二人だけの世界 其之壱
同日、昼の九つ(12:00pm)
壬生村にある浪士組本陣、新徳寺。
「ちょっと!勝手に出歩かないで!」
小走りに新徳寺の門を出た中沢琴が、大股に先をゆく清河八郎に声をかけた。
清河は歩調を緩めず、振り返りもしない。
「さっきの山岡さんの話、聞いてたろ?バカどもの会津藩お預かりの件がまとまったとさ。さしずめ今ごろは、シタリ顔の佐々木が、近藤たちのところで恩着せがましく訓示を垂れてるはずだ。連中がバカ面を揃えて浮かれてると思うと、乗り込んでいって嫌味の一つも言ってやらなきゃ納まらんね!」
彼はイライラした様子で一気にまくし立てた。
「まだそんな子供じみたことを言ってるの?仏生寺の話はしたでしょ?」
琴は、頭ひとつ分は背の高い清河と肩をならべ、食らいつくように言い聞かせた。
清河は早足のまま琴を見下ろし、不遜に笑った。
「ああ、なんだっけ?聞いた気はするがね。“腐敗の冗談”だか“夜這いの猥談”だかいう二つ名の話だろ!だがあいにく、そんな男にビクビクして部屋の隅っこで震えてるなんてことは、わたしの性に合わん。知ってるとは思うがね!」
清河は、剣聖と呼ばれた千葉周作から北辰一刀流の免許を皆伝され、そこからさらに江戸剣術界の頂点ともいえる玄武館の塾頭まで昇りつめた男で、のち、神田に自身の道場を構えたたほどだったから、これは虚勢でも何でもなかった。
「でも、そうしなきゃ…!」
琴が言い返そうとしたとき、角を曲がってきた物売りの女たちが、この奇妙な取り合わせの口論を、不思議そうな面持ちで振り向きながら通り過ぎていった。
人目を憚った二人は、どちらが言うともなく、坊城通りに面した壬生寺の表門をくぐり、場所を移した。
昼食時のせいもあってか、さっきまで境内で遊んでいた子供たちの姿も今は見えない。
琴は清河の前に回りこむと、その胸板を突き飛ばして寺の土塀に押しつけた。
「…でもそうしてもらわなきゃ困るの。浪士組が明日京を立つことを、きっと彼らは知ってる。つまり、あの男が狙ってくるとしたら、まちがいなく今日しかない」
清河は目を剥いて驚くふりをした。
「そうか!そいつは知らなかった!つまり、あのクソいまいましい近藤勇や芹沢鴨に文句を言ってやれる機会も、今日が最後ってこった」
「まったく!あなたは、あの男の恐ろしさを知らないから、そんな顔がしてられる」
「じゃあ、あんたこそ、いつまでも女中みたいな格好をしてちゃ不味いんじゃないのか?」
「私が好きでこんな格好をしてると?あなたが止めるのも聴かずに、血相を変えて飛び出して行くからじゃない!」
口の減らない清河に、琴も釣られて語気が荒くなった。
清河は、まるで憂さを晴らすように、琴を挑発し続ける。
「なら、戻って例の物干し竿(長刀のこと)を取ってきたらどうだい?」
しかしその時、琴は視界の隅に、撫で肩の小男を捕らえて舌打ちした。
「ちっ…もう遅い」
門の脇に仏生寺弥助が立っている。
清河もその姿に気づいて、刀の柄に手を掛けた。
「…あんたの言ってたおっかない奴ってのは、あれか?」
「今日、初めて話が噛み合ったわね」
白昼、真正面から相手に顔を晒すなど、暗殺者としてあるまじき行為だ。
しかし、それが並々ならぬ自信に裏打ちされていることを中沢琴は知っていた。
仏生寺は、冴えない中年男の外見そのままに、顎をかきながらトボトボと近づいて頭を下げた。
「清河さん、ですよね?」
清河は片方の眉を吊り上げて、琴に目配せを送った。
丸腰の琴に下がっていろという合図だ。
仏生寺は二人の沈黙を肯定と受けとった。
「なるほど。ではさっさと用件を済ませてしまいましょう」
清河は琴を脇へ押しやり、抜刀の構えをみせた。
