あぐりの桃 其之参
「…千里眼、て、そう言ったの?」
いきなり突拍子もない言葉が飛び出したので、沖田は自分の聞き違えかと耳を疑った。
「ええ。あの時の眼。なんや、急に暗い翳が差したように見えて、わたし、ちょっと怖くなったんです」
「病み上がりだし、お祐ちゃんもまだ混乱してるんじゃないかな。気にしすぎない方がいいよ」
とはいえ、彼女が記憶を取り戻さない限り、楠との諍いの真相も闇の中だ。
口にこそ出さなかったが、沖田も祐のことがずっと頭の片隅に引っかかっている。
「そうそう。そうでっせ?」
調子のいい相槌が聴こえて、ふたりはハッと顔を上げた。
なにやら狡猾な感じの笑みを浮かべた猫背の男が、いつのまにか傍らに立っている。
「若いんやさかい、養生しとれば、じき良うなりますわ!」
無責任に請け負ったのは、副長助勤の佐伯又三郎だった。
「え、ええ。きっとそうですね」
妙な勢いに圧されてあぐりが頷くと、佐伯はさらに身を乗り出して、背負い籠を覗き込んだ。
「あ!美味そうな桃やないですか。ハハア、もうそないな季節なんやなあ」
「あの、よければ、おひとつどうぞ」
「いえいえ、私なんか。それより、ちょっとよろしいでっか?実は、うちの芹沢先生が、嬢はんにお会いしたい言うたはりまして」
少女に警戒する暇も与えず、佐伯はさっそくちょっかいを出してきた。
琴の尾行では、これといった成果のない彼としては、ここいらで芹沢のご機嫌を取って、点数を稼いでおきたい。
「芹沢先生が…わたしに?ですか?」
芹沢と言えば、見世物小屋での傍若無人ぶりを叔父から聴かされていたあぐりは、怯えた目をして問い返した。
佐伯は、安心させるように猫なで声を出した。
「そんなそんな、身構えんといてください。いえね?先生、こないだ蛸薬師で、たまたまあぐりさんのお姿をお見かけしたらしゅうて、その可憐さに、えらい胸を打たれたご様子なんですわ」
黙って聞いていた沖田が顔をしかめて、舌を出した。
「オエ…マジで?なんか気持ち悪いんだけど?」
「なんでやねん。純粋な恋心ゆうやっちゃ」
そのとき、
「それ、ホンマどすか、佐伯はん?いややわ、あの局長はん、うちにも甘い言葉で言い寄ってきはったんえ?そんなん、まるで盛りのついた猫やおへんか」
剣のある声で、背中から水を差したのは、芹沢の愛人、菱屋の梅だった。
不味いところを見られた佐伯は、居心地悪そうに小さく舌打ちした。
「イヤイヤ、その~…ま、今のは、ちょっとした悪ふざけでんがな」
「ほんなら、いちびってんとお勤めに戻らはったらどないえ?」
「おお、そうそう。そうでした!ほ、ほんなら、わしは近所でも見廻って来まっさかい」
佐伯は頭を掻きながら、這う這うの体で八木家の門を出て行った
取り残されたあぐりは、(おそらく)助け舟を出してくれた梅に、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
「別にあんたを助けた訳やない」
梅はピシャリと言って、あぐりの顔を無遠慮に眺めた。
「あんたそれ、どないしたん?ひょっとして薄化粧したはるん?」
「べ、別に、これはなんでもないです!」
あぐりは慌てて顔を伏せた。
やはり、女の眼は誤魔化せない。
「おやまあ、すっかり色気付いてしもて。誰がお目当てや知らんけど、この人らが、街でなんて呼ばれてるか、あんた知ったはるなあ?」
梅はそう言って、冷ややかな目で沖田を流し見た。
あぐりはムッとして、それから、決意を示すように顎を引いた。
「ええ。口さがない人らは壬生浪とか言いはるみたいですけど、うちは…」
「そや。オオカミて言う者かておる」
「けど皆さん、そない悪いひとや…」
しかし梅は、あぐりに言い訳の隙を与えなかった。
「やめとき。あんたみたいなおぼこい娘が関わったかて、ロクなことになれへん」
それでもあぐりは頬を染めて食い下がった。
「けど、少なくとも佐々木様は、とてもいい方です」
そのきっぱりとした物言いに一番驚いたのは沖田だった。
思わずポカンと口を開けていると、梅はそんな二人を睥睨して鼻を鳴らした。
「ふん。なるほど、あの二枚目にお熱かいな。ハ、アホクサ。こないな掃き溜めに流れ着く男なんて、みんな大差あれへん」
「なんも知らんくせに…なんも知らんくせに、好きなこと言わんといてください」
梅は落胆したように肩を落とした。
「…おやまあ、可愛らしいこと。うちもあんたくらいの年頃は、そないにスレてへんかったやろか。昔のことで、もう思い出されへんわ」
挑みかかるあぐりの視線から、梅は目を逸らさなかった。
「恋は思案の外言うけど、まだちょっとでも分別が残ってるんなら、取り返しのつかんことなる前に、さっさと身を引きよし」
聡い梅は、近いうちに内部抗争が激化するであろうことを気取っている。
しかし、彼女という人間は、精一杯の親切心も、こうした形でしか伝えることが出来なかった。
梅はそこで、急に眼を見開いて沖田に向き直った。
「そや、沖田はん。肝心の用事を忘れてましたわ」
「はい?」
急に話を振られた沖田は間の抜けた返事をした。
「芹沢筆頭局長が、土方先生を呼んだはります」
「近藤さん、じゃなくて土方さん、ですか?あ、ええ、はい、伝えときます」
「ほな、よろしゅう」
プイと立ち去る梅の背中に、あぐりは追いすがった。
「あの、これ…」
口ごもりながら、あぐりは桃を差し出した。
「…うちにも?」
あぐりは儚げな笑みで、コクリと頷いた。
「ええ、よかったら。うちのは甘いですよ」
梅は、めずらしく戸惑いがちに、それを受け取った。
「…おおきに」
そっけなく礼を言って身を翻す梅に、あぐりは最後の抵抗を試みた。
「そういう貴女はどうなんですか」
質問の意図は明白だ。
愛次郎とあぐりの関係に不幸な結末しか待っていないのであれば、それはそのまま芹沢と梅にも置き換えられる。
梅は振り返ることはなく、ただうつむいた。
蝉の声が、空から降ってくるようだった。
「さっき…取り返しのつかんことになる前に、て言うたはずえ?来るとこまで来てしもたら、後は、そやねえ、せいぜい足を踏み外さへんよう、手探りで進むしかあれへん」
その言葉に込められた悲壮な覚悟のようなものが、あぐりをたじろがせたが、彼女はなんとか踏みとどまった。
「…でも、それでも好きなんです」
梅は背を向けたまま、ただ軽く肩をすくめて母屋へ戻って行った。




