狂騒の町
同日、午の刻(12:00pm)頃。
京洛の東のはずれ、粟田口。
路傍のありふれた立木を、物珍しそうに人々が見上げている。
その樹には、奇妙な果実が実っていた。
若い、男の首だ。
ここ粟田口には、山科に抜ける日ノ岡峠の手前に、古くから公開処刑場として使われている場所があった。
土地の人々も、残酷な見世物に慣らされたせいか、エキセントリックな天誅騒動にもどこか冷淡なところがある。
だが、この生首には、いつものお役所仕事とはちがって、少し興味をひく趣向が凝らしてあった。
わざわざマゲを解いたうえ、髪の毛を木の枝に結んで、ぶら下げてあるのだ。
斎藤一は、あの日と同じように、野次馬の群れの後ろから、それを眺めていた。
京に着いて、はや三ヶ月、国許の父の紹介で、道場の剣術師範の口にありついた斎藤は、ようやくこの町にも慣れつつある。
この前日、山科で所用を済ませた斎藤は、道場へ帰る道すがら、この騒ぎに遭遇した。
いまや狂騒の町と化した京に暮らす以上、「天誅」は日常の一部だ。
木の根元には、いつものように捨て札が立てられていて、斎藤の立っている場所からそれを読むことは出来なかったが、そこには例によって「天誅」の正当性が謳われているに違いない。
斎藤は、別にそれを知りたいとも思わなかった。
周囲にさざめく話し声から、この首が胴体とくっついていた頃は、多田帯刀という名で呼ばれ、金閣寺の寺侍だったことだけは理解できた。
それで充分だ。
斎藤一が足を止めたのは、まったく別の理由からだった。
野次馬の中に、「あの時」の女を見つけたのだ。
それは、この日の朝、阿部慎蔵に殺しの依頼を持ちかけた例の遊女その人だったが、もちろん斎藤には知る由もない。
女は、三ヶ月前のあの時と同じように、ただ、静かに佇んでいる。
彼女は、人々が注視する生首そのものよりも、なにか、それが引き起こした騒ぎ全体を、俯瞰しているような印象を斎藤に与えた。
奉行所が、ようやく重い腰を上げたらしい。
二人の同心を引き連れた与力が現れて、生首に群がる人々を追い散らした。
何処からか無理やり引っぱって来られたらしい、気の毒な町火消しの男が、恐る恐るハシゴを立てかけ、生首を木の枝から外そうと悪戦苦闘している。
これだけ凄惨な出来事ですら、こうなるとどこか滑稽に思えてくるから不思議なものだ。
斎藤も、しばらくその様子に気を取られているうち、視線を戻した時には、すでに女の姿はなかった。
彼は、その女に何か引っかかりを感じていたものの、あえてそれを突き詰めて考えるほどの気もなかったので、別だん気落ちする風もなく、また、道場へ向かって歩き出した。
やがて三条通りまで戻ってきた。
町の中心部が近くなるにつれ、通りは賑やかさを増してゆく。
白川という小さな疎水にかかる橋の手前まできた時、斎藤の前方から、なにやら挙動の怪しいサムライが歩いてくるのに気がついた。
右に左に蛇行しながら、しきりに何ごとか呟いている。
すれ違いざま、斎藤は男へ意識を集中させた。
広々と剃った月代。
病的な、青白い顔。
朱鞘の長刀。
吐く息が、白い。
「あっち行け、あっちいけ、ちて来っな!」
男は真っ青な顔で、譫言のように繰り返していた。
男の周りには、誰も見当たらない。
斎藤は、ひょっとしてそれが自分に向けられた言葉なのではと考えて立ち止まった。
しかし、振り返ると、男はもう二間(約3.6M)ほど先に行ってしまっている。
斎藤は軽く頭を振って、また歩き出した。
「きゃあ!」
背後に叫び声を聞いて、また振り返ると、先ほどの男が刀を抜いて、盲滅法振り回している。
