あぐりの桃 其之漆
「ええ。今月の十四日」
土方は桃を咥えたまま、目を剥いた。
「おいまてよ?!つまり、時間とおおよその場所まで割れてるってことか?じゃあ、俺たちの持ってる情報を守護職に渡せば、手分けして東山の寺院を虱潰しに当たって、踏み込むことだって出来るはずだ!」
浪士組もその戦列に加わらん、と勢いづく土方に、今度は琴が冷水を浴びせた。
「そんなことしたって無駄。どちらにせよ会津は、ひとまず静観するって決めてる」
出鼻をくじかれた土方は、いきり立った。
「なんで?!これは奴らを一網打尽にする千載一遇の機会なんだぞ?!」
「わたしに怒らないでよ。要するに、今は時期が悪すぎるってことでしょ。公方様は江戸へ帰っちゃったし。おまけに朝廷は、黒船に大砲を撃ち込んだ長州の一件にいたくご満悦で、わざわざ監察使まで遣って、その功績を労うそうよ?そもそも、この情報が容保公の耳まで届いているものやら…」
「腰抜けの忠犬どもが、朝廷の顔色ばかり窺いやがって!攘夷派が暴発するようなことにでもなれば、不味い立場に追い込まれるのは会津藩なんだぜ?」
琴は小さなため息をついた。
「かもね。そういえば、新見さんも、件の監察使に同行して長州入りするとか」
その名前を引き金に、土方は冷静さを取り戻した。
「チッ。野郎、いったいどんな手を使って特使なんぞに紛れ込みやがった?」
「会津の中間頭が言うには、芹沢さんたち、水戸の吉成何某を通じて度々公家に接触してるそうよ」
「なるほど。ってなりゃ、いよいよ、奴らとの対決は避けられそうにねえな。芹沢を叩くなら新見のいない今が好機ってことか」
土方の頭の回路は、組織内の権力闘争へ切り替わったらしい。
「朝廷だって、攘夷一色に染まってるわけじゃない。それを以て裏切りと決めつけるのは気が早くない?」
新見にも彼なりの大義があることを知った琴は、それとなく苦言を呈してみたが、土方は聞く耳を持たなかった。
「裏切りがあったかなかったかは、重要じゃない。奴らが陰で不穏な動きを見せてるって事実がありゃ、首を獲る口実には十分さ。ならば、余計に後顧の憂いは断っておきたいとこだ」
「隊内の間者のこと言ってるなら、少々手こずりそうね。なにしろ浪士組が雇い入れる浪人ときたら、身元の確かな者を探す方が難しいくらいだから」
土方は煩わし気に手を払った。
「ツベコベ言わず、もう一度洗いなおせ。間者が隊士とは限らん」
琴は親指の爪を噛みながら、母屋の縁側で涼む梅を遠目に、付け加えた。
「…それに、男とも限らない。でしょ?この屋敷は、人の出入りが多すぎる」
土方は梅にチラと目をやって、不機嫌に応じた。
「あの借金取りは、よほど同性から受けが悪いと見える。…お前はあの女をどう思ってる」「芹沢とヤッてる」
悪ふざけを咎めるように土方から睨まれて、琴は軽く肩をすくめた。
「ごめんなさい」
「確かに気は許せんが、俺の見立てじゃ間者とは違う」
「もう一人の女はどうなんだ」
ここまで一言も発せず愛刀の目釘を改めていた斎藤一が、目線も上げないまま口を開いた。
琴は、険しい目で斎藤を振り返った。
「お祐ちゃんのこと言ってる?」
間者が女の可能性もあるというなら、祐も容疑者の一人という訳だ。
確かに、祐が現れたのは、長州が間者を送り込んだとされる時期に符合している。
無心で桃を平らげた原田も、親指を舐めつつ、話に加わる。
「そーゆーのを下種の勘ぐりつーんだよ。土方さんだって、お祐ちゃんまで疑っちゃいねえさ」
琴は問いかけるように土方へ視線を流した。
「どうなの?」
しかし、それに応えたのも原田だった。
「だってよ、お祐ちゃんの身請けは、土方さん自ら八木家に働きかけたってのが、隊内ではもっぱらの噂だぜ?」
琴の知る事実とは多少異なるが、土方が祐の先行きを案じていたのは本当だ。
「ふうん。いいとこあるわね」
冷やかしてみると、土方は冷徹に言い放った。
「抜かせ。恩情半分ってとこさ」
「照れ隠し?」
「あいつはお前より得体の知れんとこがあるからな。しばらくは、目の届くに場所に置いておく。用心に越したことはあるまい」
斎藤が、手入れの終わった刀をゴトリと床に置いた。
「…だが、本当に黒だったら?」
土方は応える代わりに、琴の顔をじっと見つめた。
琴は長い睫毛を瞬かせた。
「なんで私の顔を見るの?私はこの件に関わる気なんてないし、口を出すつもりもない」
「…いや。その場合は、座敷牢にでもブチ込んで、口を割らせるしかあるまい」
前川邸にある蔵の方を振り返った土方の眼は、冗談を言っているように見えなかった。
「悪いが」
一座が静まり返るなか、原田が憮然として立ち上がった。
「今のは聞かなかったことにさせてもらうぜ。ちょっくら、永倉でも慰めに行ってくらあ」
土方は遠くを見つめたまま、平板な口調でその意見を退けた。
「…バカ言え。これだって隊務だ」
「芹沢たちの始末はともかくとして、だ。理由はどうあれ、女を痛ぶる趣味はねえ」
吐き捨てるように言うと、原田は行ってしまった。
琴は、中に入ってみて、この組織の抱える問題が、思った以上に根深いことを感じていた。
相反する思惑や信条が、混沌と渦巻いている。
やがて、取り返しのつかない悲劇が起きるのではないか。
漠然とした不安は、確信に変わりつつあった。
それでも後になって考えれば、この頃が彼女にとって一番幸せな時期だったかもしれない。




