揃いの紋付 其之参
さて、その翌日。
芹沢、近藤以下、総勢十七名は、八木源之丞から借りた揃いの紋付で、会津藩が京都守護職の本陣をかまえる金戒光明寺に向かっていた。
彼らの住む壬生村からは、鴨川を隔てて都の反対側に当たるため、半刻はかかる道程である。
これからちょうど二年のち、新選組の屯所が西本願寺に移されるまでの間、近藤たちはこの道を何度も行き来することになった。
一団は京の地理に明るい佐伯又三郎を先頭に、四条大橋を渡っていく。
すれちがう人々は、なにか恐ろしいものでも見るように顔を強張らせて、道を譲った。
紋付の羽織くらいでは彼らの物騒な雰囲気は隠しおおせないらしい。
「この着物と袴だけでは、如何ともし難いな」
近藤は土方歳三と肩を並べて歩きながら、借り物の羽織の袂を開いて、大きな口をへの字に曲げた。
役者と見紛うほど外見がいい土方などは、折り目のついた紋付を羽織ると、中に着ているボロがよけい際立つ。
「ちっ、薩摩の下士連中だって、こんな継ぎ当ては着ねえぞ?」
藤堂平助が首を捻った。
「でも妙な話っスよね。薩摩は例の(生麦)事件でイギリスからけっこうな賠償金を吹っかけられてると聴くし、戦になれば金だってもっと掛かる。実際んとこ、台所事情はそれほど楽じゃないはずでしょ」
山南敬介が、その認識をやんわり正した。
「そうとばかりも言えんさ。彼らが密貿易で儲けてるのは公然の秘密だ。その財源は馬鹿にできない」
金戒光明寺の長い石段が一行の視界に入った。
みな世間話に興じる風を装ってはいるが、本当のところ羽織云々はただの口実で、何か喋っていないと落ち着かないのだ。
猛者揃いの彼らも、この種の緊張には免疫がなかった。
ただ、そういったプレッシャーには無縁の原田左之助は、まだ羽織に拘っていた。
彼は沖田総司にその襟を胸元でピンと張って見せた。
「俺のだけ家紋がみんなのと違うんだよ。な?な?」
「足りない分は、八木さんが他所から借りて来てくれたんじゃないですか?」
沖田は、その家紋をチラリと見ると、またそびえ立つ山門に視線を戻して石段を登ってゆく。
「けどよう、ほら、裏に『嘉永七年十一月奉納』とか書いてあんだろ?なにこれ、どういう意味?」
興味を引かれた藤堂平助が、原田の裏地を覗き込んだ。
「あ~、こりゃ*の**で**だ**のヤツっスね」
「あ?なんだよ、肝心のとこをゴニョゴニョ濁しやがって!気になんだろうが!…つーかお前、ひとりだけ妙に小奇麗な格好してねえか?」
「皆さんほど、お金には不自由してないんでね。オホホ」
ところが藤堂の得意げな笑みは、あっという間に掻き消された。
「わっ」
石段を踏み外して危うく転げ落ちそうになり、すんでのところで踏みとどまった。
振り返ってみれば、足を止めた永倉新八が袴の腰板に手を架けていた。
「アブねえなあ、もう!」
「ケ、ほざきやがれ!…ハ~、しっかし、金を持ってる連中てのは、どーしてこう高いとこに住みたがるかねえ? さっきからずっと上りじゃねえか」
永倉は肩で息をしながら、膝に手をついた。
「ほら、左を見て」
山南が励ますように、皆の注意を促した。
一行は石段の中ほどに差し掛かっており、そこからは都の中心部が一望できた。
沖田と藤堂が思わず嘆声を漏らす。
「あ!禁裏の中まで見えるぞ」
「あっちは二条城か」
永倉は、その眺望に、会津が本陣を敷いた地の利を察した。
「…なーるほど、そゆこと」
「ええ。つまり、一朝事あらば直ちに馬前へ駆けつけん、というわけです」
「ふん、下々を見下ろすのは、さぞ気分も良かろうて」
永倉は憎まれ口を叩いて、また歩き始めた。
「けど、会津に頭を下げるってのもどうかなあ。このご時勢、金回りがいいのは悪いことをしてる奴らだけだって、姉さんがよく言ってたし」
沖田は藤堂の自慢に当てこするとニヤリと笑った
「…洒落になってねえよ」
藤堂が顔をしかめる。
前を歩いていた芹沢鴨が、後続を振り返って発破をかけた。
「オラオラ!モタモタしてっと、殿内の野郎に先を越されっぞ!永倉、キリキリ歩きやがれ!」
「う~るせえ!てめえの尻を見上げながら、こいつらの貧乏自慢を聞かされた日にゃ、誰だって気分くらい悪くならあ! 」
やり返す永倉を見下ろして、芹沢は高らかに宣言した。
「大の男がチマチマ懐具合なんか気にすんじゃねえよ!いいか、てめえら!金のこたぁ、俺が殿さんに掛け合ってやっから、大船に乗ったつもりでいやがれ!」
その会津とて、決して楽にやり繰りしている訳ではないことを、後に彼らは思い知らされる。
「…あとが恐いっつーんだよ」
最後尾を歩く土方歳三が顔を伏せて毒づくと、近藤と山南は苦笑を交わした。
しかし残念ながら、この日、会津公松平容保へのお目通りは叶わなかった。
時を同じくして、二条城の老中板倉勝静より京都守護職に宛て、京に残留する浪士たちの差配を命じる旨の呼び出しがあったためで、こちらは浪士組本隊の鵜殿鳩翁からのボトムアップによる通達である。
幕臣佐々木只三郎の根回しが功を奏してか、嘆願書はすんなりと受理されたが、
芹沢・近藤が、自分たちの名義で嘆願書を提出したタイミングはまさに間一髪だったことになる。
不在の会津公に代わり本陣で彼らを応対したのは、二人の若い公用方だった。
秋月悌次郎と広沢富次郎、彼らは、珍妙な一団の来訪に警戒の色を隠さなかったが、この後、数々の苦難を彼らと共にするとは夢にも思わなかっただろう。
ともあれ、この二日後、浪士組は念願叶って会津藩お預かりとなった。
近藤たちは浪士組本隊から離れて、独立した組織として公に認められたのだ。
新選組の前身、いわゆる「壬生浪士組」の誕生である。




