不倶戴天の敵 其之肆
一方、前川邸。
近藤勇の部屋にはモクモクと白煙が立ち込めていた。
「なにこれ!?」
沖田は目をすがめ、まとわりつく煙を手で払うと、ズカズカと部屋に踏み入って、素焼きの豚の置物を跨いで縁側の簀戸を開け放った。
「こら。蚊が入るだろ!」
豚の置物は「蚊遣り豚」といって、現代も使われている、蚊取り線香の容器、豚の形をしたアレと同じものである。
京もそろそろ蚊に悩まされる季節で、当時は松の葉を火にくべた煙で蚊を追い払った。
近藤が咎めると、沖田はふくれっ面で入口を指した。
「だって、こんなんじゃお客さんも入れないだろ?」
自室を訪ねてきためずらしい隊士に、近藤勇は少しだけ驚いた。
「おう、野口君。どうした?」
「え?局長のとこへ行くように言われたんですが?」
沖田の手招きに応じかけた野口健司は、敷居のところで思わずたたらを踏んだ。
「俺が?いや、知らんな。芹沢さんじゃないのか?」
「いやでも…この子を連れて来いと…」
野口が軽く手を引くと、襖の陰から、祐がよろめきつつ姿を現した。
「…どうも。失礼します」
「あ、お祐ちゃん。どうだい具合は?」
近藤は気さくな調子で気遣いをみせたが、祐に以前のような打ち解けた気安さはなく、
「はあ、おかげさまで。もう痛みはありません」
と、しおらしく頭を下げた。
軽傷とはいえ、刀で斬りつけられて何ともないはずはなかったが、強がっているのか、妙に余所々々しい。
「…そっか、それは良かった。けど無理は禁物だから、当分はゆっくり養生するといい」
「ありがとうございます」
近藤は、少し寂しげに頷くと、再び野口に向き直った。
「で?」
「いや、で?って?」
戸惑った様子で目を見合わせる二人に、部屋の隅で背中を丸めて足の爪を切っていた土方歳三が、半身をひねって振り返った。
「俺が呼んだんだ」
土方はまるで自分の部屋のように、座布団を勧めると、
「どうだ?なにか思い出したか」
と、祐に声をかけた。
「いえ…」
近藤は眉をひそめて、土方をたしなめた。
「歳、そう急かすな」
「いや、すまん。ちょっとした挨拶代わりで、そんなつもりはなかったんだが…」
「いえ、お気遣いなく」
祐が楚々とした様子で腰を下ろすと、土方も仕切り直すように胡坐を組んだ。
「まあいい。実はな、ここに住み込みで働くにあたって、守って欲しいことがある。それを伝えておきたかった」
「はあ」
「なに、難しいことじゃない。我々の間の取り決めはひとつだけだ。必要以上に俺たちの仕事には立ち入るなってこった」
裕は、警戒心に眉を寄せた。
「どういう意味です?」
土方は顔の横に人差し指を立てた。
「例えば。ここに幹部といい仲になった女がいたとしよう。その勘違い女は、やがて、自分が隊士たちより偉くなったような気分になって、さらには実際そう振る舞うようになる。だがそれは、危うい錯覚だ」
「それって、あの梅とかいう女の話?」
「いや、そうじゃない。これは隊規には書かなかった決めごとの話だ。あんたを縛る権利は、俺たちにもないからな」
「おおきに。けど、あんなんと一緒にせんといてください」
記憶をなくしても、やはり勝気なところは変わらないようだ。
「あの女が嫌いか?」
「男の前でクネクネ身をよじる尻軽なんか、好きな女はいません」
土方はまるで心理カウンセラーのような物腰で身を乗り出した。
「おもしろい。それはなぜだ?弱い自分を見ているようで嫌になるから?」
露骨な挑発を見かねて、沖田と野口が同時に声を上げた。
「ちょっと待っ…」 「ちょっとちょっと…」
が、祐は軽く手を上げて二人の援護を制した。
「うちが、そうやて言いたいんですか」
土方は目を伏せ、うすく微笑んだ。
「どうかな。ひとつ言えることは、あの女は見た目ほどバカでも好色でもないってこった」
「ほんなら、うちも精々あの淫売を見習うて、賢う立ち回るようにします」
「このご時勢だ。身寄りのない女がどんな手管を使って世間を渡ろうが、誰も責めることはできん」
祐は、もはや敵意を隠そうともしなかった。
「そうですか。ほんなら…」
反撃に転じようとするも、土方はその先を言わせなかった。
「ただしその女が、俺たちの領分に踏み込んできた場合、話は別だ。そうそう、例の狂言も忘れちまったのか?玉藻御前が帝をたらし込んで、国を傾けたって話さ。そんなことになる前に、ここから出ていってもらう。その行いが目に余るようなら、隊士ごと斬り捨てることも厭わん」
その脅し文句は、おそらくこの場にいる全員に対する牽制を含んでいた。
野口が、生唾を飲み込む音がした。
沖田総司は、話を混ぜ返そうと、場違いに明るい声で尋ねた。
「それって、土方さんの恋人も例外じゃない?」
「もちろん、そのつもりだ」
土方は、眉一つ動かさず答える。
それでも祐は、肩をすくめて軽く受け流した。
「考えすぎや。うちには、そんな気なんてサラサラないもん」
土方の口元に、また微かな笑みが浮かんだ。
「なら我々の間に問題は何もない。どんなに仲良くなったとしても、お前は隊士じゃないし、俺たちは男芸者じゃない。それを忘れるな。都合よく、護ってもらえるなんて期待しないことだ」
これには近藤も、とうとう黙っていられなくなった。
「歳、ちょっと脅かしすぎだぞ」
祐は、土方をキッと見返して、問い質した。
「何が言いたいんですか。はっきり言うたら?」
土方はしばらく祐の顔をじっと見つめたのち、身を乗り出して、その耳元に唇を寄せた。
「…つまり、うちの若い隊士にちょっかいを出すな、ということだ」
蝉の声が、煙幕のように、その警告を他の者から覆い隠してしまった。
ところが。
祐はその取引条件にも、これといった感情の揺れを見せなかった。
「ええ、心得てます。このお屋敷には、噛み癖のある野良犬がよう出入りしとるから、迂闊に手ぇ出すのは剣呑やもんね?」
含みのあるささやきに、土方の表情が凍りついた。
「…いまのは、どういう意味だ?」
「そっちの領分は犯さんていうのが条件なんでしょ?ほんなら、野犬狩りは、土方さんの仕事や。そうと違う?」
※冒頭、近藤の「こら」というセリフがありますが、これって元々は鹿児島弁で「ねえ」とか「ちょっと」というほどの意味だそうです。
明治維新後に政府が警察組織を立ち上げるってなったとき、その成り立ちの経緯(詳しくは省きますが)から、東京の邏卒(いわゆるお巡りさん)は薩摩人が多数を占めていました。
で、彼らは、警ら中、民間人に「こら」と声を掛けたわけです。
それがどうやら人々には威圧的に感じたらしく、誤った用法で定着してしまったとか。
なので、近藤勇が「こら」という言葉を使うのは本来おかしいんですが、でも、じゃあこの時代に、いま我々が使ってる「こら」に相当する言葉ってなかったんでしょうかね?




