二度目の逢瀬
さてこの日、壬生寺の長い一日の最後を締め括ったのは、やはり阿部慎蔵だった。
夜の四つ(10:00pm)。
すっかりひと気もなくなった壬生寺に戻ってきた阿部は、鐘楼の下であの辻君と二度目の逢瀬を交わしていた。
と言っても、もちろん艶めいた用件ではない。
不首尾に終わった岡田以蔵暗殺の善後策を練るためだ。
「やっと会えたな」
暗闇に静まり返った境内に、阿部の疲れきった声が響く。
辻君は手にした行灯を持ち上げて、何やらやつれた阿部の顔を照らすと、
「しくじったって聴いたから、もうみんな死んだものと思ってたけど。一応、念のために来てみれば、あんた、なかなかしぶといのね」
と感心してみせた。
「ああ。おかげで死に掛けたよ」
阿部はぶっきらぼうに応えた。
「あたしを責めないで。まさか三人掛かりで叶わないなんて、大誤算よ」
「けっ、抜かせ!じゃあ、もう一人もくたばったんだな?」
「長州屋敷に逃げ込んで、二三日は持ったそうよ」
「…そうか」
あの男がともかく屋敷まで逃げ切ったと聞いて、阿部は胸を撫でおろした。
少なくともこれで自分の名が奉行所に漏れることはないだろう。
「で?次の手を相談しに来たわけ?」
「もうたくさんだ!」
阿部は手を払う仕草をして、顔をしかめた。
「じゃあなに?今日は客として会いに来てくれたのかしら」
「ふざけんな!女は間に合ってる」
「無理しちゃって。あんたなら安くしといてあげるのに」
「例えそうでも、お前とはゴメンだね。俺が来たのは、あの後どうなったのか確かめずにおれなかったからだ」
「あらそう?あたしはまた逃走資金でもせびられるのかと身構えちゃったわ」
「そこまで面の皮は厚くねえよ」
吐き捨てた阿部は、胸先に差し出された辻君の手に気がついた。
「なんだよ、この手は?」
「トボケないで!金に不自由してないってことは、また売れたんでしょ?約束どおり、一割はあたしの取り分」
辻君は阿部に渡した例のクスリのことを忘れていなかった。
上がりの一部を払えということだ。
もの慣れた態度から察するに、どうやらこの遊女は、売人の元締めのような立場で、攘夷志士たちにクスリをバラ撒くのを生業にしているようだ。
阿部はしぶしぶ二朱金を差し出した。
「…チャッカリしてやがる」
「どっちが?うわ、二朱?」
辻君は金色に光る硬貨をみて目を丸くした。
「ああ。ちっと多いがな。手切れ金だ」
「あんた、けっこう商才あるのね。刀ふり回すより、こっちのほうが向いてるんじゃないの」
「だったらいいんだがな」
阿部は借金を抱えた道場を思って、さらに憂鬱な気分になった。
「で、これからどうすんの?」
「ひとつ言えるのは、このご時世、先のことなんて考えたって無駄だってことさ」
辻君は、妙に実感のこもった台詞を鼻で笑って、阿部の帯からユニコーンの根付がついた印籠をムシりとった。
「ああ、そんなもんはもう返すよ!」
「勘違いしないで。今回の分。足りなくなったら、店に言って」
辻君は、また新しいクスリを印籠に詰めるとニッコリ笑って差し出した。
「さっきのは手切れ金だと言ったはずだぜ?どう考えても、そりゃご禁制のクスリだ。もうヤバい商売には関わらねえ」
「今さらなに言ってんの。まだ当分京にいるんでしょ?金はどうすんのさ。あくせく働くより、こっちの方が儲かるのは分かったはずでしょ?」
阿部には到底受け入れ難い理屈だった。
彼はムッとして辻君に詰めよると、その手にあるクスリを押し戻した。
「俺は見たんだ!このクスリに執着する連中はフツーじゃねえ。こんなもんをバラ撒いてれば、いずれあんたも身を亡ぼすぜ」
すると、辻君は今までの態度がウソのように目を怒らせ、阿部の襟首をつかんだ。
「笑わせないで。あたしは相手を選んで商売してる。あいつらはみんな尊攘派って呼ばれてる連中よ。死んだって誰が迷惑する?あんただって長州や土佐のバカどもが目障りなんでしょ?だったら、何が問題なの?あいつらを骨抜きにして、あんたは儲かる。それのどこがいけないの?」
その声には、激しい憎悪すら混じっていた。
阿部は、その剣幕に気圧され、自分でも気づかないうちに印籠を握らされていた。
「おまえ、どうかしてるぞ…」
辻君の手を振り払い、乱れた襟元を正しながら、阿部は呟いた。
「商売って割り切れば、余計な悩みは消えるわ。またいつでもどうぞ」
「そういや、さっき店がどうのとか言ってたな。店ってなんだよ」
「そっか。あんたには、まだ言ってなかったっけ」
辻君は途端に豹変して、妖しく笑うと、その真っ赤な唇を阿部の耳元に寄せた。
阿部は甘ったるい囁き声を聞きながら、間近に見る女の眼が赤く充血しているのに気がついた。




