宝剣を追う男 其之弐
阿部としては大いに不満ながら、何やら儲け話の臭いがする女の言葉をそのまま見過ごす気にもなれない。
仕方なく、拝殿前の石段に腰を降ろし、鳥居の方に向かって歩く女の背中を見送った。
堀川通りの方から、ひどい二日酔いのような足どりのサムライが、二の鳥居をくぐるのが見えた。
あれが「客」らしい。
男は参道沿いのクスノキの下で立ちどまり、辻君となにか話し始めた。
「柴山様、ずいぶんお辛そうね。食が細いのでは?」
辻君は、さっきまでの蓮っ葉な口調とはうって変わり、優しい声をかけた。
「余計なことはいい」
柴山と呼ばれた男は、蒼ざめた顔で短く応え、懐から金を取り出した。
辻君は恭しくそれを受け取ると、少し小首を傾げて微笑んだ。
それから打掛の袂を少し開いて、帯に下げている奇妙な形の根付に手をやった。
根付の先に結び付けられた印籠の蓋を取ると、
辻君の白く長い指がそこから摘まみ出したのは、小さな薬包だった。
「どうぞ。これで少しは楽になれるはず。足りなくなったら、またお店に言付けてくださいな」
そう言って、男の掌に三つばかり載せる。
柴山は、無言でそれを引っ手繰ると、またフラフラ覚束ない足どりで、もと来た道を引き返していった。
辻君はそのうしろ姿を眼で追いながら、拝殿の方へ戻ってきた。
阿部は胡乱げにその一部始終を眺めていたが、
二人のやりとりは途切れ途切れにしか聴き取れず、辻君のかぶっている手拭のせいで、その表情も読めなかった。
ただ、死人のように蒼ざめた男の顔だけは、遠目にもはっきり分かった。
「あんたの副業は、その薬か?」
阿部は石段に座って頬杖をついたまま、辻君を見上げて言った。
「儲けはナシよ。功徳を施してるわけ。言わなかったっけ?あたし信心深いの」
「よしてくれ!だいたいあのサムライ、どう見ても普通じゃないぜ?生兵法は感心しねえな」
「あのひとは病気じゃなくて亡霊にとり憑かれてるの。それでも気休めくらいにはなる」
辻君はうつむいて阿部から視線を反らした。
「どうやらあんたには関わらない方が良さそうだ」
「そう?いい儲け話に乗る気はない?」
「気持ちはありがたいが、俺は商売にゃ向かねえしな」
「かもね。けど頼みたいのは物売りじゃない。あんた、こっちの方は自信ある?」
辻君は刀を振るう仕草を真似て見せた。
阿部はますます警戒したように、表情を険しくした。
「なんでそんなことを聞く?」
「殺ってほしい奴がいる。二十両出してもいい」
阿部は勢いよく立ち上がると、両手を振って話を遮った。
「ダメダメ!それ以上聞きたくねえ!それぽっちの金で、獄につながれちゃ割に合わん!」
「相手は、土佐勤王党の岡田以蔵。近ごろ公儀の役人を斬って周ってる、あの『人斬り以蔵』よ。殺したって、お咎めなんてない」
「おいおい、勝手に話を進めるなよ」
「どうして?腕に覚えがあるなら、悪い話じゃない。それとも怖いの?」
「バカ言え。だが、相手は名うての殺し屋だ」
「一人で殺れとは言ってない。他にも何人か声をかけてる」
阿部は、膝の力が抜けたようにペタリと石段に座りこむと、口元を手のひらで覆って考え込んだ。
「どう?やる気になった?」
辻君は腰に手をあてて、阿部を見下ろしている。
阿部はまた、自らの信条と実利の板ばさみで固まってしまった。
「ま、いいわ。返事は今日じゃなくても。まだ、以蔵の顔も居場所も分かってないし」
拍子抜けした阿部は、石段に肘を預けた。
「なんだよ!それで、どうしろってんだ?真面目に考えて損したぜ」
「もうすぐ調べがつく。それまでに覚悟を決めとくことね」
「ちぇ、俺ぁもう大坂に帰るよ!」
「じゃあ、居場所を教えなさい。その日が決まったら連絡する」
「どうやって?」
「人を遣るわ」
阿部は猛然と立ち上がると、女の鼻先に顔を突きつけた。
「ふざけんな!いったいあんた何者だ?」
辻君はその問いを黙殺すると、男女の秘め事を語るように声を落とした。
「ねえ、いい?合言葉があるの。もし、誰かがあなたに、『田中河内介』の行方を尋ねたら、それがわたしの遣い。『そんな男は最初からいなかった』そう答えて」
阿部はその色香に少しあてられて、思わず一歩身を引いた。
「誰だ?その田中ナントカってのは」
「その名前は、忌み言葉なの。秘密厳守って御呪いみたいなもの」
解ったような解らないような説明に頭を悩ませていると、辻君は、先ほどの風変わりな根付がついた印籠を押し付けてきた。
印籠は藤の定紋が入った贅沢な品で、辻に立つ遊女にはどう考えても不釣合いな持ちものだった。
「なんだいこりゃあ?」
「前金代わりよ。飲めば、宮本武蔵みたいに心眼が開くかも」
「揶揄ってんのか?」
「まさか!」
辻君は肩をすくめて見せた。
「見損なうな。まだやるとは言ってねえ。金で殺しを請け負うなんざ、俺の主義に反する」
「主義でお腹が膨れる?それに窮すれば通ずって言うじゃない。案外、そういうのに向いてるかも」
「こういうのは、窮すれば鈍すって言うんだ」
「おサムライときたら、どうしてこう理屈っぽいのかしら」
ムキになった阿部が身を乗り出した瞬間、辻君はその反論を唇で封じた。
不意をつかれた阿部は、抗うこともできず、彼女の舌が入ってくるのを恍惚とした気分で受け入れた。
誰もいない境内に、ツグミの鳴き声だけが響いている。
二人はずいぶん長い間、そうして口づけを交わした。
「お、おい。なんのつもりだ?」
我に返って辻君の身体を突き放すと、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて囁いた。
「いいから。さっさと連絡先を教えなさい」