人斬り以蔵の気まぐれ 其之弐
二人があまり実のない議論をしている間に、阿部たちは一本東の河原町通りを駆けて、標的の前へ回り込んだ。
息を切らしながら振り返ると、勝と以蔵は彼らから一町(100M弱)ほど後ろを歩いている。
寺町通も、ここまで北に来ると幾分人通りも少なくなっていた。
その時、刺客のリーダー格である痩せぎすの男が、いきなり路地へ駆けこんで、阿部たちをおどろかせた。
「おい、どうした。敵か?」
あわてて後を追ってきた第三の男が聞くやいなや、痩せぎすの男は壁に手をついて、激しく嘔吐しはじめた。
「言わんこっちゃねえ」
阿部は呆れながら背中をさすってやったが、男はそれを払いのけ、手の甲で口元をぬぐった。
「…大丈夫だ。ちょうどいい、ここであいつらを襲おう」
「こんなゲロまみれんとこで待ち伏せなんて、俺たちがヤなんだよ!」
阿部はまき散らされた吐瀉物をみてうんざりしながら言った。
「城のそばで宿をとろうってのは、どうやら無理だな」
勝海舟と以蔵は間もなくその路地に差し掛かろうとしていた。
「先生、かあくるしいき、どっかで飲まんかえ」
以蔵がそう言って、辻で立ち止まったとき、路地からバラバラと刺客が姿を現した。
「天誅!」
先陣を切った痩せぎすの男が叫んで刀を抜いた。
周囲の通行人から悲鳴が上がる。
以蔵は、先ほどまでの退屈な顔がウソのように口元をほころばせたが、すぐに眉をひそめ、阿部たちを指で差しながら勘定しはじめた。
「ひい、ふう、み…三人かえ。見いや、先生。三人しかよこしてもらえんちゃあ、先生の名声もたいしたことないのう」
勝海舟は、刀を抜きながらムッとして言った。
「どさくさに紛れて、失礼な奴だな、おまえさんは」
「まあ、いつもは逃げる相手ばかり斬っちゅうき、こういうのも新鮮で悪うないねや」
「ほざけ!」
痩せぎすの男が迷わず勝に突進するのを、以蔵がさえぎる。
そこからは、まさに電光石火の早技だった。
以蔵は眼にも止まらぬ速さで抜刀したかと思うと、
一合もせず、
袈裟懸けに男を斬り下げた。
阿部が今まで聞いたこともない鈍い音がして、
男は押しつぶされたカエルのように地面へ叩きつけられた。
彼は、肩口から腰にかけて骨ごと断たれ、文字通り真っ二つにされていた。
もはや意識はないだろうが、ぴくぴくと痙攣している。
それは阿部に、幻覚で見た自分の姿を思い出させた。
あたりは一面血の海で、凄まじいありさまだ。
以蔵はがっかりした顔で、男の心臓に止めを刺し、刀の血を振るい落とした。
「えろう気合が入っちょった割には、なんちゃじゃないが」
もう一人の刺客は、その光景に恐れをなして逃げようとしたところを、背中に一太刀浴びせられた。
「ぐっ!」
声にならないうめきを漏らしたが、
浅手だったのか、そのまま走り去っていく。
なんとか勝海舟だけを逃がす方法はないかと悩んでいた阿部の気遣いはまったく無意味だった。
信じられないといった面持ちで、しばらく動かなくなった死体を眺めていたが、あらためて「人斬り以蔵」に視線をもどしたとき、阿部は初めてあることに気がついた。
その大きな口から突き出た前歯には見覚えがあった。
「岡田以蔵って…おまえ、あの時の!」
それは大阪で目撃した暗殺者だった。
以蔵の方も阿部の顔を思い出したらしい。
「おんしとは縁があるにかあらん。とうとう名前まで知られてもうたかえ」
気味の悪い笑顔でジリジリとつめ寄る以蔵に、言いようのない恐怖を覚えて、阿部は思わず後ずさった。
そのまま逃げ出したかったが、以蔵は距離を保ちながら、今にも飛びかかろうと体勢を整えている。
ここで背中を見せれば、まちがいなくやられるだろう。
以蔵と向き合ったまま、ゆっくりと路地のほうへ後退する。
ところが。
「もういい。追うな」
意外なことに勝海舟が以蔵を引きとめた。
「たまるか、先生。なんでもかんでも殺しゃあ事が済むち考えちゅう不心得者を放っちゃおかれんが」
勝は、その言い草に閉口して、こめかみを掻いた。
「やれやれ、どの口が言ってんだか。とにかく、あんた護衛なんだろ?たったいま命を狙われたおいらを置いていっちゃ、マズかろうが」
「なんちゃ、こっからがおもろいがにのう」
不満げな口ぶりからは、逃がした男もわざと一撃で仕留めなかったことが伺える。
その顔には、ゆっくりと獲物を弄ぼうという残忍な本性が垣間見えた。
しかし阿部は、そのスキを見逃さなかった。
以蔵が勝を振り返った瞬間、一目散に走りだしていた。
「あ!まちや!」
叫んだときには阿部の背中はすでに小さくなっている。
さすがの人斬り以蔵も勝には逆らえず、しぶしぶあきらめた。
「…まっこと、はしかい奴ぜ」
おかげで九死に一生を得た阿部は、賑やかな河原町通りまでもどると、ようやく一息ついた。
「冗談じゃねえぞ、噂の人斬り以蔵に眼ぇつけられちまった訳かよ」




