幕末最強の剣士 其之弐
琴は眉をひそめた。
京にいる諸藩の有名人については、清河からある程度のレクチャーを受けている。
人斬り半次郎といえば、「青蓮院宮衛士」 第一の使い手ではなかったか。
つまり「公武合体派」の中心的存在、中川宮を守護する組織の一員ということだ。
それが、なぜ敵方である「尊皇攘夷派の巣窟」寺田屋にいたのか、理屈に合わない。
ちょうどこの頃、孝明帝が、御所から将軍徳川家茂を引き連れ、上賀茂・下賀茂神社へ攘夷祈願に行幸されたばかりということもあって、巷では、そのきらびやかな行列の話題で持ちきりだった。
それはまさに“引き連れて”といった表現が相応しい演出で、質の悪い長人(長州者)が将軍を揶揄うような罵声を浴びせたという風聞などもあって、どことなくキナ臭い匂いが漂う、このタイミングも気になる。
琴は知る由もなかったが、その長人こそ、松下村塾四天王として久坂玄瑞と並び称される高杉晋作だった。
薩摩藩の方は、今のところ、公武合体策にも協力的で、表立って幕府に敵対する姿勢は見せていないものの、虎視眈々と政権への参画を狙っているというのが、もっぱらの噂である。
中村半次郎の動きを、それと結びつけて考えてしまうのは、なにも突飛なこととは言えまい。
万が一、彼ら薩摩藩が「尊皇攘夷」を公然と掲げるようなことにでもなれば、その中村は、幕府にとって、つまり山南敬介らにとって、恐ろしい敵になるはずだ。
「今の方は、どなたかに会いにいらっしゃったんですか?」
階段を見上げながら聞く琴に釣られて、登勢も同じ方を向きながら、
「そうどっしゃろなあ。まあ、あんまり深入りはせんようにしてますのや。いとはんも安積はんと一緒どしたら、うちが言うてる意味、解りますなあ?」
と、暗に警告を与えた。
琴は口元を引き結んで小さくうなずいた。
「それに、今どきコレに本名書かはるお客さんも居らしまへんさかい。あの人が会うてはるお方が、どこの何方かやなんて考えるだけ無駄どすわ」
登勢は宿帳を振ってみせながら、帳場に引っ込んでいった。
琴はため息をついて、中村が出て行った玄関をふり返った。
「お部屋まで、ご案内します」
仲居が不思議そうに琴の顔をのぞきこんで声をかけた。
ところが、翌日、琴はまた、その中村半次郎に行き合うことになった。
その朝、「京見物に出かけてくる」と告げて宿を出た琴は、いちど壬生村に戻るため、市中の方角に向かった。
すると四半里ほど行った先の、高瀬川に掛かる橋の上で、中村がこちらを見ながら微笑んでいる。
「やっぱり。似た人がこっちに歩いてくるのが見えたから待ってたんですよ」
琴はとぼけても無駄だと観念して頭を下げた。
「中村様、ですね?おはようございます」
「いやあ、実はすぐそこに、われわれの藩邸がありましてね。昨日は一晩そこで過ごして、これから出勤なのです」
「出勤?」
「ええ。私の持ち場は青蓮院といって、都の北です。此処からだと一刻はかかる」
「それは毎日通うのも大変ですね!」
琴は大げさに驚いて見せた。
「いやいや、市中にも藩邸はあるんですが、昨日はこちらに野暮用がありましてね」
中村の口ぶりは開けっぴろげで、とくに人目をはばかる風もない。
「お富さんは、京見物ですか」
「ええまあ、そんなところです」
琴は油断のない目つきで応えた。
「いやだな。朝っぱらから口説いたりしませんから、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。それより歩きませんか。市中の見物なら方角は一緒だ」
二人は連れ立って歩きはじめた。
中村はしきりに他愛のない話題を持ち出しては、琴の気を引こうとしているように見える。
しかし、中村が自分の方を向いて話しかけるふりをしながら、ときどき後方に素早く目を走らせるのを琴は見逃さなかった。
やがて、中村は小さな料理屋を通り過ぎた辺りで急に立ち止まると、手を打った。
「そうだ!そこの店で朝粥でもどうです?ご馳走しますよ」
「あの、わたし、朝食は宿で済ませてきましたから」
