群れの序列 其之壱
八木秀二郎は、壬生郷士の嫡男として剣術を嗜んでいる。
わざわざ、「嗜む」などともったいぶった表現をしたのは、まさにその通りの意味で、あまり荒っぽいことが好きではない彼は必要最小限の作法さえ覚えれば充分だと高をくくっていたからだ。
三月のある日、道場から帰った秀二郎は、門柱に掲げられた「壬生浪士組屯所」の看板をいまいましげにながめながら、わが家の門をくぐった。
秀二郎は機嫌が悪かった。
その日の稽古は想像を絶するきびしさで、いくらも年の違わない剣術師範は虫の居どころでも悪かったのか、秀二郎を散々にしごいたうえ、
「日々の修練が足らん」と一喝したのだ。
師範はもともと無愛想な男だったが、なぜ今日に限ってことさら厳しくされたのか、秀二郎にはわけがわからなかった。
そんなわけでグッタリしながら玄関口までたどりつくと、癇に障ることに、ここのところちょくちょく見かけるようになった祐という町娘が庭先で井上源三郎から剣の手ほどきを受けているのが目に入った。
井上は、秀二郎の姿に気づくと、いかにも人の良さそうな笑顔でぺこりとお辞儀をした。
秀二郎は腰の座らない祐の素振りを見てため息をもらすと、近づいていって二人に声をかけた。
「毎日ごくろうさんですなあ。庭に道場でも建てはったらどないですか」
「なるほど、そりゃ思いつかなかったなあ。庭に道場ね、庭に道場か。うん、そいつは妙案ですなあ」
井上は何度もその言葉を繰り返して、しきりに感心している。
この連中には皮肉というものがまるで通じないらしい。
祐が邪魔をするなという目つきで秀二郎をにらみつけて、井上を急かした。
「源さんて!そんなんええから、はよ教えて。次はなにしたらええん?」
この厚かましい闖入者も、秀二郎の平穏な生活を脅かす元凶のひとつだ。
しかし、どうしたわけか母の雅はすっかりこの娘を気に入っており、父の源之丞ときた日には、若い娘は例外なくいつでも大歓迎だったから、今ではわがもの顔で家に出入りする始末だ。
秀二郎には、この浪士組という組織の性質と、目の前でニコニコしながら下手くそな剣術指南をする井上源三郎という男が、どうしても結びつかなかった。
そもそも京都守護職は、こんな怪しげな連中になにをさせようというのか。
京をとりまく状況は、将軍の上洛前よりさらに不穏さを増しているというのに。
このころ、京を去った清河八郎と入れ代わるように、薩摩の前藩主、島津久光が入京した。
島津久光は、将軍後見職の一橋慶喜や、政事総裁職の松平春嶽(越前藩主)、前土佐藩主の山内容堂らとともに、幕府の威信回復、つまり公武合体の実現にむけて中心的な役割を果たしてきた。
しかし、今回の上洛はやや遅きに失した感がある。
すでに朝廷と幕府の話し合いは、攘夷決行の期限を五月十日とすることで決着してしまった。
春嶽などは、はやくも見切りをつけて総裁職の辞任を表明している。
政事総裁職は、春嶽を幕府の要職につけるためにわざわざ新設されたポストだったから、公武合体派がいかに行き詰っているかが分かろうというものだ。
対して朝廷側は、三条実美・姉小路公知という二人の若き公卿が台頭して、強行に尊皇攘夷路線を推し進めていた。
将軍徳川家茂に攘夷決行の期限を無理やり飲ませたのも、この二人の力によるところが大きい。
若い二人がなぜそれだけの力を持ちえたかは明白だった。
三条・姉小路のバックには長州藩の影がつねにチラついている。
もちろん長州にとっても、朝廷内に彼らのような代弁者を得たことは大変なメリットだ。
京における尊攘派の勢いは、もはや止まるところを知らない。
しかしいずれが優勢にせよ、京育ちの秀二郎にとっては、入れ代わりたち代りやってくる他所者に土足で家の中を踏み荒らされているようで面白くない。
彼の家に居候しているムサ苦しい連中は、まさにその象徴だった。
そして、近頃の彼らの浮かれっぷりは、秀二郎をさらに苛立たせていた。
原田左之助の話によると、なんでも正式に会津藩預かりが決まったらしい。
明日にも金戒光明寺の京都守護職へ挨拶に出向くのだそうだ。
この日も、会津公のお目見えに先立ち、組織内の序列を決めるとかで、離れでは朝から喧々諤々の会議が行われている。
井戸で顔を洗っていた秀二郎は漏れ聴こえる怒声を聞いて、
「ここに至ってなお、権力闘争に明け暮れる幕閣を、さらに矮小化したような連中だ」
と陰鬱な気分にさせられた。
「なんや朝から離れのほうは、えらい騒がしかったけど、もう決着はついたんですか。」
秀二郎は井上にたずねてみた。
井上は、祐の竹刀のにぎりを矯正してやりながら、首をひねった。
「さあねえ。まだみんな出てきませんねえ。あたしゃその、どうも役職とかには縁遠くて」
秀二郎は、「そりゃそうだろう」と言いたいのをぐっとこらえて、
「やはり芹沢さんか近藤さんが頭に立たはるんでしょ?」
と言い方をかえてみた。
「どうかなあ。まあ、そうなんでしょうなあ」
井上はやはり気のないようすで、正眼に構えさせた祐の剣先の位置を調整している。
秀二郎は、「ダメだこのオヤジは」と、のどまで出かかった言葉を飲み込んで、
「そやけど、ちょっと気になってることがあるんですけど」
と話題を変えた。
「なんだい?」
祐に竹刀を振りかぶるよう、身振りで指示しながら井上がたずねた。
「今日、みなさんの役職をどうするか話し合うたはるんでしょ」
「そうみたいだねえ」
「たしか、中村小藤太さんのお宅にも、何人かこっちに残らはった浪士の方がおったやないですか。あの人らは来たはらへんみたいやけど、かまへんのですか」
井上はしゃがんで祐の右脚の位置をずらしていたが、
そう言われて、初めて殿内らの存在を思い出したようだ。
「あ」
ふと動きをとめて井上がつぶやいたのと、祐の竹刀がその頭上に勢いよく振り下ろされたのがほとんど同時だった。
「あ!ごめ~ん。つい!」
祐は、ふき出しそうになるのを必死にこらえて、井上の頭をさすっている。
頭を抱えてうずくまる井上を見て、秀二郎はこれ以上この人と話しても時間の無駄だと見切りをつけた。