「こんなところで?大声を出せば、浪士組の連中がゾロゾロ出てくるぜ?」
仏生寺は無言で首を横に振った。
そんなに時間をかけるつもりはないという意味だろう。
琴は清河の制止を無視して、一歩前に踏み出した。
「仏生寺弥助、あなたは長州が雇った刺客なんでしょ?清河は攘夷派に寝返った。もうあなた方の敵じゃないの」
清河はムッとして、口を挟んだ。
「聞き捨てならんな。寝返ったとは人聞きが悪い」
仏生寺は相手が自分の名前まで知っていたことに少し驚いた様子を見せたが、やがて頭を振った。
「残念ですが。わたしにはそういう込み入った経緯は関係ない。ただ斬れといわれた相手を斬るだけなんです」
にべもない返事にも、琴はねばり強く説得を続けた。
「浪士組に潜り込ませた内通者からは何も聞いてない?今頃はきっと、あなたが先走ってるんじゃないかとヒヤヒヤしてる筈」
たしかに、ここで清河が斬られても長州には何の得もない。
しかし仏生寺にとっては違った。
清河の首級を挙げれば、自分を売り込むのに、これ以上ない格好の材料になる。
仏生寺は、面倒なしがらみに顔をしかめた。
「あなたは色々事情に通じてるらしい。困ったな、女まで手に掛けなきゃならんとは、やはり仕官など望むべきじゃない。…寺田屋で仲間を斬った男も、或いはこんな心持ちだったんですかねえ」
琴は、仏生寺に刀を収める気はないらしいと悟った。
清河は当惑して、二人の顔を交互に見比べた。
「おいおいなんだ?なんの話だ?」
「清河先生があっちに付いたり、こっちに付いたり忙しいから、敵も味方も振り回されて迷惑してるってことよ」
琴は仏生寺を睨んだまま、精一杯の皮肉を込めて言った。
「まあ、あなたとは後で話をつけましょう。その若さじゃ、まだ大人の愉しみも知らないでしょう?死なすのはやはり惜しい」
しかし琴はそんな挑発に乗らなかった。
さらに踏み込んで、仏生寺の目を覗き込むように顔を近づけた。
「眼が真っ赤よ?彼のこと、昼夜つけ回してたの?」
彼女には仏生寺ほどの剣士が丸腰の女を斬りつけるはずはないという確信があった。
仏生寺は伏し目がちに微笑んだ。
琴の言うとおり、その目は充血し、青黒いクマに縁どられている。
それは、あの辻君が捌くクスリに依存する者に、共通する症状だった。
「もうずいぶん前から、清河さんにお会いする機会を窺がっていたんですが、わたしの前に先約が列を成してましてね。なかなか順番が回って来なかった。清河さん、あなた、ずいぶん嫌われ者らしい」
清河は顔をしかめ、琴にたずねた。
「そうなのか?」
まだふざけるのを止めないつもりらしい。
仏生寺は少し後退して琴と距離をとると、無造作に刀を抜いて片手で構えた。
それから手振りの代わりに剣先をヒョイと動かして、琴に退いていろと指図した。
琴は眉を潜め、背後の清河に毒づいた。
「言わんこっちゃない。私、いま丸腰なんだけど」
「いいから下がってな。たまには、わたしの格好いいとこを見せてやろう」
「護衛役の私が、あなたに護られる?そんなのまっぴらね。後でどれだけ高い代償を払わされるか知れたもんじゃない」
琴は清河の申し出を突っぱねた。
「威勢がいいな。じゃ、わたしのを貸してやろう」
清河は満足げに笑うと、腰に帯びていた刀を琴に差し出し、自身は脇差を抜いた。
「いいか?この刀は、さる好事家が応仁の乱の戦災で折れた由緒正しき宝剣をだな、わざわざ溶かして打刀に作り直させたもので、新進気鋭の刀匠、高橋長信の作だ。人呼んで…」
「能書きはいいから、さっさと寄越して!」
琴は後ろ手に刀を引っ手繰る。
「はいはい」
刀と手が触れた瞬間、バチッと静電気が走った。
「痛!この刀には嫌われてるみたい」
琴は苦笑いして、スラリと鞘を払った。




