狙われすぎる男 其之弐
土方歳三 ―ヒジカタトシゾウ―、
彼をという人間を、とても一言で形容することは出来ない。
多摩の豪農の放蕩息子、
人のいい薬売り、
女たらしの浪人、
新選組、鬼の副長、
冷酷な策略家、
母のごとく部下から慕われた指揮官、
負け知らずの軍神、
そして、義を貫き通した武士。
土方は、その生涯において、何度も羽化を繰り返すように、みごとな変貌を遂げていく。
一見、軽薄にすら見えるその変わり身の早さは、それでいてある種の美学が貫かれていた。
彼は奸智に長け、ときに残忍ですらあったが、生涯を賭けて、その業をすべて背負うことを自らに課したのだ。
これは、土方歳三にとって長い戦いの幕開けであり、最初の変化を迫られる契機ともなった出来事だった。
「退屈な毎日も終わりだ。そろそろ始めようぜ」
彼らには、それだけで全てが伝わることを、土方は知っていた。
一方、まさにその時、
彼らが手はずを申し合わせていた店の前を、男装した中沢琴が駆け抜けていった。
四半刻もしないうちに智積院に着いた琴は、門番の土州兵に清河のことを尋ねた。
「あの偉そうな二人組かえ?取り次いちゃったけんど、追い返されよったぜ」
どうやら、山内容堂との面会は叶わなかったらしい。
「どっちへ行ったか判りますか」
「う~ん、あっちへ去によったかいのう」
門番は、自信なさげに漠然と北の方を指した。
琴は、その指の先にある鞍馬山を眺めて途方に暮れた。
「明るいうちに、大人しく帰ってくれればいいけど、無理ね。きっとヤケ酒をあおってる」
それでもまた、夜はやってくる。
日暮れどきから、霧のような雨が降り出していた。
笠を被った月の輝きが、堀川べりの八重桜をうす青く染めている。
近藤たちは、仏光寺通りの北菅大臣神社に身を潜め、
もう二刻ちかく、その場所に留まっていた。
うっすらとした月明かりにも、すっかり目は慣らされている。
清河は来ない。
その長い長い時間は、彼らに不安な心象をもたらした。
初めてヒトを殺すという、禁忌に触れることへの畏怖。
だがそれには、かるい眩暈を覚えるような、暗く、甘い歓喜が微かに溶け込んでいる。
「来ますかね」
沖田総司は、その頬をわずかに上気させながら、囁いた。
「たぶんな」
永倉新八が、短く応じる。
「二人ですかね?」
「たぶん」
「は~あ、面白い人なんだけど。攘夷派ってのは、やることがいちいち芝居がかってるっていうかさ、ガキなんだよな」
永倉は、ウンザリして沖田を睨んだ。
「う~るせえなあ、少しは黙ってろよ!」
「だってさ…」
土方歳三は、鳥居に寄りかかって、二人の会話を聞くともなしに聞いていたが、ふと顔を上げ、戒めるように言った。
「その青臭い衝動ってのはな、まんざら侮れねえ。なんたって、あの大獄を経験してなお、お上にたて突こうって連中だ。それも、若さゆえの妄信が成せる業さ」
霧雨の雫が、その睫毛に光っている。
沖田は先ほどから、ほとんど無意識に刀の柄に手をかけて、握りを確かめていた。
「つまり、我々は大人なんですよ」
狛犬の台座に腰掛けていた原田左之助が、面白くもなさそうに口をはさんだ。
「それとも、ジジイみたく分別くさいだけかもなあ?」
沖田はぬかるんだ足元を見て顔をしかめた。
「ちぇ、気が削がれるよな。どうにも気乗りしませんよ、斬り合いってのは」
永倉は、土方を気にしながら、押し殺した声で沖田を叱った。
「あのなあ、誰だって殺さずに済むならそうしたいんだよ!」
「じゃなくて、返り血を浴びたら、今日は着替えがないんですよ」
沖田は悪戯っぽく笑った。
原田がのっそりと立ち上がって、尻を叩いた。
「ちっ、ここにもガキがいやがったぜ。それで余裕を見せてるつもりかよ」
「別に強がってるわけじゃ…」
