人斬り以蔵の気まぐれ 其之壱
文久三年三月四日、
江戸幕府十四代将軍徳川家茂がついに上洛を果たす。
同、七日、
家茂は参内して、孝明帝との歴史的な頂上会談にのぞんだ。
この謁見は、名目上、天皇が将軍家に「行政の全権」を委任していることを再確認するために行われた。
しかし、仮に建前がそうであったとしても、これまで歴代の将軍たちは、為政者であることに誰かの許しが必要だなどと考えたこともなかったはずである。
今になって国政の委任を問い直したことは、取りも直さず、幕府の威信が衰えたという事実を改めて天下に印象づけたに過ぎなかった。
それはさておき、
同じ日、幕府の軍艦奉行、勝海舟が将軍のあとを追うように京へ入った。
そしてなぜか、この要人の護衛に抜擢されたのが「人斬り」こと岡田以蔵だったのである。
この時、暗殺者として名を馳せた岡田以蔵が、どうして勝海舟を護る気になったのかはハッキリしない。
この不可解な変節のうらには、あの坂本龍馬の仲介があったとされるが、彼がどういう魔法を使ったにせよ、以蔵をこの護衛の任務におしたことは、英断だったと言わねばならない。
なにせ、これほど腕がたち、これほど暗殺に精通したボディガードなど、日本広しといえども、この以蔵をおいて他になかった。
これも坂本が「幕末の風雲児」と呼ばれるのにふさわしい独創性と実行力を示した一例だろう。
「しかし、あれだねえ。おいらの横を歩いてるのが、あの人斬り以蔵だと思うと、何だかへんな感じだねえ」
その夜、御所の東側に接した寺町通りを以蔵と連れ立って歩きながら、勝海舟は感慨をもらした。
「先生まで、わしが夜な夜な人を斬っちゅうち噂を真に受けゆうがか。ほんまは、この通り、気のええ若衆ながよ。まっこと、わしゃあ、心無い中傷に泣かされちょりますき」
以蔵は、さも心外なようすで訴えたが、勝は疑わしげに顔をしかめて見せただけだった。
「嘘じゃ思うたら、龍馬に確かめてつかあさい」
一方、彼らをつけ狙う尊攘派に合流した阿部慎蔵は、人ごみにまぎれて、その数間あとを歩いていた。
将軍の上洛で、大量の幕府軍が町に流入したせいか、通りはみょうに賑わっている。
仲間は、彼を入れて総勢三名。
「大物狙いにしちゃ、こっちの頭数が少なくねえか」
阿部はすでにこの計画の成功を疑いはじめていた。
「びびってんじゃねえよ」
痩せぎすの長州藩士が、ぴしゃりと言う。
昨晩から丸一日近く行動をともにしているが、阿部はこの男の名前すら知らなかった。
男が名乗らないのは、阿部が捕まったときの用心のためらしいと気づくと、彼はこのチーム内であまり信用をおかれていないことを悟った。
まあ無理もないだろう。
事実、阿部には迷いがあった。
腰抜けの開国論者を憎む気持ちはおなじだが、幕府の臣下を襲うことへのためらいを、まだ払拭できないでいる。
「どうにも、夢見が悪かったんでな」
大きく息を吐いて、気を取り直すように背筋を伸ばす。
痩せぎすの男は、前を歩く勝と以蔵から眼を離さず、阿部に肩をよせた。
「あんた、例のクスリ、まだ持ってるか」
阿部は昨日の体験を思い出して、口を曲げた。
「おいおい。これから大仕事だってのにやめとけ」
「この男の言うとおりだ」
もう一人の仲間も阿部に同調した。
「みろ」
男は袖をまくって、二人に震える手を示した。
「怖いからじゃないぞ。クスリが切れるとこうなる」
顔をしかめる阿部に言い返すいとまを与えず、男は金を押し付けてきた。
「あんたら長州人は金回りがいいな」
阿部は皮肉をこめて言った。
痩せぎすの男は勝手に阿部の帯から印籠を抜き取り、初めてニヤリと笑った。
「奴を殺ったらどうせガッポリ入るんだ。仕事が済んだら銘々身を隠して、六日後に壬生寺で落ち合うことになってる。 そこで、あの女から逃走資金を受け取る手はずだ」
「ちぇっ、あのアマ、結局どっぷり浸かってんじゃねえかよ」
痩せぎすの男は、ひょうたん徳利の酒で粉末を飲み下しながら、阿部を横目で見た。
「何か言ったか?」
「いや、こっちの話」
「やつら、このまま今出川通りまで抜ける気だ。先回りするぞ」
もう一人の男が、脇道を親指で指した。
阿部は二人について走りながら、思わずぼやく。
「ちくしょう、俺が人殺しの助っ人に駆り出されて、あの人斬りが旗本の警護をしてる。どこでどう間違ったんだ?」
「先生、いつまでアテものう歩き回るつもりですかいのう」
今まさに刺客から狙われていることなどつゆ知らず、以蔵はゲンナリした顔で、足を引きずるように歩いている。
勝のほうも、少々文句の多い護衛に辟易している様子だ。
「しょうがねえだろ。上様のお供の連中がどこもかしこも宿を押さえてやがるから、部屋の空いてるとこがねえんだよ。イヤならおまえさんだけでも先にヤサへ帰んな」
「ほうもいかんろう。けんど、本気で宿を探す気ぃがあるんなら、こがあ寺ばっかりの道を歩いとっても、どうなるもんで」




