島田魁、登場 其之壱
流れ者の浪士、阿部慎蔵は、そろそろ自分にも運が向いてきたのではないかと感じていた。
ここ数ヶ月、死んでもおかしくないくらいひどい目に何度も会ったが、とにもかくにも未だこうして生きているし、なんと言っても、手元には当面食うに困らないだけの金が残っている。
「今にして思えば、あのオンボロ神社の鳥居をくぐったときに俺の人生が開けたのかもしれん」
一条戻橋にある奇妙な鳥居を思い出しながら、阿部はニンマリした。
その神社には元々ご神体の宝剣を盗みに入ったはずだが、そんなことなどすっかり棚に上げて、何か信心のご利益でもあったかのように都合よく記憶をねじ曲げている。
が、好事魔多しと云う。
いや、そもそもツキなど始めからきていなかった。
普通なら、何度も死にかけた時点で、それに気づくはずである。
「お礼参りでもしとくかあ」
ウカレながら一条堀川あたりの往来を歩いていた阿部に、怪しげな客引きが目をつけた。
海千山千のヤクザ者にとって、これほど分かりやすいカモ丸出しの顔はなかっただろう。
「お侍さん、今晩おもろい賭場が開帳されるんやけど、打っていけへんか?」
悪魔は頬に傷のある小男の姿を借りて、にこやかに近づいてきた。
阿部慎蔵にせいぜい人並ていどの節度があれば、ここで「なぜ声をかけられたのが自分なのだろう」とまず疑問に思ったはずだ。
もちろん、阿部にそんなものはなかった。
「こりゃ、あれだ、キテるな。ここで守りに入っちゃイカン」
運気を味方につけている今、勢いにまかせて手元の一両を倍々で増やしていけば、恩師、谷万太郎の道場がかかえる借金などあっという間に稼げるかもしれない。
調子づいている阿部は、まさに捕らぬ狸の皮算用をやらかして、簡単に誘いに乗ってしまった。
そうして、頬傷の小男に連れて行かれたのが、洛北のとある民家の離れである。
そこにはすでに様々な階層の客たちが集まっていた。
見るからにそのスジの博徒や、阿部と同じような浪人、それからお国訛りの抜けない京詰めの藩士、宮仕えらしき人間もいる。
民家の西にある実相院という寺の鐘が暮れの六つ(6:00pm)を告げると、ツボ振りの口上がはじまり、半丁博打が開帳された。
が、そこから、阿部の記憶はどうも定かではない。
まるであの長い悪夢の続きでも見ているような夜だった。
アレヨアレヨという間に持ち金を吸い上げられ、気がつけば身ぐるみを剥がされていた。
手持ちが尽きると、最後には刀まで取り上げられ、丸腰で真っ暗な外に放り出されたところまではおぼろげに憶えている。
そこから茫然自失の体で夜通し歩き続け、気がつけば先斗町の喧騒のなかに立ち尽くしていた。
阿部が我に返ったのは、瓢亭という料理屋から漂ってくる、なんとも言えない良い香りのせいだった。
そういえば昨日の昼から何も食べていない。
阿部はフラフラと料亭の門に吸い込まれていった。
自分が一文無しだと思い出したのは、朝粥の膳をきれいに平らげ、人心地ついた後である。
なんだかんだ言っても根が善人の阿部慎蔵は、店の者を呼んで正直に金がないことを告白し、労働で代金を支払うと申し出ようとした。
しかし、伝統あるこの料亭にふさわしからぬ早トチリの女中が、最後まで話し終わらないうちに大声で叫んだ。
「食い逃げ!食い逃げや!」
阿部は条件反射的に走りだしていた。
仲居の声に反応した腕自慢の客がいいところを見せようと追いすがってくる。
そして、追い詰められた阿部が二階の窓から飛び降りようとしたそのとき。
背後から太い腕がヌッと伸びて、阿部の後ろ襟をつかむと、軽々と持ち上げ、客座敷の方へ放り投げた。
背中から畳の上に叩きつけられた阿部は、激しい痛みに息をすることも出来ず、遠のいていく意識のなかで天井の木目がウネウネと歪んでゆくのを見た。