沖田の抗議を、近藤勇の言葉が遮った。
「にしても、遅い。近道のこっちを通ると踏んでいたが、ひょっとして、芹沢さんたちの待つ四条通を選んだか」
先ほどからじっと腕組みをして、五条大橋の方角を睨んでいた井上源三郎が振り返った。
「あっちでカタをつけたら、平助が知らせに来ることになってる」
土方が井上に肩を並べて、同じ方向に眼を凝らす。
「だが、この時間だ。飯を食って帰るなら、賑やかな四条を通る公算が高いぜ」
近藤は、この一件についてはすべて土方の指示に従うと決めていた。
「どうするんだ、歳」
「ここで、水戸組に手柄をかっさらわれるのは面白くねえ」
「あっちにも、山南さんと平助がいるだろ?」
「あの二人はダメさ。まだ腹が座ってねえからな」
新見がグループを二つに分ける際、この計画に消極的な二人を芹沢隊に押し付けたのも土方だった。
近藤は不承々々頷くしかなかった。
「かもな」
「近藤さん、永倉と総司を借りるぜ?俺たちは烏丸通まで出て、芹沢たちをだし抜く」
永倉が目を剥いてあきれた。
「おいおい、もう抜け駆けかよ!?」
「なんとでも言え。ここで奴らに先を越されちゃ、あとあとやり辛くなんだよ」
同時刻、四条堀川。
芹沢たちもまた、同じように焦れていた。
彼らは堀川の西側にある久留米藩邸の高い塀に身を隠している。
しかし、にぎやかな四条通も、この時間にはすでに人通りが絶えて久しい。
「ホントに来んのかね?もう別の道で帰っちまって、今頃本陣に女でも連れ込んでんじゃねえのか」
お世辞にも気が長いとは言えない芹沢が、暇つぶしのつもりか、鉄扇の先で白壁をガリガリと引っ掻いた。
「いや、来ますよ。それも、こちらの道をね」
彼の参謀新見錦の言葉には、確信めいたものがある。
藤堂平助が、その根拠のない自信を鼻で笑った。
「ふん、どうだか」
新見がジロリと藤堂を睨むのを見て、山南敬介が嗜めた。
「よさないか。こちらに来なければ来ないでいい」
「そりゃあ、オレだって…」
藤堂は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。
そもそも、この計画自体が気に入らない彼には、言いたいことが山ほどあったが、今さらそれを口にすることの愚かさもよく分かっている。
だが、山南にとって一番の気がかりは、そうした藤堂の聡明さだった。
「言っておくが平助、相手が相手だ。ここまで来て迷いを振り切れねば、死ぬのはこちらになる」
「山南さんは斬れますか。清河を」
清河と同じ玄武館で剣を学んだ山南は、この中でも最も因縁が深いと言える。
しかし、無言で頷いた山南の目には、すでに殺気が備わっていた。
藤堂は、気不味さを紛らわせようと話を逸らした。
「でも、永倉さんまでスンナリこの話に乗ったのはちょっと意外だったな」
「何が正しくて、何がそうでないかなんて、考えたところで答えが出ないこともある。彼は知ってるのさ。我々に出来るのは、結局、そのどちらかを選ぶことだけだと」
山南は、自分に言い聞かせるように呟いた。
「けど、山南さんは…」
「もっとも、私自身、まだそういう風に割り切れていないがね」
山南の自嘲的な口ぶりに、イライラした芹沢が鉄扇を振り回す。
「ちぇ、やめろやめろ。なにを女みたいにウジウジ言ってやがる!悪党を一人ぶっ殺すのに、いちいち言い訳が必要か?」
新見錦がそんな芹沢を横目に見て、口の端を歪めた。
「ひょっとして、彼の疑問には、あなたにも思い当たることがあるのでは?我々には、骨の髄まで染み込んでいる水戸学の道徳観すら、あなたはどこか信じていない節がある」
「は、買いかぶんなよ。難しすぎて、俺には理解できんだけさ」
その時、一味の平間重助が、鋭い声を発した。
「しっ!来たぞ!」




