あぐりの桃 其之壱
二条新地大文字町。
この界隈は、島原遊郭の「出稼地」として、幕府から営業を黙認されている、いわゆる場末の花街で、小さな遊女屋が軒を連ねている。
同じ街に一家を構える侠客会津小鉄は、その一画にある森田屋というみすぼらしい茶屋の一室で、半身を横たえ芸妓の酌を受けていた。
久しぶりの骨休めである。
「ほんま、昼日中から飲む酒は格別やの」
ところが、この静かな休日も長くは続かなかった。
「失礼」
例の中沢琴が、案内も乞わず、挨拶もそこそこに座敷へ押し入ってきたのだ。
腹の座った小鉄が、もちろん動じることはない。
「…おや、めずらしいお客さんやな」
「いいお店ね。あなたがやってるの?」
値踏みするように軽く部屋を見渡して、琴はお愛想とも皮肉ともつかない感想を述べた。
「ふん、今はまだ違うがの。この店のタニマチは、例の猿の文吉や。ご当人はもう地獄に堕ちてしもたさけ、名義上の楼主から安う買い叩けんもんか、目下算段中ってとこでな」
小鉄は、またサラリと受け流し、盃を勧めた。
琴は微笑みながらそれを受け取り、黙って膳の上に伏せた。
どうやら友好的な接触は諦めた方がいいらしい。
「で、何のご用かい?」
小鉄は苦笑いとともに本題に入った。
「あなたにちょっとした提案があってきたの。これからはお互いの友好関係を保つため、情報を共有しましょ」
琴は単刀直入に切り出した。
「わしがあんたに手を貸して、なんぞ旨味でもあるんかい?」
琴はニヤリと笑って小鉄の襟首を引き寄せた。
「あんたが私の周りを嗅ぎまわってるのは知ってる。誰からの指示かなんて野暮は訊かないけど、私がいなくなると色々都合が悪いんじゃない?魚心あれば水心、でしょ?」
小鉄は、清河八郎と琴の繋がりをまだ疑っている。
今や紐の切れた凧のような状態の清河一派は、常に暴発する危険を孕んでおり、彼らの動向を琴が把握しているのであれば、彼女は安全装置の要だった。
「やれやれ、前置きもすっ飛ばして強談判でっか。八重勇、ちょっと席を外してくれるか?」
芸妓は小鉄の顔色を窺い、戸惑ったように胸元へ手を当てた。
「そやけど…」
「心配あれへん、知り合いや」
出ていく芸妓を目で追いながら、琴は鼻で笑った
「知り合い、ね。ま、間違っちゃいないけど」
「男装趣味が高じて、とうとう芸者遊びまで手を出すつもりかい?」
琴は、乱暴に小鉄を突き放した。
「分かってると思うけど、好き好んでこんな格好をしてるわけじゃないの。ただ、例えば、こういう店で相応しい扱いを受けるためには、それなりの礼装が必要、でしょ?」
さて、森田屋の前では、琴の監視を仰せつかった佐伯又三郎が、菜種油を商う棒手振(行商)に身をやつして、行ったり来たりを繰り返していた。
「ちっ、昼間っから女郎屋通いとは、いいご身分だな」
森田屋の入口を見つめながら、思わず愚痴がこぼれる。
というのも、楠小十郎(琴)は、毎夜ひとりでブラブラと歓楽街に向かい、佐伯は決まってそこで彼の姿を見失うのだった。
琴の方は尾行など疾うに勘づいており、詰まるところ佐伯は体よくあしらわれていた訳だが、失態続きには彼なりの言い分もあった。
変装道具として平山から渡された天秤棒には、ご丁寧にたっぷり油の入った樽がブラ下がっていて、だいたい、こんなものを担ぎながら人混みの中を進むだけでも骨が折れるというのに、道々茶屋(この場合は遊女屋)の女たちが油を求めて声をかけてくるのだから、追跡行どころではなかった。
つまりこれは、平山五郎のミスだ。
楠は、朝になれば必ず屯所に顔を出すし、
こんな場末の遊女屋で毎晩攘夷派の志士と密談もあるまいから、
あの中で楠が何をしているかなど、知れたことではないか。
しかも、今日にいたっては陽も高いうちからの登楼である。
そういえば、あの男を始めて見かけたのも島原遊郭だった!
「…なんかバカバカしくなってきたな」
芹沢にも、そう報告しておけばいい。
口うるさい新見はもういないのだから。
あの芹沢が、少々の素行不良にいちいち目くじらを立てることもないだろう。
「やめだやめだ!」
佐伯は担いでいた樽を細い路地に放り出すと、この数日、油を売って稼いだ小金でみたらし団子を買い、屯所へ引き返していった。