悲鳴をあげた女は、すでに遠くまで逃げ去ってしまい、暴れる男のすぐそばには、物売りの老人が腰を抜かして座り込んでいた。
「あっちいけ、来っな!けしめ!お前!けしめ!来っな!」
額にあぶら汗をにじませ、大声で叫びながら、男は何もない宙空を、何度も、何度も、斬りつけている。
斎藤は、しばらく無表情にその修羅場を眺めていたが、やがて興味が失せたように、立ち去ろうとした。
しかし、二三歩進んでから、ふと歩みを止め、
「ちっ」
舌打ちして、また引き返した。
斎藤はすばやく男の背後をとると、
刀を持った右腕を後ろ手に捻りあげ、
男が刀を手放すのと同時に、正面へ回り込んで、
みぞおちに当て身を入れた。
男は糸が切れた人形のように、 グッタリとその場にくずおれた。
遠巻きにその様子を窺っていた人々から、驚嘆のどよめきが起きる。
逃亡中の身としては、あまり目立つことは避けたかった。
斎藤は逃げるようにその場を離れようとしたが、聞き覚えのある声が、その足を止めさせた。
「ご活躍で。大したもんや」
斎藤一は振り返りもせず、こたえた。
「…見てたのか。人が悪いな」
この町に彼を知る者は、そう多くない。
佐伯又三郎だった。
「堪忍やで?俺も、ちょっとなら腕に覚えもあるんやけど、さすがに抜き身を振り回しとる男に、好きこのんで近づくほど酔狂やないからな」
斎藤は、少しあきれた顔で振り向いた。
佐伯は、寒そうに腕をまえで組みながら、例の狡猾な目をして笑っている。
「あんた、まだ京におったんやなあ。今はなにやっとるねん?」
斎藤も、この調子のよさには辟易したものの、返事をしない理由も見当たらなかったので、近況を語るはめなった。
「吉田勝美先生の聖徳太子流道場で、師範をやってる」
「はあん。世間はなにかと騒がしいちゅうのに、剣一筋ってわけや」
この三ヶ月で、少しばかり京の風俗にも通じてきた斎藤は、この男の着ている紋付.とタテ縞の小倉袴を見て、近ごろ流行りの「草莽の志士」を気取っているらしいと分かるようになっていた。
やたらと時勢について語りたがる、めんどうな手合いだ。
「わしは、ここんとこヒマでなあ。退屈しのぎに、粟田口で、ちょっと手の込んだ演出の天誅を見てきた帰りや。三条通りをブラブラしとったら、たまたま、あんたを見かけたもんやさかい」
斎藤は、佐伯の暇つぶしが木に吊るされた首のことだと気づいて、嫌な顔をした。
「あれか。連中の趣味にはついていけん」
「おかげで、おもろいもんが見れることもあるがな。昨日の晩は、三条大橋で裸の女が晒されとった。もっとも、多少トウは立っとるけどな。
それでも、若い頃は、なかなかの別嬪やったんやないかなあ。今行けば、まだ見れるかもしれんぞ」
斎藤の目に、あからさまな嫌悪が浮かぶのを見て、佐伯はあわてて手を振って否定した。
「おいおい、勘違いせんといてや。いくら俺でも、死んだ女に興味はないで?まだ生きとったがな」
斎藤は、ため息をついて尋ねた。
「で、その女は何をやった」
「なんでも、井伊大老のお妾やったとか。安政の大獄のころは、間者の真似事をして、ずいぶん沢山の志士を獄舎送りにしたらしいから、長州とか土佐に目ぇつけられとったんやろうな」
斎藤は、心配していた長講釈がはじまりそうな気配に内心ウンザリしたが、佐伯はまったく意に介さない。
「ちなみに、あそこにぶら下がっとった生首が、その女の息子や。関わりがあろうがなかろうが、親族にも手加減せんちゅう見せしめや。こうなると尊攘派も、猿の文吉と大して変わらんな」
