幕末最強の剣士 其之参
背後では、なで肩の男が物騒な提案を持ちかけていた。
「ねえ、じゃあこうしましょう!誰でもいい。今ここで飯を食ってる者の中から、一番腕が立ちそうだと思う人を指差してください」
「なに?」
斉藤は訝しげに眼を眇めた。
「わたしが、すぐにでも真っ二つにしてご覧入れますよ」
背中合わせに座っている中村半次郎の顔が強張った。
斉藤弥九郎が、声を荒げて嗜めた。
「そういう捨て鉢な物言いがいかんというのだ!」
かの剣豪をこれほど慌てさせるのは、なで肩の男が本当に言った通りやりかねないという事だろう。
先ほどまでウダツの上がらぬ中年男にしか見えなかったその背中から、すさまじい殺気が立ち昇るのを琴も感じていた。
「じゃあ、出すものを出してくれませんか?何せ、はるばる江戸から、ここまでやって来るのに、路銀も使い果たしましてね」
斉藤は、渋々財布から手持ちの金を取り出した。
「とりあえず、これで凌いでくれ。手当ての件は、桂先生と話をしてみる」
「頼みましたよ。下関へ従軍するにも、具足やらなにやら支度金ってものが要るんだ。まさかこの格好で行けとは桂先生も言わんでしょう」
男はくたびれた袴を摘まんでみせた。
先ほどから話題にのぼる「下関」は、長州軍が来たるべき攘夷決行に備えている土地だ。
この後、長州は下関の馬関海峡を封鎖して列強諸国と火蓋を切ることになるが、今や帝と将軍の謁見も成り、あとは戦闘開始の号令を待つばかりであった。
「わかった、わかった。で、仕事の話だが」
斎藤弥九郎は男をなだめ、本題を切り出した。
「名前を言ってくれりゃあいいですよ」
「え?」
「誰ぞ斬れって言うんでしょう?」
なで肩の男は、まるで天気の話でもするように尋ねた。
隣の客や、後ろにいる琴たちを気にもしていない。
「あ…ああ」
妙に物分かりのいい返事に、斉藤も戸惑いを隠せなかった。
彼は周囲を見渡してから少し身を乗り出し、声をひそめた。
「相手は庄内脱藩浪士。北辰一刀流免許皆伝で、あの玄武館の塾頭も務めた男だ。強い」
「清河八郎ですか、有名人だ。わたしにお声が掛かるからには、それなりの人物だろうことは想像してましたよ。今、京に来ているんですか?」
琴はその言葉に一瞬身を硬くしたが、中村半次郎にも動揺を気取られたくなかったので、なんとか平静を装った。
「声が大きい」
斉藤弥九郎が鋭く制した。
彼自身の声も決して小さいとは言えなかったから間の抜けた話だが、彼は警戒するようにチラリと琴たちに眼をやった。
琴は中村半次郎に微笑みかけながら、素知らぬ風を装う。
中村も調子を合せてボソボソと適当な話をデッチ上げた。
斉藤弥九郎に二人を怪しむ気配はない。
と言うより話に熱が入りすぎて、今の彼にはそこまで気が回らないようだ。
「先日、浪士組というのを率いて京に入った。以前は攘夷の魁たらんなどと吹いていたはずが、投獄されて寝返ったらしい」
彼は、清河八郎の変節を憎々しげに語った。
名にし負う練兵館の道場主といえど、血気盛んな長州藩士たちと交われば、攘夷思想の洗礼を免れないということか。
しかし、なで肩の男にとって、人が死ぬ理由などはどうでもいいようだ。
「政治向きのことは分かりませんが、とにかくそいつを殺せばいいんですね」
そのお座なりな返事が、斉藤の癇に障ったらしい。
「前にも言ったが、世間の情勢にも眼を向けてみたらどうだね。あなたの放蕩ぶりは、高杉の悪ふざけとは訳が違う」
「何度も言いますが、わたしという男には刀を振り回すしか能がなくてね。なにぶん、ココの作りが学問には向いてないらしい」
なで肩の男は、頭をコツコツと指の先で叩いて笑った。
「ではせめて、その自堕落な生活を改めたまえ。さもなくば、やがて酒で身を滅ぼすことになるぞ」
「ご心配かたじけないが、その時が来れば、ちゃんと酒は抜きますよ」
男は素っ気なく言って、席を立った。
斉藤はその腕をつかんで、最後にもう一つ言い添えた。
