幕末最強の剣士 其之壱
幕末の若いサムライたちというのは、勝手な思い込みでずいぶん簡単に人を殺めたものだったが、命を狙われる側も危機管理についてはかなり大雑把というか、無頓着な人間が多かった。
国事の周旋に奔走しているかぎり、つまり自分に成すべきことがあるかぎり、天は自分を生かしておくはずだという、根拠のない自信を持つ運命論者のたぐいだ。
勝海舟しかり。
そして、清河八郎しかり。
都のそこかしこに咲き誇っていた桜もすっかり花びらを散らした頃。
清河は、あいも変わらず次なる謀略の準備に忙しかったが、中沢琴はそろそろ彼に振り回されるのにもあきあきしていた。
清河はさきごろ浪士組結成の真意を明かして、公然と幕府方を敵にまわしたばかりだ。
ただ、尊王攘夷派のなかには、幕府におもねって浪士組などというものに関わった彼を、まだ裏切り者とみなしている輩も大勢いたのである。
つまり清河のまわりには、どこを向いても敵しかいなかった。
琴は護衛として、つねにこの嫌われ者の周辺に目を光らせていたものの、次第にそれにも限界があると感じはじめていた。
なかでも一番気がかりなのは、長州が雇ったという男だ。
清河が言うには、とにかくバケモノのように強いらしいが、それ以外のことは何もわからない。
「虎尾の会」には、長州、土佐、肥後など過激派の動静に詳しい人間も少なくないというのに、この剣士に関するかぎり、その素性、経歴など一切が不明なのだ。
これでは、今のような少人数で清河を守ることは難しい。
琴は相手の出方をうかがっていては不利だと判断した。
幸いなことに、もっとも警戒すべき「人斬り以蔵」は勝海舟の護衛に転職したというし、「人斬り新兵衛」の方もこのところナリをひそめている。
つまり、攻めに転じるにはいい頃合いだ。
「考えたんだけど」
新徳寺の寺宿田辺家に滞在していた清河は、この日、床机で書き物をしていたところへ、お茶を運んできた女中がいきなり声をかけてきたので、びっくりして顔を上げた。
「あ、あんたか。誰かと思ったよ」
それが中沢琴だとようやく気づいて目を丸くする清河に、彼女はお茶をタンと置いて冷たく言った。
「私がずっと天井裏か床下にでも隠れて、あなたを見張ってると思ってたの?」
琴は、この寺宿の主人田辺吉郎に清河警護の用向きを伝えて、使用人にまぎれ込んでいた。
市中を探し回っていた山南敬介らも、灯台下暗しで、すっかり裏をかかれていたわけだ。
「いや…ずいぶん可愛い奉公人がいるなあとは思ってたんだがね」
「ありがと」
見え透いたお愛想につき合うつもりはないらしく、琴はさっそく本題に入った。
「考えたんだけど、どうもただ待ってるのは性に合わないから、その長州の腕利きというのを捜してみようと思う」
「おいおいそのあいだ、おれの警護はどうなる」
「山岡(鉄太郎)様のそばを離れないことね。だいたい、あなた玄武館の塾頭まで務めた腕でしょう。自分の身くらい自分で守って」
「たいした護衛もあったもんだな」
清河は、膝を打って笑ったあと、こうアドバイスした。
「伏見の寺田屋にしばらく宿をとってみろ。あそこは尊攘派の巣窟だ」
「…了解」
琴ははじめて小さく笑った。
翌日。
「お客さん、お一人どすか」
寺田屋の女将が、すこし驚いた顔でたずねた。
今日の中沢琴は、小紋すがたで髪を丸髷に結っている。
この時代、若い女性客が一人で船宿に泊まることなど、滅多にあることではなかったから、女将が不審に思うのも当然だった。
「安積様とここで落ち合うことになっておりまして」
琴は、清河から教えられたとおりに答えた。
「安積」という名を出したのも清河の指示だ。
女将は斜め上に視線をただよわせて、なにか思い出そうとするように顔をしかめた。
「安積…安積五郎はん?」
「ええ。二人で江戸を発って京まで一緒だったのですけど、あの方は所用でそのまま丹波に足を伸ばされまして、私には、もどるまでここで待つようにと」
そこまで言うと、女将はなにごとか察したようにうなずいた。
「よろしおす。ごゆっくりしとくれやす」
この船宿の女将「お登勢」は名にしおう女傑で、攘夷活動(のちには討幕運動)にかかわる多くの志士たちを幕府からかくまったり、ときには逃がしたりと、幕末史においても重要な役割を果たした。
だからこそ、当時の寺田屋は尊攘派の拠点として機能していたのである。
一方、安積五郎というのは清河の盟友で、例の関白・京都所司代襲撃計画にも一枚かんでいたから、寺田屋とも浅からぬ縁のある人物だった。
登勢は、何か事情があって安積がこの娘を京に残したのだろうと気を利かせたのである。
「せやけど、安積はんもスミに置けまへんなあ」
登勢は、少し身をひいて琴を眺めながら、飾り気のない性格そのままの笑顔を見せた。
琴のほうは、少し後ろめたさもあって申し訳なさそうに頭を下げると、差し出された宿帳に、でたらめな名前を書きはじめた。
そのとき。
「お登勢さん、邪魔したね」
身なりのいい若い客が二階から軽い足取りで降りてきて、琴の背中越しに宿帳をのぞき込んだ。
「ほほう、お富さんか。きれいな字を書く」
「え?」
琴がふり返ると、その青年は妙に魅力的な微笑をうかべて、頭を掻いた。
「私は読み書きがダメでね」
「いとはん(お嬢さん)、口きいたらあかんえ。そのお人は手ぇ早いんやさかい」
登勢がぴしゃりと言った。
「なんだよ、それは」
「中村はん、ご用が済んだんやったら早ようお帰りよし」
「怖いなあ」
中村とよばれた青年は、琴におどけた顔をして見せた。
なかなかの二枚目で、薄紫の羽二重などを羽織っているあたり、たしかに当世のプレイボーイ風だ。
琴はどうしていいかわからず、あいまいな笑みを浮かべる。
登勢は二人の間に割って入るようにして、中村のものらしき下駄をそろえた。
「このいとはんは、うちのお得意さんのええお人どすのや。うちでお預かりしてる最中に悪い虫がついてしもたら、宿の評判にかかわります」
「じゃあ今日は帰ります。お富さん、あまり女将の話を本気にしないでくださいよ。次は邪魔の入らないところで会えればいいが」
中村はふわりと上り框を降りると、少しはにかむように軽く手をあげて出て行った。
「ほんまに調子ええんやから!あれで中村半次郎ゆうたら、京で知らんもんがおらんほど強いお人なんどすえ」
お登勢は呆れた顔で言った。
中村半次郎。
その名は琴にも聞き覚えがあった。
薩摩の「人斬り半次郎」と言ったほうが通りがいいかもしれない。
在京の剣客のなかでも、まずは五本の指に入る手練である。