二人にとって預かり知らぬ事実だが、この二つの事件には例の岡田以蔵が一役買っていた。
斎藤は、背後で大の字に倒れている、先ほどのサムライを肩越しに眺めながら、またため息をついた。
「この町で正気を保つのは一苦労だな」
「猿が河原で串刺しにされたり、人間の首が木に成るご時世や。今更イカれた侍がひとり、往来で刀ふり回しとるくらい、珍しゅうもないわ」
そのとき、斎藤の歩いてきた方角から、鋳掛屋(鍋や釜などを修理する職人)に連れられた数人のサムライが、慌ただしく駆けつけた。
この騒ぎを見た鋳掛屋が、柴山の身内の者に知らせたのだろう。
みな、同じような朱鞘の長刀を帯びている。
彼らは息を切らしながら、道の真ん中に伸びている男を取り巻くように、立ちつくした。
そのうちの一人がしゃがみこんで、男の息を確認する。
「生ぎっちょっど!」
彼はホッとした表情で、派手な紫紺の羽二重を着た男を見上げた。
リーダー格と思しき羽二重の男は、安心したように笑ってみせた。
「やれやれ」
「柴山どん…。ないごて、こげんこつしたと?」
それは、あの神社で辻君から怪しげな薬を買った男、柴山矢吉だった。
男たちはグッタリした柴山の両脇に腕を差し込み、二人掛かりで引っ張り上げるようにして立たせた。
柴山は意識を取り戻したのか、小さく呻いたが、まだ朦朧としている。
先導してきた鋳掛屋が、しゃがんでいる男に何か耳打ちすると、男は斎藤に歩み寄って頭を下げた。
「すんもはん。こんお人は、気が触れちょいもす。勘弁してやってたもんせ」
斎藤は、へたりこんだままの行商の老人を顎で指した。
「なら、この男に謝ったらどうだ」
すると、羽二重の男が老人の方へ歩み出て、手を差し伸べた。
「申し訳ない、お怪我はございませんか?」
老人は、ハッと我に返ったようにその手をつかむと、男に肩を貸されてようやく立ち上がった。
「いやいや、ビックリして腰が抜けただけどす。どっこも怪我してまへんさかい」
一渡り自らの五体を確認しながら、老人は着物の裾を叩いた。
「それはなにより。不幸中の幸いというものです」
羽二重の男は妙に人好きのする柔和な笑顔で頷くと、あらためて丁重に謝った。
「わたしは青蓮院宮衛士の中村半次郎と申します。
この男は同郷で、実は気の病を患っておりましてね。
本当なら、ずっと人が付けてなきゃならんのですが、ちょっと眼を離した隙に、藩邸を抜け出してしまったのです。
我々の不注意から、ご老人にはずいぶん恐ろしい思いをさせてしまいましたね。
改めてお詫びに伺いますので、お住まいを教えて頂きたい」
老人は、恐縮して手を振った。
「そら、あきまへん。怪我もなかったんやし、そこまでしてもろたら罰が当たりますがな」
「ですが…」
言いかけて、中村は、老人の周りに散乱している貝を見渡した。
老人が商っていたシジミである。
「シジミですね。今は美味しいんですか?」
「あ、はあ。冬は身が締まってますさかい」
「ではせめて、これをぜんぶ買い取らせて下さい」
「こないぎょうさん買うてもろたら、腰抜かした甲斐もおしたわ」
老人は目を丸くして喜んだ。
「こいをばあ、銭ぬ払ったもんせ」
中村は、笑いながら仲間に支払いを指示すると、斎藤に向き直り、もう一度深く礼をした。
「そこもとにも、お手数をお掛けしました。この男は、私が責任をもって藩邸へ連れ帰りますので、どうかご容赦願いたい」
斎藤は、無言で頷いた。
しかし、そんな寛容さを持ち合わせない佐伯は、一言浴びせるのを忘れなかった。
「ほんま、物騒なこっちゃ。そんな男、鎖にでもつないどれ!」
基本、方言とかテキトーっス。