揃いの紋付 其之壱
文久三年三月九日、夕の七つ(4:00pm)。
壬生村、八木家の母屋にて。
「お雅!お雅!」
主人の八木源之丞が屋敷内を大声で呼ばわりながら、ドスドスと歩き回っている。
庭で洗濯物を取り込んでいた妻の八木雅が、縁側から顔を出した。
「そない大声出さんでも聞こえますわ。なんどす?」
「えらいこっちゃ!わしの紋付出してくれるか」
「紋付やったら、そこの衣紋掛けにおますやろ?そやけど、今時分から何処ぞへお出かけどす?」
「ちゃうがな。全部や、全部」
源之丞は焦れったそうに小さく足を踏み鳴らす。
雅は眉間に皺を寄せて、両手に抱えていた洗濯物を縁側にドサッと置いた。
「全部て、なにを?」
「そやから、紋付の羽織や!」
「虫干しでもしますのか。もう夕方どすえ?」
「ええから、早よ!そや、秀次郎のと、あと死んだ爺さんのやつもまだあったやろ」
「あんた、頭おかしなったんとちゃいますやろな」
雅は腰に手をあてて、源之丞をにらんだ。
「あほ、正気や。とにかく、早よ」
「はいはい」
雅はブツブツ言いながら、玄関前の納戸から葛籠を引っぱり出した。
「え~、羽織、羽織」
彼女は折りたたんだ着物を一着ずつ取り出して積み上げていく。
「…そお言うたら、勇之助が今日膝擦り剥いて帰って来ましたんやけどな。お祐ちゃん言う近所の娘さんが、わざわざ家まで負ぶって来てくれはったんえ」
「そんなんどうでもええさかい、早よしてえな。十七着も要るんや」
「じゅ、十七着て!うちは呉服屋やおへんえ?!」
雅は目をむいて源之丞を睨んだ。
「そやから、秀次郎のと、死んだ爺さんの分もあるやろ。あと、そや!狂言の衣装も引っ張り出してきたらええがな」
「あんた、あれは、お寺に奉納されたもんどすさかい、他所で亡くなった人の羽織え?」
「わしかて舞台で着とるんや、かまへんかまへん!」
源之丞は面倒くさそうに手のひらを振った。
「かまへんて、なにがかまへんの。よう言わんわ」
そもそも八木家の騒動の発端は、浪士組の芹沢鴨と近藤勇だった。
つまり、この下らない夫婦喧嘩の原因をずっと遡っていけば、浪士組の内輪揉めに行き着く。
三月に入って以降、京に残る浪士たちの勢力争いは、急に慌ただしさを増していた。
鵜殿鳩翁の命を受けた殿内義雄は、根岸友山の一門である清水五一、遠藤丈庵や、神代仁之助、鈴木長蔵といったところを取りまとめ、近藤・芹沢派に対抗する動きを見せている。
この間、芹沢ら水戸派は、残留希望者の中から、同じ水戸出身の粕谷新五郎を抱きこんだ。
近藤派にも、斎藤一という新戦力が加入し、さらに山南敬介が、玄武館時代の同門、阿比留鋭三郎に声をかけている。
また、もう一人の新入隊士、佐伯又三郎は、持ち前の日和見な性格を発揮して、早々にこれら三つの派閥を秤にかけ、水戸天狗党の金看板がある芹沢鴨におべっかを使いだした。
もっともこの選択は、成功したとは言いがたい。
処世術に長けた佐伯の嗅覚も、この時ばかりは鈍ったものらしく、結果的に自分の寿命を縮めることになった。
が、それはもう少し先の話である。
ともかく、芹沢、近藤の両派は、これまでの遺恨をひとまず置いて、協力して殿内派を抑え込むことで合意したのである。
機先を制したい芹沢、近藤らは、会津藩お預かりを嘆願するため、急ぎ京都守護職の本陣へ赴く必要に迫られている。
仲介者である佐々木只三郎からの忠告に従って全員で本陣に向かうことになったが、ここで予想外の不都合が発覚した。
場合によっては、会津藩主松平容保のお目見えが叶うかもしれないというのに、着て行くものがないのだ。
芹沢たちは皆、江戸、いや水戸を出てからというもの、着古した羽織一着で凌いでいた。
彼らはまだ紋付を持っているだけマシで、近藤ら試衛館の面々にいたっては、本人もいつから持っているか覚えていないような擦り切れた木綿の併せを着まわしているのだ。
かといって、羽織袴を新調するだけの持ちあわせもない。
彼らは、途方に暮れた。
「どうせ一日きりのことだし、八木さんに借りればいいのに」
沖田総司が、いつもの調子で何気なく口にした思いつきが、八木源之丞の災難の始まりだった。
それは提案と呼ぶほどの意図もなかったが、狭い離れに押し込められている一同には、いやでも耳に入る。
部屋にいた者は、それぞれ隣と顔を見合わせて渋面を作った。
その意見が一同の総意で黙殺されかけたとき、部屋の隅で酒を飲んでいた芹沢が膝を打って発した一声が、すべてをひっくり返した。
「おう、それでいこう」
芹沢と近藤はさっそく母屋へ向かい、麗らかな陽気に障子を開け放って書きものをしていた八木源之丞の平穏な日常を打ち砕いたというわけである。
当時、八木源之丞は「まもなく浪士組は江戸へ帰る」と聞かされていたので、とにかくそれまでのあいだ無難にやりすごして、機嫌よく帰ってもらうのが一番だと考えていたから、この申し出をふたつ返事で引き受けた。
彼を慌てさせたのは、近藤が後出しで「十七人分の羽織がほしいのですが」などと言い出したからだ。




