三条河原の犬 其之弐
島田左近を斬ったのは、「人斬り」として岡田以蔵とならび称された田中新兵衛という男だった。
この日から逆のぼること七ヶ月前、いわゆる「天誅」の始まりである。
河原に晒されている目明し文吉は、その島田左近の右腕とも云うべき人物で、まさに彼こそが、攘夷派を捕らえていた張本人であり、
生きていた頃の彼は、京の人々から蛇蝎のごとく嫌われていた。
もっとも、死んだ彼が世間の許しを得られたのかは疑わしい。
河原では、もはや動かなくなった文吉にさえ、雨霰の罵声や石つぶてが浴びせられていた。
「あの腰巾着はなあ、『猿の文吉』ちゅうて、安政の大獄の頃は、水戸や長州の藩士や浪人者を片っ端から挙げとったもんや」
斎藤は、死体めがけて飛び交う小石を横目で見ながら、人差し指で顎をなでた。
「さもありなん、だな」
「そりゃまあ。罪人だけやのうて、その親族やら親しい知り合いにも情け容赦なかったさかいな。
奴に眼え付けられたが最後、適当な口実をでっち上げられてお縄や。あとは想像つくやろがい?
無実やろうが何やろが『やった』ちゅうまで拷問や。
相手が女やったら、白状しても、気の済むまでなぶりもんにしよる。
おまけに、島田左近の金を元手に高利貸しの副業までやっとったちゅうんやから。
取り立ても、やっぱりエゲツなかったみたいやで?」
「なるほど」
斎藤は肩をすくめて見せたが、周囲の熱気にほだされたのか佐伯又三郎の口汚い罵りは収まる気配がない。
「それに、若いころ御所の女官を犯したちゅう噂もあってな。とにかく、ま、やりたい放題やっとったワケや。ほんま、ちょっとはあやかりたいもんやで。っと、こりゃ口が滑った」
「もういい。だが、どれだけ憎かろうが、あれは鬼畜の所業だ」
斎藤はわずらわしげに手を払うと、河原の死体にもう一度目をやった。
佐伯もそれにならって橋の下を覗き込んだが、
「ま、今まで散々おこぼれに預かったんやし、しゃあないわな。そや。あの捨て札に、なんて書いてあった思う?『イヌ』やて!アハハ、洒落とるがな!」
と下卑た笑い声をたてた。
斎藤は不機嫌そうに小さく舌打ちして吐き捨てた。
「ふん。笑えんな」
そのとき、
「貴様、あれが何か気にいらんのか?」
足早にその場を立ち去ろうとした斎藤の行く手を、三人の浪士が遮った。
先ほどの舌打ちを聴きとがめたらしい。
佐伯がしゃしゃり出て、
「そんなん、滅相もない。な?あんな奴は、死んで当然や。せやろ?」
慌てて取り繕って斎藤に同意を求めたものの、先頭にいた男に肩をつかまれ、脇へ押しやられた。
「おまえには聞いてない!」
「それ以上近づくな」
菅笠のせいで、その表情は見えないが、斎藤の声にはハッとさせるような威圧感があった。
しかし、さきほど佐伯も言ったとおり、ここは幕末の京である。
浪士たちも、その程度で気圧される相手ではなかった。
「やはり、イヌの仲間か。ああやって晒しておけば、お前のような頭の悪い仲間が釣れる」
「…なるほど。あんたらが、流行りの尊攘派というやつか。悪いが、今日は斬った張ったをやる気分じゃない。そこを通してくれ」
「しらばっくれるな!あのイヌ野郎の死体を見たとき、おまえの顔にはハッキリ『気に入らん』と書いてあったぜ?」
その物騒なやりとりは、喧騒にかき消されて、周囲には気づかれていない。
斎藤一は、ふっとため息をついた。
「ああ、どうにも胸クソが悪いな。別にあんたらのやり方に口出しする義理はないが、死んだ相手を辱めるのは感心しない」