琴は手を振って断ったが、中村はその手を掴んで、もう引き返していた。
「いいから、いいから」
この誘いには、何か事情があるらしい。
そう察した琴は、大人しく従うことにした。
店に入ると、こんな時間から酒を飲んでいる浪士がふた組、それに市場帰りの商人たちが遅い朝食をとっていたりして、それなりに混みあっている。
店内は「うなぎの寝床」と呼ばれる京町家独特の造りで、奥行きはあるが、間口は三間(約5.5M)程度しかない。
「ここにしましょう」
中村は入口に近い空席を選び、二人は差し向かいに座った。
琴は、中村の背後で仲居に食事を注文している三人の浪士たちを見た。
こちらを向いている二人は、ともに三十代くらいのがっしりした浪士で、なかなか身なりもいい。
特に向かって右側に座っている面長の男は、ただ者でない雰囲気を漂わせていた。
もう一人は背中しか見えないが、なで肩のひょろっとした男で、着物もどこか薄汚れている。
風采の上がらない中年男といった感じだ。
おそらく中村半次郎の目的は、この三人組だろうと琴は踏んでいた。
道を歩きながら、時おり背後を気にしていたのは、この三人が後ろを歩いていたからに違いない。
つまり、自分はカムフラージュに利用されたらしい。
彼らがこの店に入ったので、ここに連れ込まれたのだろう。
琴は小首を傾げて、軽く中村を睨んだ。
もっとも彼の方も、自分の魂胆を見透かされているのは先刻承知といった風で、申し訳なさそうに少し微笑むと、唇に人差し指を立ててみせた。
店内は雑多な騒めきに満ちていて、例の三人組は、さほど周りを気にしていないようだ。
どうやら場を仕切っているのは面長の男で、酌を受けながら一人でしゃべっている。
この男は、名を(二代目)斉藤弥九郎といって、江戸は九段坂下にある剣術道場、練兵館の当主である。
ただ、おなじ道場主でも、あの近藤勇や中沢良之助などとは訳がちがった。
神道無念流練兵館は、当時、江戸の三大道場のひとつに数えられる名門だった。
彼の父、初代斉藤弥九郎は、浪士組の芹沢鴨、永倉新八らの師にあたる。
そして、二代目斎藤弥九郎も、鏡新明智流の桃井春蔵、北辰一刀流の千葉栄次郎らと並び称される剣豪だった。
いわく、“位”は桃井、“技”は千葉、“力”は斉藤。
桂小五郎など、長州藩の名だたる剣士たちの多くは、この斉藤弥九郎の門徒であり、そして、斉藤自身は逆に、桂たちから思想的な影響を強く受けていた。
その斉藤が、差し向かいに座るなで肩の男に言った。
「あなたが下関に向かう前に一つ仕事を頼みたい。これは桂先生からではなく、私自身の依頼だ」
なで肩の男は、まだ店に入って一杯も飲んでいないのに、すでに酒の匂いをぷんぷん漂わせている。
彼は、いかにも自堕落な浪人を思わせる物腰で、手をにぎり合わせた。
「ええ、ええ。わたしは別に仕事の選り好みはしませんよ。ですがその前に、まずお金の話をしませんか?」
斉藤弥九郎は、男の吐く酒臭い息に顔をしかめながら、
「それは、今回の働き次第だ」
とつっぱねた。
「待ってくださいよ。今さらわたしを試そうなんて。わたしのことは、あなたも桂さんもよくご存知じゃないですか」
相手の男は、懇願するような口ぶりで抗議しはじめた。
「腕がなまっていないとも限らん。今のあなたのザマを見れば、とても大事を任せられるとは思えんよ」
そこへ仲居が三人の食事を運んできて、話は一旦途切れた。
中村半次郎がちょうどいいという風に手をあげて、仲居に声をかけた。
「こっちも注文、いいかい?」
仲居は三人分の膳を給し終えると、琴たちの方にやってきて、
「おまちどうさん」
と微笑んだ。
「われわれも粥をもらおう。あと、そうだな。冷酒を一つ」
中村は手早く注文を済ませて、ふたたび後方へ意識を集中する。
「これからお仕事なのに、飲むんですか?」
琴の口調には、遠慮がちながらも咎めるような響きが混じっている。
中村は露骨に話しかけられるのを嫌って、手を振った。
「飲むのは私じゃない。無理やり誘ったお詫びですよ」
琴は無言で小さく頭を振りながら、天井を睨んだ。




