壬生狂言 其之壱
ほんの半月ほどまえ、近藤たち壬生浪士組は岐路に立たされていた。
幕府の後ろ盾を失った彼らは、会津藩にすがって京に残るという道に一縷の望みを託して、闇の中であがき、未来を模索していた。
壬生村の郷士八木源之丞は、そんな不安定な立場にあった彼らにも協力を惜しまなかった京における唯一の理解者だったと言っていいだろう。
会津お預りが成ったあかつきには「会津藩の接待に力を貸す」とまで言って近藤たちを勇気づけてくれた。
まあ、色々と行き違いや、大人の事情があったにせよ、だ。
そして今、近藤たちは晴れて会津藩お預りの身である。
つまり、その約束が果たされる時がきたのだ。
文字通り京都を守護する会津藩士たちをもてなすため、壬生村の伝統芸能である壬生狂言が披露されることになった。
八木源之丞はこの村をとり仕切る郷士たちの長老格であり、壬生狂言の宗家でもあったから、まさに村を挙げての歓待である。
文久三年三月二十四日
この時期、壬生寺では毎年大念仏会と呼ばれる法要が行われる。
壬生狂言は、そこでご本尊に奉納される無言劇で、法要のクライマックスだ。
今年はそれを一日延長して、最終日に会津藩を招待しようという趣向である。
この日も、午後からの公演に向けて壬生寺の狂言堂では忙しく舞台の準備が行われていた。
一方、八木邸の表座敷では、本番を明日に控え、近藤勇と八木源之丞が細かい段取りを打ち合わせていた。
「会津はんもぎょうさん来はるんどすやろ。ほんなら、気ばらなあきまへんなあ」
ひとしきり必要な相談を済ませると、源之丞は紬の袖なし羽織のたもとを両手でピンと張って決意を示した。
「いやあ、それが…当初は会津公や、公用方の秋月様、広沢様などもお招きできればと考えていたのですが、まだお城のほうがゴタゴタしておりまして」
近藤の返事は歯切れが悪い。
「昨日、みなさんお揃いで慌しゅう出かけなはった件となんか関係あるんどすか」
「ええ、まあ」
近藤は言葉をにごしたが、ここ数日、二条城では将軍が江戸へ帰る時期をめぐってスッタモンダがあった。
長期にわたる将軍の不在で、ここのところ幕府の行政機能は完全に停滞している。
例の生麦事件の事後処理など懸案事項は山積みだった。
このため将軍徳川家茂は、攘夷の決戦にさいして首都防衛の指揮を直接とることを口実に、いったん江戸に戻りたいと朝廷に申し出たのだ。
希望した出立予定は三月二十三日、つまり近藤と八木がこの話をしている前日である。
―しかし。
これらはすべて建前だった。
諸外国と戦う気など毛頭ない幕府閣僚が、将軍を京から遠ざけようと画策したというのが本当のところだ。
もちろん、帝や攘夷派の雄藩(水戸、長州など)は、攘夷の口約束のみで将軍を帰すほど甘くはなかった。
そして会津や薩摩をはじめ公武合体を推進する諸藩も、朝廷との「公武融和」にいたる道筋もつかないまま、将軍にいなくなられるのは何としても避けたかったのである。
そこで近藤たち浪士組も及ばずながら雁首をそろえて、将軍が京に留まるよう老中の板倉勝静に訴え出たというしだいだ。
要するに十三代将軍徳川家茂ともあろう者が、みなから総スカンを食ったわけで、一昨日、渋々ながら京に残ることを発表したばかりなのである。
「なにぶん、こういうご時勢ですから、上様(松平容保)もお忙しいようで」
近藤は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「そりゃあ、残念どすなあ」
源之丞はそう言ったが、青蓮院を通じて幕府の動きを知る立場にある彼なら、そのあたりの事情はなんとなく察しがついていたのかもしれない。