佐伯はもう一度、割って入った。
「まあまあ、ここでわしらが斬り合うても、お上がアメリカ相手に重い腰を上げるわけやなし。お互い一度頭を冷やして、な?」
仲裁を試みるも、血走った眼でにらみ返され、尻すぼみになってしまった。
「…どうも、そういう雰囲気やなさそうですな」
「そのようだ。場所を変えよう」
斎藤はそう言うと、相手の返事も待たず、先に立って歩き出した。
成り行き上、佐伯もあとを追うしかない。
浪士たちはものも言わず、それに続いた。
奇妙な一行は、高瀬川に架かる三条小橋を過ぎ、木屋町通りにある人気のない袋小路に入っていった。
斎藤と佐伯の背後で、カチリと刀の鯉口を切る音が聴こえた。
問答無用というわけだ。
佐伯はすばやく振り返って、横薙ぎの刀をヒョイとかわし、
「あかん。任せるわ!」
と斎藤の後ろに飛びのいた。
…望んだわけでないとはいえ、確かにこれは斎藤の買ったケンカである。
だが、その身のコナシからして、佐伯という男が、額面どおりの小悪党でないことは明らかだった。
にも関わらず、全てを押し付けようとする強かさに、斎藤はなかば呆れ、なかば感心した。
相手は三人。
「やれやれだ…」
浪士たちに向き直った斎藤は、
身体を沈めると同時に、一番近くにいた浪士の懐へもぐり込み、
刀を持つ手を捻りあげた。
一瞬のことに、相手は抵抗する暇もない。
低い呻き声を上げ、刀を取りこぼした。
斎藤はすばやくその柄をつかみ、
切っ先を右側にいた男の首筋に突きつけた。
三人目の男は機先をとられて、抜き身を構えたまま、身動ぎもできない。
「どうする。ここで俺と一緒に死ぬか?」
菅笠の下からのぞく斎藤の眼には、本物の殺気があった。
三人目の男は、ゴクリと唾を飲み、こめかみに青筋を浮かべながら、刀を鞘に納めた。
刀を突きつけられている男も、渋々それに倣う。
斎藤は、ゆっくりと刀を引いた。
「なぜ斬らん?」
「俺は、猿の文吉とやらになんの関わりもない。お互い、斬りあう理由などなかろう?」
表通りに戻った二人は、野次馬の群れを見下ろす川べりの道に立っていた。
佐伯又三郎は、さきほどの卑怯な振る舞いを棚に上げて、不機嫌もあらわに斎藤をなじった。
「なんで斬らへんかったんや!また狙われるで」
「こんな朝っぱらからか?俺はつい最近、ひと悶着起こしたばかりでな。そのせいで江戸に居られなくなった。悪いが、此処でまた刃傷沙汰をやらかして、面倒に巻き込まれるつもりはない」
「もうとっくに巻き込まれとるんじゃ!それも俺を含めてや!」
斎藤は応える代わりに、口元を歪めて苦笑した。
佐伯は怒るのもバカバカしくなって肩を落とした。
「まあええわ。それにしても、あんた強いやんけ。流儀は?」
「…色々だ。ここに来る前は天然理心流の道場でゴロゴロしていた」
「…天然なんとかて…聞いたことないなあ」
斎藤は少し顔をしかめたが、当時の天然理心流は、江戸ですらあまり有名とは言えなかったので、佐伯が知らないのも無理はなかった。
「俺は佐伯又三郎や、よろしゅうな?」
しかし斎藤は、何かに気をとられたように、人混みを見入っている。
「どないしてん?」
「いや…。俺は播磨国明石脱藩、斎藤一だ」
「明石。明石ねえ」
この男にはまるで関西訛りがない。
佐伯は、疑わしそうに呟きながら、斎藤の視線の先を追った。
そして、人々が飽きもせず物言わぬ死体に罵声を浴びせるなか、
ひとり、彫像のようにたたずむ美しい女の姿を見た。
「ふふん、なるほどな。花の都へようこそ、斎藤はん」