狼たちの午前中 其之弐
さて、部屋を出た永倉新八はというと、どうにも腹の虫がおさまらず、庭にある井戸のヘリを思い切り蹴飛ばしたあと、バシャバシャと顔を洗った。
もともと一匹狼気質の永倉にとって、こうした内輪揉めは、見るに耐えない。
ブツクサ言いながら大股に庭を横切っていたところ、間の悪いことに、今度は芹沢派の参謀新見錦に捕まってしまった。
「お出かけですか?」
新見はまるで永倉を待ってでもいたかのように、身支度を済ませている。
「ああ。そこらへんをブラっと一周な」
永倉は新見をジロリと一瞥して、その前を通り過ぎた。
しかし新見はその後をさらに追いすがってくる。
「お一人とはめずらしい」
永倉は新見の探るような眼を見返してふと笑った。
「あんたもな」
「うちの連中は、例によって昨晩の深酒が祟ったらしく、まだ起き出してこれないようでね。見回りならご一緒していいですか」
新見錦は、芹沢の派閥に属しているものの単独行動が多く、どこか謎めいたところのある男だ。
警戒した永倉は、はぐらかすように庭を走るニワトリに目をやって、顔をしかめて見せた。
「まったく、朝っぱらから五月蠅いトリどもだな」
「あれは軍鶏ですよ」
新見は露骨な嫌味にも気づかない振りをして、冷静に訂正した。
「で?なんだっけ」
「…外出ならご一緒にと」
手ごわい相手だ。
永倉はあっさり降参の表情を浮かべた。
「遠慮しとくよ。あんたみたいなキレ者と口をきくのはおっかなくてね。散歩しながら天気の話をしていたつもりが、いつのまにか誰ぞの寝首を掻く相談をされていたなんてことになりかねん」
そう言ったきりスタスタと歩き出して振り返りもしない。
新見は可笑しそうに笑い、少し歩調を早めると、永倉の行く手に回り込んだ。
「買いかぶりすぎだ。あなたにそんな遠まわしな手管が通用するとは思っちゃいない。じゃあ単刀直入に聞くが、永倉さん。我々の仲間に入ってもらえないだろうか」
「入るも入らないも、俺たちゃ元から同志のはずだぜ。だろ?」
永倉はゲンナリして応えた。
ようやくあの離れから逃げ出してきたところで、またしても不愉快な話題を持ち出されたのだから無理もない。
新見は、そうした反応は折り込み済みとばかりに、抜け目のない顔で小首を傾げてみせた。
「そういう話じゃない。分かってるでしょう?」
「…芹沢さんに言われて来たのかい」
永倉は目線を外して、ぶっきらぼうに尋ねた。
「いいや。私の独断です」
永倉は根負けしたという風に立ち止まると、新見に鼻面を突きつけた。
「起き抜けで、まぁだアタマが廻んなくてなあ。今、そーゆーしちめんどくせえ話はカンベン願いたいんだがね?」
もちろん、新見がそう簡単に引き下がるはずもない。
「つまらない内輪揉めはサッサと終わらせるにかぎる。でしょう?あなたは芹沢さんとも旧知の仲だ。浪士組を束ねるのは芹沢さんこそ相応しい。そう思いませんか?」
永倉はその問いを軽くいなした。
「さあね、ま、そうかもな」
新見錦は、自分の弁舌を以てすれば、近藤派の切り崩しなど容易いと高を括っている。
水戸一派を実質的に取り仕切っているのは、まぎれもなくこの新見だったから、その自信も当然かもしれない。
だが、本人は大事なことに気づいていなかった。
彼の業績は、神道無念流の剣豪として四隣に聞こえた芹沢鴨という絶対的な求心力があってこそ成し得たものだということに。
これまでのところ、新見は芹沢の懐刀として遺憾なくその才能を発揮していたものの、山南や土方に比べればまだ年も若く、育ちの良いせいか、ややもすれば自らの才に溺れるきらいがあった。
そして彼はここでも一つ、読み違いをしていた。
たしかに、生え抜きの土方、沖田、井上あたりを除けば、試衛館一門は必ずしもまとまりがあるとは言えない。
この永倉にしても、誰かにひれ伏したり、ぬかづいたりすることを好まない種類の人間で、彼らは良くも悪くも自立した個人の集合体に過ぎなかった。
そうした意味では、京の人々が彼らを「狼」と評したのも、あながち的外れではなかった。
しかし逆に言えば、狼たちはそれぞれの嗅覚で、近藤勇のなかに群れを率いるボスとしての資質を嗅ぎ取ったからこそ、行動を共にしているのである。
その証拠に、彼らはやがて、同じ理由から別々の道を歩んでゆく。
いずれにせよ、試衛館一門の誰一人として、芹沢のような絶対君主を組織に求めてはいなかった。
「だが、おらあ江戸にいた頃、近藤さんとこでずいぶん長いあいだムダ飯を食っちまってなあ。まだそのツケを払い終わってねえんだ。悪いね」
永倉のとぼけた口調には、それでいて断固とした響きがあった。
新見はさもガッカリした風に首を横に振った。
「では、まだあの多摩の山猿どもにつき合う気ですか」
「だ~から、なんでそうなんのかなあ?おれは浪士組の人間で、あんたも、芹沢さんも、近藤さんもそうだ。あっちもこっちもねえだろ」
困り果てて腕組みする永倉に、新見がなおも食らいつく。
「しかし、船頭多くして船山に登るということわざもあるでしょう。大将が二人いてはロクなことにならない」
永倉は新見の胸先に人差し指を突きつけた。
「いいか?前にも断ったはずだぜ?おれぁな、好きにやればいいと言ってる。だが、おれ自身はあんた方の小っちぇえ派閥争いに加わる気はねえの!」
それは水戸という封建的な縦社会に染まった新見には思いもよらない拒絶だった。
新見の薄青い頬にさっと朱がさした。
「まさか、そんなこと本気で…」
「ホ・ン・キ・だ!そういう馴れ合いはウンザリなんだよ」
足りない部分を補い合うために寄り沿う水戸派のもろさを指摘されたようなものだった。
どうにか動揺を押さえ込んだ新見が、なにか言い返そうとしたその時、
「よう、二人でお出かけかい?巡察なら付き合ってやるぜ」
母屋の玄関から声がして、下駄を引っ掛けながら原田左之助が近づいてきた。
永倉は心底ホッとした。
「ち。この話はあらためて」
新見はさりげなく永倉に耳打ちすると、勝手口の方に去っていった。
その後ろ姿を横目で見ながら、原田は恩着せがましくニヤリと笑った。
「何の話をしてたかなんて野暮な勘ぐりはしねえけどよ、脇が甘いと付け込まれるぜ?」
永倉は途端にムスっとして、歩みを早めた。
「水戸の連中を敵みたいに言うのはよせ。まったく、どいつもこいつも」
原田は小走りに後を追いながら、野良仕事をする小作人の会釈に軽く手を振って応じた。
「よう、おはようさぁん。あ、おい、待てったら!おまえは人のいいとこがあっから心配してやったんじゃねえかよお!」
「大きなお世話だつーの。心配する気があんなら、憂さ晴らしに付き合え」




