幸運の女神には前髪しかない
清河八郎の暗殺に失敗して以来、八木家の離れでは、芹沢派と近藤派の言い争いが絶えない。
今後の方針について、彼らの話し合いは迷走を続けていた。
清河の周辺はますます警備がきびしくなり、もはや、つけいるスキもない。
残された時間を考えると、暗殺の遂行は限りなく望み薄だ。
しかし、彼ら浪士組が会津藩に身元を引き受けてもらうためには、清河暗殺が交換条件だった。
「ここにいたっては、もっともらしい理由をつけて失敗の経緯を報告するしかあるまい。そのうえで、あらためて会津お預かりの件を切り出せばいい。計画の続行が難しいことを納得させれば、佐々木只三郎も聞く耳を持つだろう」
芹沢派の知恵者、新見錦が、議論を仕切りなおした。
ここまでは、おおむねみなにも異論はない。
「だが問題は、どうやってそこへ話をもっていくか、だろ?」
土方歳三が疲れた顔で、その日何度目かになるセリフを繰り返した。
「こちらに何も落ち度がなかったと言い張っても説得力に欠くだろう」
新見もまた、おなじような意味のことをこれまでに何度ものべている。
「つまり、認めるべき否は認めた上で、なおかつ失敗は不可抗力であったと印象づけなければならん」
会議は踊る、されど進まず。
話し合いは、決まってこのあたりから紛糾する。
つまり、争点が「失敗の原因はどこに、いや、誰にあったのか」という核心部分に及ばざるをえないからだ。
新見錦と土方歳三はそれぞれ身内に非はないと言って譲らない。
議論はしばらく平行線をたどり、そしてスタートにもどる…というわけだ。
芹沢、近藤の両派が不毛な責任のなすりつけ合いに時間を浪費していた丁度そのころ、彼らの身のふり方について、浪士組の内部ではちょっとした動きがあった。
しかし、当の本人たちはカヤの外で、まだ何も知らされていない。
八木家にその情報をもたらしたのは意外な人物だった。
その日、井上源三郎がいつものように木刀を振るっていると、沖田総司がふらりとやってきて声をかけた。
「もう少し脇を締めたほうがいいですよ」
井上は少し驚いて、声のしたほうをふり向いた。
「めずらしい。塾頭じきじきにご指導いただけるのかい」
「ていうか、なんでこんな狭っ苦しいとこで素振りしてるんです」
玄関前の飛び石の脇に立つ井上を見ながら、沖田は苦笑いした。
「いやね。離れのまえじゃ、歳と新見さんの怒鳴り声がうるさくて。どうせお前さんも逃げてきたんだろ」
「…図星ですよ。やんなっちゃいますよね」
沖田はウンザリした顔で応えた。
その返事を聞いているのかいないのか、井上は脇を締めて木刀を振りながら、しきりに感心している。
「なるほど、脇かあ。なるほどねえ、参考になったよ。そうだ、どうだい?一緒に」
「う~ん…どうしようかな」
稽古道具を持ってくるには、またあの騒々しい離れに戻らなければならない。
迷って視線を泳がせていると、例の風変わりな入隊希望者、祐が門の外からのぞきこんでいるのに目が合った。
「あれ?また来たの」
口をすべらせてから、沖田はしまったという顔をした。
うるさい相手に反撃のきっかけを与えてしまったと思ったのだ。
しかし、祐はチラリと沖田を一瞥したきり、ツンとすまして通り過ぎようとする。
予想外の反応に肩透かしを食らった沖田は、そのわけが気になって、わざと引き止めるようなことを口走った。
「浪士組に入りたいって話なら、もうあきらめたほうがいいと思うよ」
祐は冷ややかな眼でふり返り、あいかわらず取り澄ました様子で、クイとあごを上げた。
「えらそうに指図せんといて。うち知ってるんやで。京に残る浪士組の大将は、殿内ゆう人なんやろ」
沖田と井上は意外な台詞に顔を見合わせた。
「ええ?誰がそんなこと言ったのさ」
「それは言われへんわ」
「なにそれ」
「下っ端と口きいても、しゃあないからな」
おおかた、例の調子でそこらへんを歩いていた浪士の一人を捕まえて、
「責任者は誰だ」というようなことを問い詰めたのだろうと沖田は推測した。
とはいえ、事は重大だ。
「こんな娘まで知ってるってことは、ひょっとして知らなかったのはわたし達だけじゃないんですか」
「いま、『こんな』ってゆうた?」
ムッとする祐に、井上はひとのいい笑顔で手刀を切った。
「いやいや、お嬢さん、助かったよ。まあ、われわれに聞かせたくない話だろうからねえ。噂になってるんなら、一度、林太郎さんにでも聞いてみるとしよう」
二人がその足で沖田総司の義兄林太郎たちの泊まっている中村小藤太邸にいって確認したところ、真偽はともかく、そういう噂があるのは本当らしい。
殿内義雄と家里次郎という隊士が、このところひんぱんに浪士組の長、鵜殿鳩翁と会っているというのだ。
殿内たちもこちらへ残留を決めたというから、
「幕府は二人に、京に残る浪士を仕切らせる心づもりではないか」
