建ての古いビルで、その最上階では定期的にある催しが開かれていた。
有志の怪談好きが集まって、持ちよった話を披露するのである。
いわゆる百物語のようなものだ。
メンバーには、この話を語り残した田中貢太郎という作家のほか、同じく小説家の泉鏡花や、歌舞伎役者の二代目市川猿之助、俳優の徳川夢声など、文壇や演劇界の名士も名を連ねている。
そんな中に、いつからか中沢琴という名の若い女性が顔を見せるようになった。
彼女は、当時そこに集まっていた人々の多くに、強い印象を残している。
くっきりとした西洋的な顔立ちと、長身で均整のとれた肢体、そして、気味が悪いほど澄んだ黒眼がちの目。
中沢琴の容姿については、ほぼ異句同音にそう語られていて、非常に魅力的な女性であったことを窺わせる。
ただし、活字として残る資料は、小さな新聞記事にわずかばかりその名が見えるのみで、年齢や出身などは未だ謎に包まれている。
その記事というのも、「画博堂」で中沢琴に会ったことがあると言う絵描きが、ずいぶん後の時代になってから受けたインタビューの中で、ほんの少し触れている箇所があるのみだ。
―中沢琴という女性は、見たところまだ二十歳にも満たなかったが、表情にはすこし翳があって、それが美しさをいや増していた―
怪談会に集まったメンバーの中でも、かなり若かったことだけは分かるが、この証言には少し主観が入りすぎている気もする。
ただ、彼女を目当てにこの会合へ顔を出す者も少なからずいたと云うから、相当な美人だったのは間違いないだろう。
この女性を最初に呼んだのが誰なのか、残念ながら記録が残っていないため、今となってははっきりしない。
彼女は、時々思い出したようにやって来ては、ただ黙って話を聴いて帰っていったという。
礼儀正しく、雑談などには気さくに応じたが、彼女自身から何かを語ることはなかったそうだ。
中沢琴については、ひとまずおいて、話を怪談会にもどそう。
その日は、高知出身の男性が、故郷の物の怪について話していた。
「これはおもに西国でよく見かけられる妖怪なんだが、猿猴というのがいてね。
川に棲む水妖の一種だが、
これくらいの小さな子供ほどの背格好で、全身がヌメヌメしている。
尻子玉を抜くと言われていて、
まあ、関東でいうカッパとも似てるんだが、
違うのは甲羅がなくて、頭に長い毛が生えているんだ。
今でも、たまに河縁で人が襲われるという話を聞くが、
たいがい、ギョー、ギョー、と鳴くそうだよ。
ときに女に化けて人間に近づくこともあるらしい。
こいつらは、子供が相手だと他愛ないイタズラを仕掛けるだけだが、
非常に淫欲が強くて、妙齢の女性を捕まえると犯してしまう。
そして万一、女が身ごもると、
子供もまた、この化け物の特徴を備えて産まれてくることがあるそうだ。
そうした場合、可哀想だが子供は焼き殺すしかないという」
男がひとしきり話し終えると、中に意地悪な者がいて、
「話としては面白いが、よくある民間伝承の類だろう?