「近々、浪士組に長州の間者を潜り込ませる手筈になっている。清河の行動が先読みできれば、ことは容易かろう?」
「その辺りはお任せしましょう」
男は出口に向き直り、琴は初めてその顔を目の当たりにした。
無精髭を生やし、酔っているせいかトロンとした眼をしている。
先ほど発していた殺気がウソのように、威圧感というものはまるで感じられない。
どこにでもいる、四十がらみの中年男だ。
それどころか、極端ななで肩のせいもあって、頼りなさそうにさえ見える。
二人の前を横切る瞬間、彼はふと琴に目を留めて、何を思ったか、にっこりと微笑みかけた。
琴は恐怖で眼を逸らすことも出来ず、
その瞬きするほどの時間が、まるで永遠のように感じられた。
男が店を出てゆくと、今まで黙っていたもう一人の男が、斉藤の顔を不安げに覗きこんだ。
「よかったんですか?いくら腕利きとはいえ、浪士組に護られた清河を、ひとりで相手するのは少々荷が重いと思いますが…」
「かと言って、あの男が軍隊の一員として役に立つと思うか?結局、ああした使い道しかないんだ。失敗すれば、それもまたよしさ」
「しかし、桂先生がわざわざ呼び寄せたお方です。斉藤先生の一存で勝手に…」
「桂さんは分かっとらん。仏生寺弥助、あれはわが神道無念流が産み落とした鬼子だ。一度、白刃を抜かせれば、誰にも止めることなど出来ん」
斉藤弥九郎は、まるで忌まわしい言葉のように、その名を口にした。
二人が金を置いて店を出て行ったとき、琴は、あの男こそが清河の言う謎の刺客だと確信していた。
仏生寺弥助 ―ブッショウジヤスケ―、
のちに幕末最強の剣士と言われた男。
彼は長州藩士ではない。
もとは練兵館の風呂焚きとして雇われた百姓の子で、そもそも武士ですらなかった。
ふとしたきっかけから、道場の食客岡田十松に、そのズバ抜けた剣才を見出され、その後、わずか17歳で免許皆伝に至ったという、まさに異色の経歴の持ち主である。
しかし彼の名を後世の歴史書に見ることはほとんどない。
なぜなら、彼は強すぎた。
その強さはあまりに苛烈をきわめ、
ついに誰にも制御することは叶わなかった。
そしてそれは、彼自身すら例外ではなかったのである。
長州藩が彼に近づいたのは、桂小五郎の働きかけによるものだった。
仏生寺には、神道無念流の同門である桂と個人的な繋がりがあって、清河にもなかなか正体が掴めなかったのはそのためである。
「おかしなことに巻き込んでしまって、すみませんでした」
ようやくやってきた朝粥をハシの先でかき混ぜながら、中村半次郎は悪びれる様子もない。
琴は、椀のふちを指でなぞりながら、顔を上げずに尋ねた。
「今のは?」
「長州閥の不穏分子ですよ。後をつけてみたら、思わぬ陰謀に行き当たったってとこでしょうか。しかし、どうやら我が薩摩の預かり知らぬ話のようだ」
「どうされるおつもりですか?」
「どうって、別になにも?浪士組というのは、最近京にやってきた幕府方の実動部隊でしてね。まずは静観して、彼らのお手並みを拝見するつもりです。こりゃあ、見ものですよ。ふふ、どうです、都と言うのは面白いところでしょう?」
愉快げに笑って、中村は琴に酒を注いだ。
「…」
琴は口をつけず、ただ中村をじっと見つめている。
しかし、たいていの男なら怖気づく、吸い込まれそうな黒い瞳も、中村には通用しなかった。
「察するに、あなたの『いい人』も、今の連中と同じようなことに手を染めているのではないですか」
「だとしたら、わたしが正直に答えると思いますか?」
琴は表情を変えずに問い返した。
「さあね。恋をする女性にこんな忠告など無意味かもしれないが、もしそうなら、別れたほうがいい。ああいう連中は、ロクな死に方をしませんから」
中村は、登勢から聞かされた話を念頭にしゃべっているのだろうが、それは山南敬介に当てはめても、同じことが言えるように思えた。
「どうして、あなたにそんなことが分かるんですか」
琴がキッとした眼で睨むと、中村は例の魅力的な笑顔で応えた。
「私も奴らと同類だから、ですよ」