との憶測には信憑性があった。
井上と沖田が八木家の離れに戻ったとき、狭い六畳間には芹沢、近藤をはじめ全員が顔をそろえていた。
その一報は、会議をますます混乱に落とし入れた。
これから世に出ようとする彼らにとって、会津藩お預かりの話はまさに「幸運の女神の前髪」だった。
このままでは、やっと巡ってきた好機を逃してしまう。
そのことが彼らをイラ立たせ、対立に拍車をかけた。
「いざとなりゃ、俺が水戸藩にワタリをつけてやるよ」
にらみ合う新見と土方をなだめるように芹沢鴨が言った。
こうなっても、芹沢だけは悠々とした態度を崩そうとしない。
確かに、彼の二人の兄は水戸藩に仕えていたが、過激な攘夷論を唱える水戸藩は、むしろ今の幕府から煙たがられる存在だ。
それに、芹沢のコネを頼ることは、近藤らにとって、もっとも避けたい選択肢だった。
「それで、あんたが浪士組の首領に納まろうって腹だろ。そうはいくかよ」
土方歳三が噛みついた。
「じゃあ、もう一回、清河を狙うか?なら急いだ方がいいぜ」
からかうような芹沢の言葉に、新見が勢いを得てたたみかける。
「浪士組本隊が京を立つまで、あと四日ほどしかない。なんなら、本陣に討ち入って清河の首を挙げるか?」
難しい顔で額を押さえて話を聞いていた井上源三郎が口を開いた。
「それにですね、言いづらいんですが、鵜殿さまも京都守護職を務める会津藩に浪士組をあずけるのがよかろうと考えているようなんです。ただし、その話がまとまれば、隊を率いるのは当然、殿内と家里ってことになるでしょうがね」
「な…」
土方は絶句した。
浪士組の引き受け先が決まっても、それではまた一兵卒に逆戻りだ。
近藤勇が、大きな口をへの字に曲げた。
「つまり、彼らに先を越されるまえに、俺たちの名前で会津へ嘆願書を出さねば手遅れになる…か」
「おいおい、おかしいだろ。俺たちにはなんだかんだ条件を出しやがったくせに、殿内には無条件で浪士組を任せるってのか」
いきり立つ土方を山南敬介が諭した。
「我々のは、佐々木さま個人との口約束に過ぎない。殿内と話をしている浪士取扱の鵜殿様は、幕府そのものだ」
「んなこたあ分かってる。なんでそうなるんだって話だ。そもそも京へ残ると言い出したのは俺たちなんだぜ」
「偉いさん方にしてみれば、水戸なんて物騒な考えを持つ藩の人間に浪士組を任せることは、なんとしても避けたいのさ」
芹沢鴨が吐き捨てるように言った。
事実、水戸藩士らの主張は、取り締まるべき長州勢と大差なかった。
しかし、そんな論法を土方らが認めるわけにはいかない。
「それは、あんたらのことだ。近藤さんはちがう」
新見錦は芹沢と眼を見合わせ、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「近藤さんか。ふん、近藤さんに隊の指揮権を預けるなんてことは、おそらく考えもしなかったろうぜ」
「なんだと!」
「私に怒るのは筋ちがいだ。彼ら旗本にしてみれば、百姓あがりの浪士などはものの数に入っていないんだよ」
これには試衛館の面々全員が顔色を変えたが、ひとり近藤だけは落ち着き払って、腰を浮かせる仲間達を押しとどめた。
「よせ。新見さんに怒ってもしょうがない。実際、そんなところだろう」
「分をわきまえていらっしゃる。いいかあ?おまえら。この国難にあたって、鍬を刀に持ち替えるその心意気は買うが、危ないからこっちには向けるなよ?」
新見が薄笑いを浮かべる。
普段は温厚な山南が、こめかみに青筋をたてて立ち上がった。
「庭へ出ろ。斬る」
一座は騒然となった。
みながそれぞれ好き勝手なことをわめき散らして収集がつかない。
「おもしろい。斬れるもんなら斬ってみろよ」
「まてよ。山南さんの手をわずらわせるまでもない。俺がやってやる」
「多摩の田舎ザムライがいい気になるな」
土方と新見が口汚なく罵り合うのを見て、ここにいる十三人の中で唯一中立的な立場をとっている永倉新八が声を荒げた。
「いーかげんにしろ!いい年した大人がみっともねえ!お山の大将ごっこは俺抜きでやってくれ。付き合いきれん」
彼は荒々しく席を立って離れを出て行ってしまった。
「おーれも。うるさくって昼寝もできゃしねえ」
原田左之助がのっそりと立ち上がって後を追う。
永倉の一喝で、離れはウソのように静まり返った。
ころあいを見計らったように、近藤が重々しく口を開いた。
「…佐々木様には、ありのままを話すしかなかろう」
「では、近藤さんが頭を下げに行ってもらえるのか」
新見は面倒な役回りをすべて押し付けるつもりだ。
しかし近藤は鷹揚にうなずいた。
「心得た」
些末なことにこだわらない近藤の態度が、図らずも二人の器の違いを際立たせた。
新見は苦い顔をして目を逸らす。
彼自身、それを感じたのだろう。
くどいようですが、けっこう話盛ってますんで。