その証拠に、河縁に近づくなとか、年頃の女は一人で人気のない場所を歩いてはならないとか、そうした教訓めいたものを含んでいるじゃないか。
そりゃあ、きみ、一種の寓話というやつだよ」
と茶々を入れた。
語り部の男は、確かにそうだがと、笑って前置きしてから、さらに話を続けた。
「ところが文久三年に、土佐の間崎という村で、この猿猴が生け捕りにされたという記録が残っているんだ。
四万十川で漁をしていた男がそれを捕まえて、名島という奉行の家に届け出た。
捕らえられた猿猴は、その後、高知の藩庁へ送られて、大勢の人がそれを実際に見たそうだ。
鯛をやったら、バリバリ引き裂いて食ったなんて話も伝わっている」
先ほどの意地悪な男が、また何ごとか異をとなえようとした時、ドアをノックする音が聴こえて、みな一斉にそちらの方をふり向いた。
一番うしろで話を聞いていた例の中沢琴が扉を開けると、背広姿の見知らぬ老人が立っている。
老人は、帽子をとって恭しくお辞儀をすると、
「此処では、皆さんが夜毎怪談を愉しんでおられると聞きつけましてね。わたしもひとつ仲間に入れてもらって、お話しをさせて頂けないかと、思い切ってドアを叩いてみたのですが」
と、唐突に申し出た。
一座の者が、どう応じたものか戸惑っていると、
「もとより、これは同好の集いなので、我々の趣旨に沿うお話であれば、大歓迎ですよ」
と、画廊の主人が快く招き入れた。
「それは、どうもありがとう」
老人は勧められた椅子に腰かけると、皆の顔を見渡して、
「皆さんは、田中河内介という人物をご存じでしょうか?」
と問いかけた。
一同はお互い顔を見あわせたが、その名前を知る者はいなかった。
「田中河内介というのは、幕末の頃、寺田屋事件に関わった志士の名です」
「寺田屋の話なら、もちろん知っています」
誰かが相槌を打つと、老人は頷いて、
「ひとつ、妙な噂がございまして」
とそこで一呼吸おいた。
「この田中河内介という人物が、寺田屋の後、どうなったかという話を口にすると、その人間に災いが降りかかるというのです。
真偽は定かではありませんが、この噂が囁かれるようになって以来、誰もこの話をしたがらないし、その名前を口にすることすら恐れる者もいる。
そんなわけで、この話を耳にした人間はごく限られている上に、なにせ五十年も昔の話なので、当時を知る者も年々減ってゆきます。
そしてとうとう、残るはわたし一人になってしまいました。
しかし、わたしがこの話を墓まで持って行ってしまえば、もう誰も田中河内介のことを語り伝える人はいなくなってしまう。
文明開化から久しいというのに、今どき、口に出すのもはばかる禁忌などあろうはずもないでしょうし、わたしが生きているうちに、誰かに聴いてもらいたいと思ったわけです」
老人の視線が、その場の反応を伺うように、一人一人の顔を舐めていった。
「是非、お聞きしたい」
猿猴の話をしていた男性が、語り部を譲った。
この話に、皆は俄然、興味をひかれている。
ところが、期待して身を乗り出してみると、
「文久年間の寺田屋事件の折に、田中河内介という志士が関わっていたのですが…」
と、話が最初に戻ってしまった。
一同、オヤ?という顔をしたものの、相手が高齢ということもあって、口を挟むのにもなんとなく遠慮がある。
仕方がないので、おとなしく耳を傾けていたところ、話が同じ件までくると、また振り出しに戻ってしまう。
それが数回も繰り返されるうちに、皆さすがに退屈してきて、トイレに立ったり、電話をかけに行ったり、とにかく適当な口実を設けては席を離れはじめた。
彼らはそれきり戻らず、階下で雑談を交わしたり、煙草を吸ったりしていたので、最上階の部屋からは、一人、また一人と減っていく。
そのうち、一階のギャラリーの方が人間で一杯になってしまった。
さらにあとから避難してきた者が、ゲンナリした顔で、
「また文明開化に逆戻りですよ」
などと言うので、一同苦笑していたが、見渡すとほとんどの人間が顔を揃えている。
あの聞き上手な中沢琴まで、スミっこでタバコを吹かし始めたので、これはちょっと上の様子を見てきた方がいいんじゃないかという話になった。
数人が連れ立って最上階の部屋を覗きにいくと、誰もいなくなった部屋の中で、あの老人が机につっぷしたまま、息を引き取っている。
こうして、語ってはならないという田中河内介のその後は、ついに誰の耳にも入ることなく、未来永劫葬られてしまった。
これが、その日「画博堂」で起こった出来事の一部始終である。
興味深いのは、このとき最後に部屋を出たのは、どうも件の中沢琴だったのではないかという証言があることだ。
そして、中沢琴は、それ以来ふっつり姿を見せなくなったという。
さて、この中沢琴と同姓同名の若い女性が文久三年の浪士組にまつわる物語にも登場する。
その佇まいが、同じ人物を彷彿させるので、あえてあまり本筋と関係のない、先ほどの怪異譚を差し挟んだ。
しかし、二つの出来事の間には五十年近い時間の開きがあることからみても、二人が同一人物だと考えるのは、少々無理があるだろう。
あるいは「画博堂」に姿をみせた中沢琴は、幕末にいた中沢琴の子孫なのかもしれない。
今回、有名な怪談を、まるごとパクっ…もとい、下敷きにしています。