walls come tumbling down! Pt.3
清河八郎には最愛の妻がいた。
清河蓮。
もとの名を菅原高代といって、羽前国(現在の山形県)の医家の娘だ。
彼女は、幼いころ養女として他家へ出され、かぞえで十七のとき、貧困に耐えかねた養家から遊郭へ売られた。
悲劇には違いないが、天保年間の飢饉以来、珍しくもない話だ。
二人が出会ったのはちょうどその頃、清河が日本各地を忙しく飛び回るようになった時期と重なっている。
あるとき、湯田川温泉に逗留していた清河は、揚屋の宴席で、一人の若い娼妓に強く惹かれた。
それが蓮だった。
清河の心は、彼女の瞳に鷲掴みにされた。
この歳で、いったいどれだけ残酷な現実を見てきたのだろうと思わずにはいられないほど、その瞳は深い悲しみを湛え、それでいて、清廉で高潔な光を失ってはいなかった。
ほどなく二人は恋に落ち、清河は彼女を苦界(遊郭)から救い出した。
「蓮」という名は、泥の中でも美しい華を咲かせる蓮になぞらえ、清河がつけたものだった。
以来、血なまぐさい世界に身をおく夫を蓮は支え続け、
数々の過激な政治活動で清河が幕府から追われる身となったのちも、その献身的な姿勢は変わらなかった。
しかし別れの日は突然やってきた。
昨年、蓮は清河の仲間と連座して捕らえられ、拷問のすえ、獄中で病にかかり死んだのだ。
厳しい取調べのあいだも、彼女は最後まで清河をかばい続けたという。
琴は、余計なことを口走ったと後悔した。
清河がどれほど蓮を愛していたか、よく知っていたからだ。
清河は、少しはにかむように笑って、目を伏せた。
「…まったく、これだから女ってやつは。俺がそんな感傷的な人間に見えるかい?」
「…時々ね」
琴は、自己嫌悪に顔をゆがめてつぶやいた。
そして、今さらながら、清河八郎という不可解な人間に対して愛憎入り混じった複雑な感情を抱いている自分に、気づかされていた。
自分が心配しているのは、良之助なのか、山南なのか、それともこの清河なのか。
「どうした?斬らないのか。わたしをこのまま生かしておけば、もっと大勢死ぬぜ?わたしは、まだ止める気はないからな」
事実、清河はこのとき、浪士組本隊を率いて横浜の外国人居留地を焼き討ちするつもりでいた。
それだけではない。
その後、すぐさま京へ取って返して長州勢と合流したのち、本格的な軍事行動に移行するという遠大な計画を胸に秘めていたのだ。
「…」
なにも言い返さない琴を見て、清河は気不味そうにつけ加えた。
「ま、わたしを斬るんなら、あとで例の手紙を開けるのを忘れないでくれよ?」
「死んだあとまで、私に指図する気?」
琴は顔を伏せたまま、蚊の泣くような声で応えた。
「まさか。おっつけ仲間の一人が京にやってくる。中にそいつの名が書いてあるから、渡してくれ」
清河はそう言うと、なぜか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「その人も虎尾の会の仲間?」
「ああ。竹馬の友ってやつさ。奴なら浪士組のボンクラ共より、少しは先が読めるはずだ。あんたが斬らなくても、わたしに万が一のことがあれば…」
琴は顔を上げて、うるんだ目で清河を見つめた。
「今度は殉教者気取り!?もうやめて!死んだあとの話なんか!ねえ?今ならまだ引き返せる。浪士組で本来のお勤めを…」
清河は、長い付き合いの中で、初めて感情をあらわにした琴に驚きを隠せなかった。
しかし、静かに首を横に振ると、琴の手をとって優しく言い聞かせるように、その提案を退けた。
「あんたが言ってることは、都合が良すぎるだろ。俺の後ろに出来た死体の山を踏みつけて引き返せっていうのかい?そりゃあ、無理な相談だ。ここまで来たら、もう先に進むしかないのさ」
琴は苦い顔をして、またうつむいた。
「それで、本当にこの世界の何もかもが変わったとして、どうなるの?きっとあなたが、その景色を見ることはない」
「かもな。わたしみたいな奴は、ろくな死に方をしないだろうな」
清河はただ笑って床机の上に代金を置くと、立ち上がった。
「そんな言い方…」
「ま、そんな訳でな。ここでお別れだ」
「清河さん!」
振り返った清河の顔には、あのさびしげな笑みが浮かんでいた。
それは、彼が新徳寺で演説をおこなった夜、琴にだけ見せた、あの表情だった。
「ほう、やっと名前で呼んでくれたな。いつだったか、品川でいっしょに海を見たろう?あんたは、ただ黙って波を目で追ってた。波ってのは、何度岩に砕けても、最後にはその岩を打ち砕くもんさ。俺が死んでも、必ずその意思を継ぐ人間が現れる。その人間が死ねば、また次が。そしてきっと…最後には誰かが志を遂げるだろう」
「私には、わからない」
「そう遠くないいつか、この天が大きく動く日が来る。お琴ちゃん、わたしはあんたにそれを見てほしいよ」
「私はそんなこと、望んでない」
清河は、ため息をついた。
「やれやれ、そうかい。だが、とにかく礼を言っておくよ。おかげで、わたしはようやく目指す頂のとっかかりに手が届いたんだ」
「…ごめんなさい。わたし、さっき、」
琴は、勢いで蓮の話まで持ち出してしまったことを気に病んでいたが、清河は小さく首をふって微笑んだ。
「あんたの眼は、どこかお蓮と似てる。じゃあな」
二人には、それが永久の別れになるだろうという予感めいたものがあった。
琴は無力感におそわれて、糸が切れた人形のように、縁台に腰を降ろした。
※清河八郎が殺された当日に詠んだ歌です
→「砕けても また砕けても寄る波は 岩角をしも 打ち砕くらむ」
あと、サブタイトルもThe Style councilから…
またパクリました…ええ、パクリましたとも。




