二人だけの世界 其之弐
「驚いたな。この綺麗なお嬢さんが用心棒ですか。清河さんは趣味がいい」
仏生寺は笑いながらも、その実、琴の力を推し量っている。
「側女みたいに言わないで」
琴は脇に構え、噂に聞く仏生寺の「不敗の上段」にそなえた。
彼が腕を振り上げたとたん、空いたわき腹を横になぎ払うという牽制だ。
「ほう。なかなかさまになってる。少なくとも素人じゃないらしい。さっきから気になってたんだが、お嬢さん、きみ、どこかで会いましたか」
琴は、無言のまま小首をかしげて見せた。
「剣をかじったご婦人が、腕を試してみたくなるのも分からなくはない。けど、やめておきなさい。わたしはこの通り小柄だが、上段からの面打ちが得意でね。ほとんど外したことがない。あなたの美しい顔を真っ二つにするなんて考えただけでゾッとする」
琴は返事の代わりに、仏生寺の目を見すえたまま刀を握りなおした。
仏生寺は深いため息をついた。
「やれやれ、あなたがそんなものを構えてる以上、これは遊びじゃなくなる」
仏生寺は、ゆっくりと大上段の構えに入った。
明らかに琴の胴打ちを誘っている。
自分が振り下ろす剣のほうが絶対に早いという自信があるのだ。
琴はうかつに飛び込めず、正眼に構えなおした。
しかし仏生寺はそのまま無造作に一足一刀の間合いに入ると、
「では、いきますよ」
と宣言した。
そして―
それはまるで落雷のような一撃だった。
まず、音もなく稲妻が走り、
琴が飛び退いてまさに紙一重でそれをかわしたとき、
衝撃波にも似た空気の塊が頬をかすめた。
鋭く風を切る音がその後を追いかけてくる。
風圧だけで肌が裂けるのではないかというほどの威力だ。
清河八郎が見込んだとおり、中沢琴というのは一種の天才で、初めてみる太刀筋にも瞬時に対応できる身体能力をそなえていたが、仏生寺の剣はそれをさらに上回っていた。
なにしろ、ただ真上から振り下ろされる剣が、目で追えないのだ。
もし、彼が予告なしで今の上段を放っていたら、まちがいなく頭を断ち割られていただろう。
琴は背筋に冷たいものが走るのを感じていた。
しかし、それをすんでのところでかわせたのは、やはりずば抜けた反射神経があればこそだ。
その証拠に、仏生寺弥助の顔色が変わった。
琴はすぐさま反撃の体勢を整えた。
一度見た技ならなんとかしのげる。
仏生寺がふたたび構えに入るまえに踏み込もうとしたとき、
なにか動物的な勘が警告を発して、
とっさに踏みとどまったのと、
仏生寺のつま先が目の前を横切ったのが同時だった。
仏生寺を「最強」と言わしめたもう一つの理由が、この上段蹴りだった。
必殺の蹴りが空を切り、
勢いで無防備な半身をさらしたところに、
今度は琴が横なぎの一撃を放った。
が、これも届かない。
琴の佩刀は二尺八寸、清河のものが二尺三寸だったから、普段使っているものよりも15cmも短い。
距離感がつかめない上に、踏み込みが甘かった。
「驚いたな。あなたが今まで味わってきた悔しさが手に取るように分かりますよ。それだけの腕を持ちながら、女だという理由で機会をあたえられなかった。われわれは同じ種類の人間だ」
仏生寺の顔は、普段の眠そうな中年男のそれとはまるで別人に変わっていた。
百獣の王にふさわしい獰猛な眼には、五分に渡り合える相手と初めてめぐり合えた狂喜の色が満ちている。
清河は呆気にとられて身じろぎも出来ずにいた。
琴はありがた迷惑な賞賛にうんざりした顔で、
「機会なんて、私はもう沢山よ!」
と吐き捨てるや、
仏生寺めがけて鹿のように跳躍し、
身体ごと刀を水平に振り切った。
仏生寺は刀身を立て、かろうじてそれを受けた。
鋭い金属音とともに火花が散り、
仏生寺の刀ははじかれて、刃こぼれした。
清河から借りた刀は、いわく付きの業物だけあって傷一つ付いていない。
仏生寺はもはや躁状態にあった。
「そんなはずはない!あんたが抱かれた男とだって、こんなに気持ちは通じ合わなかったはずだ!」
だが、その叫び声が、近くにいたある村人の注意を引きつけてしまった。
石井秩は、夫の墓の掃除をすませて、娘の手を引きながら南門を出ようとしたときに、この修羅場に遭遇した。
彼女の目に飛び込んだその光景は、どこかの奉公人の娘が不逞浪士に襲われているとしか映らなかった。
恐怖にとらわれた秩には、その娘が刀を構えていることを不思議に思う余裕もなかったのだ。
なにかと物騒な昨今、普通なら関わり合いにならないよう急いでその場を離れるところだ。
だが、石井秩はそうしなかった。
「誰か!誰か!女の人が襲われています!」
彼女が大声で叫んでいると、たまたま仏光寺通りを歩いていた水戸一派の平間重助が、それを聞きつけて南門から入ってきた。
「なにをやっている!」
仏生寺は額に汗をにじませて、憎憎しげに声のしたほうを振り返った。
「邪魔が入ったな。残念だ。あんたとは仕事ぬきで決着をつけたかったのに」
琴は肩で息をしながら、早くここから立ち去れと目配せを返した。
平間重助が清河と琴のそばに駆け寄ったとき、仏生寺はすでに表門から姿を消していた。
「今のは…」
平間にはそのうしろ姿に見覚えがあった。
清河八郎はようやく我に返って、気に入らない芹沢の一味をにらみつけた。
「さあね。わたしを殺そうとした。あんたらの仲間じゃないのか」
平間はその視線を真正面から受けとめた。
「ふん。あんたを助けたというのは内密に願おう。芹沢さんや近藤さんに知れたら、なぜ放っておかなかったのだと詰られる」
中沢琴は、二人の言い争う声をぼんやりと聞きながら、自分の脚が震えているのをじっと見つめていた。
口の減らない清河八郎は、本来であれば感謝してしかるべき相手にも、容赦しなかった。
「もしあんたが、今際の際に、無為な人生を振り返って後悔しそうになったとき、今日のことを思い出すがいい。つまり、あんたも一つは世の中のためになることをしたってことだ。幸せな気分で死ねる」
「ええい、うるさい!」
もともと寡黙な平間は、矢継ぎ早の罵詈雑言を断ち切るタイミングがつかめず、清河をふりきるようにそう怒鳴ると、立ち去った刺客を追って走りだした。
しかし表門を出たときには、すでに刺客はどこかの角を曲がってしまったあとで、その後ろ姿は見当らなかった。
「ち!」
平間はうらめしげに舌打ちした。
※司馬遼太郎先生の短編に、清河八郎が七星剣を持っていたというのがありまして、それを拝借しました。
すみません。




