二股膏薬
文久三年三月十二日。
浪士組の会津お預かりが決まったこの日、壬生寺を舞台に、いくつかの小さな事件が起きた。
穏やかな春の陽気に包まれた境内。
朝の四つ(10:00am)。
阿部慎蔵が、人目を忍ぶように表門から姿を現した。
彼が人斬り以蔵の暗殺に成功していれば、今日、この場所で、例の辻君から報酬を受け取ることになっていた。
結果は先に述べたとおり惨憺たる有様で、報酬を期待するほど阿部も厚かましくはなかったが、無謀な計画に引きずり込んだ張本人に文句の一つも言ってやりたい。
なにしろ、暗殺に失敗したあの夜以来、常に幕府の捕吏から追われているような気分で、日の高いうちに出歩いたのも今日が初めてだ。
なにより、襲撃現場で傷を負わされた長州人の消息が気になる。
もちろん、名前も知らない過激派の身を案じているわけではない。
男が捕縛されて、そこから足がつくのを怖れたのだ。
しかし、まだ辻君の姿は見えなかった。
と言うより、阿部は待ち合わせの時間すら知らされていなかった。
この計画を取り仕切っていた痩せぎすの長州藩士は、それを言わないまま岡田以蔵に斬られてしまったからだ。
「考えてみりゃ、女郎がこんな真昼間っから寺ん中ウロついてりゃ目立ちすぎるよな」
日が落ちてからもう一度出直そうと考え直したところへ、南門から見すぼらしい中年の男がフラリと入って来た。
仏生寺弥助である。
目的は、当然、清河八郎をつけ狙うためだ。
彼は依頼者である斎藤弥九郎の指示に従い、ここ壬生寺で、まず浪士組に潜入した間者と接触する手筈になっていた。
斉藤の云うには「行けば向こうから声をかけてくる」そうで、相手の名前も人相風体も聞かされていない。
その間者からの情報によれば、浪士組本隊は、明日にも江戸に向けて出発するらしい。
つまり、チャンスは今日しかないのだ。
それにしても、仏生寺の行動は不可解だった。
なにしろ、長州閥の斉藤弥九郎と謀り、着々と清河暗殺計画を進める一方で、芹沢には抜け抜けと浪士組入隊の条件を聞いているのだ。
しかし、仏生寺は自身の行動になんら矛盾を感じていなかった。
彼の理屈では、この二つはまったく別のミッションであり、それぞれ提示された金額に見あった仕事をすればいいだけのことなのだ。
ともかく、彼は境内をブラブラしながら、その間者が現れるのを待つことにした。
本堂の前では、子供たちが戯れている。
やがて彼は、鐘楼の脇にいる、どことなく挙動の怪しい男に目を留めた。
「あれかな?」
仏生寺は猫のような足運びで男に忍び寄ると、背後から声をかけた。
「浪士組の新入りってのは、あなた?」
男はビクリと肩を震わせ、探るような目で振り返ると、仏生寺の酒臭い息に顔をしかめた。
「…あ、あーいや。ちがうんだ。その、俺のことは放っといてくれ」
シドロモドロで言い訳を始めたのは、辻君を待つ阿部慎蔵だった。
仏生寺は、阿部の頭からつま先まで視線を走らせ、帯からブラ下がっている根付に気付くと、腑に落ちたように人差し指を突き付けた。
「ははぁ、なるほど。あなた、あの辻君の仲間なんだね」
阿部は、相手が辻君のことを知っていたので、少しだけ警戒を解いた。
「じゃあ、あんたもあの女の知り合いか?」
「知り合いというか、わたしはただの常連客ですよ。ちょうどいい。それを売ってくれませんか?」
仏生寺は、ヌッと手を差し出した。
阿部は、いったい「どっちの」常連なのだろうと、益体もないことを考えてみたものの、差し出されたその手を見れば、答えはおのずと明らかだ。
「幕末最強の剣士」には似つかわしくない繊細な指が、小刻みに震えている。
阿部はため息を漏らした。
「あんたもコレ目当てかよ…いや待て待て。前から不思議に思ってたが、あんた、なんで俺に声をかけてきたんだ?」
「とぼけないでくださいよ。だってそれ」
仏生寺は腰の根付をあごで指した。
「…やっぱ、これか」
どうやらクスリを求める客は、この根付を目印に寄ってくるらしい。
根付というのは、今で言うストラップのようなものだが、
辻君から貰ったそれは珍しい形をしていて、一角獣という西洋の幻獣(額に角をもつ馬)を象ってあった。
海棲哺乳類イッカクの角(実際には牙)を削り出したもので、その角はまさに伝説の一角獣を思わせる形状をしている。
イッカクの角には、「患部を擦れば万病に効く」という俗信があって、非常に高価なものだが、もちろん阿部が知るはずもなかった。
例の辻君は、これを帯からチラつかせて商売をしていたらしい。
意図した訳ではなかったが、何処にでもある品ではないので、いつしか「ユニコーンの根付」は、怪しげなクスリを扱う売人のトレードマークになったものらしい。
「けど、安くはないぜ?一両と四朱ってとこかな」(1朱は1/16両に相当。)
こういう駆け引きに慣れていない阿部は、前回の売値に少しだけ上乗せして相手の顔色をうかがった。
「なるほど、高いなあ。まあいいや、わたしはこの後ちょっと大切な仕事が控えてましてね。景気づけだ」
阿部はその「大切な仕事」とやらが少し気になったものの、あえてそれ以上踏み込んで聞くこともなかった。
あの女の知り合いに深入りしてもロクなことにならない。
印籠を逆さまに振って、その中身をすべて差し出された手のひらにぶちまけてやった。
仏生寺は懐から財布を取り出すと、小判を二枚、無造作に投げてよこした。
慌てて空中でそれを受け止めてから、阿部は目を見開いた。
「こんなもん二枚も寄こされたって、釣りなんかねえぞ?!」
「いま、細かいのがなくてね。ちょっと多いが、どうせ長州の金だ。いいからとっといてください」
仏生寺の気前の良さに、阿部は喜ぶより呆れ返ってしまった。
「いったい、あんたらの金銭感覚はどうなってんだ?つーか、あんた、長州なら、ここに長居するのはマズいぜ?」
阿部の忠告に、仏生寺はただ締まりのない笑みを返した。
「なあに、それは長州の金だが、わたしは違う。ところで、つかぬことを聞きますが、浪士組の屯所というのは何処だろう?」
「さあね。なにしろ二百人からの大所帯らしいからな。村中あっちこっちに分宿してるんじゃねえか。あんたらにとってはおっかない村だぜ?」
「ははは、なるほど」
その反応があまりに拍子抜けするものだったので、阿部も脅すのがバカバカしくなってきた。
「たしか、向かいの寺に『本陣』て看板があがってたな」
「なるほど。ありがとう」
仏生寺は軽くお辞儀すると、阿部が指差した表門の方へ向かって歩き出した。
「ひょっとして、あんたも入隊しに来たのかい?」
本当はさして興味もなかったが、阿部は金払いのいい客にお愛想のつもりで聞いてみた。
仏生寺は返事をする代わりに、振り返ってニッコリと笑った。
※語り残された新選組の逸話にも「うにこうる(ユニコーン)の根付」が登場しますが、単にイッカク(=ユニコーン)の角で作った根付という意味っぽいです。