あえて口にしなかったのは、近藤に対する気づかいだろう。
それでも、この壬生狂言の一件を語り残した本多四郎はじめ、数名の会津藩士は招きに応じてくれることになっている。
「いや、もちろん会津の本陣から何人かお客様がいらっしゃいますし、なにより我々も楽しみにしています。村の人たちにも来てもらって盛大にやりましょう」
近藤は話題をかえようと、着ていた単衣の家紋を指さして悪戯っぽい笑みをうかべた。
「ようやく我々もお揃いの紋付を仕立てましたから、今回は自前の衣装でうかがいます」
「また家紋までお揃いとちゃいますやろな?」
二人が笑っていると、玄関から奇妙な呼び声が聴こえた。
「たのもー、たのもー!たのもー、たのもー!」
どう考えても、小さな子供が精一杯声をはりあげている感じだ。
二人は顔を見合わせた。
しばらくすると、八木家の次男、為三郎が襖のすきまからひょっこり顔をのぞかせて来客を告げた。
「近藤せんせ、沖田はんにお客さん。近所の女の子なんやけど、みんな巡察で出掛けてはるし、どないしたらええです?」
「ははは、今の『たのもー』の子かい?」
「へんやろ?アレがお侍さんの挨拶やゆうてたで」
為三郎は可笑しそうに前歯の抜けた口をあけて笑った。
「いいよ、わたしが出る。ちょうどお暇するところだったし」
「ほな、そろそろわたしも仕度せな。今日も公演があるさかい、みなを待たせてますよって」
近藤と八木源之丞は同時に腰を上げた。
近藤が「よしなに」と八木に声をかけて玄関まで出てみると、三歳くらいの少女が一人、所在なさげに立っている。
石井雪、沖田総司の小さな親友だ。
子供好きの近藤は、膝を折ってニッコリ微笑んだ。
「やあ、いらっしゃい。沖田は今お仕事で出かけてるんだが、もうじき帰ってくると思うよ」
近藤が雪の手を引いて玄関を出ようとしたところ、源之丞の妻、雅と鉢合わせした。
「あれまあ、可愛らしいお客さんやし!」
「お雪ちゃんといって、沖田の客人です」
近藤が小さな頭に掌を置いて紹介した。
「そうどすかあ」
雅には、すでに三人の息子と六人の娘があったが、それでもまだ小さな子供が可愛いようだ。
「うちの末っ子とおんなしくらいやろか」
近藤はその言葉を聞いて少し表情を曇らせた。
彼らがこの家で寝泊まりすることになってしばらく経ったころから、一番下の娘の健康が優れず、ずっと寝込んでいると聞いていたからだ。
「娘さん、お加減はいかがですか」
雅は無理に笑顔をつくって、軽く首を振った。
「寝たり起きたりで。浜崎せんせは安静にしとく他あらへんて言いはるし」
浜崎とは、この近くで開業している医者である。
「気鬱なことですね」
眉をよせる近藤の袴を雪が引っ張った。
「なあ、うちのお母はんな、浜崎せんせのところでお手伝いしてるんやで」
雅はしゃがんで雪と目線をあわせた。
「あら、そうなん?ほんなら、お母はんにもよろしゅう。お雪ちゃんも、うちの子が元気になったら遊んだげてなあ」
雪は微笑みながらコクリとうなずいた。
「あの年頃では、友達と遊べないのが一番つらいでしょうね」
近藤も家に残してきた一人娘と重ねているのか、鎮痛な面持ちだ。
「ときどき芹沢せんせが部屋へ寄って相手してくれはりますのや」
「ほう、なんというか、意外な一面ですね」
二人はようやく笑みを交わした。
「せやせや、近藤せんせ。芹沢せんせが子供らに買うてきてくれはった牡丹餅がありますさかい、お雪ちゃんに持っておいきやす」
八木雅は不安を振り払うように少し声を張ってそう言うと、雪の頭をなでた。




