不倶戴天の敵 其之壱
長州の間者、楠小十郎の遺体は、壬生村から千本通りを北へ四半刻ほど行ったところにある寺へ秘密裏に埋葬されていた。
そこは、引き取り手のない遊女の遺体を供養していたことから、口さがない京童や、それ“以外”の人々からも「投げ込み寺」などと呼ばれている寺院で、正体を明かせない、いわば無縁仏を預けるのに都合が良かったためである。
文久三年六月中旬。
現代で言えば、7月の下旬に当たる頃。
京は、夏の日差しに、辺り一面が濃い緑に塗り替えられている。
この辺りは都の中心部からも少し外れて、周囲には水田が目立つ。
稲づくりは、溝切と言う重労働を終え、ようやくひと段落といった季節だった。
浪士組副長、土方歳三は、墓地の片隅にある合祀墓に線香をあげ、手を合わせていた。
「他の人にも、少しはそういう姿を見せれば?」
背後から女の声がして振り返ると、
そこには竜胆の花を手にした中沢琴が立っていた。
「…住職に金を渡しに来たついでの、ほんの気まぐれだよ」
土方は墓の方に向き直って応えた。
セミの声が、二人の会話を掻き消すほど喧しい。
「八木の御料さん(雅)、あなたのこと、優しいひとだって言ってたわ」
土方は、立ち上がって琴に場所を譲ると、
「ケッ、これから俺がやろうとしている事を知ったら、もう誰もそんなことは言わんさ」
と嘯いた。
浪士姿の琴は、竜胆を花立てに差して、件の無縁仏の前にしゃがんだ。
「…長州は、なんだって浪士組に、この間者を送り込んできたんだと思う?」
土方は、そんな琴の背中に尋ねた。
「どうしたの?貴方が私に意見を聞くなんて珍しい」
「ちぇ、気まずい沈黙を埋めるための話題ってやつだよ」
土方は照れたように鼻の頭を掻いて、先を続けた。
「…別に卑下するつもりはないが、実際んとこ、俺たちはまだ一介の雇われ浪人に過ぎん。組織の性質上、外部の人間が素性を偽って入るには容易いって側面は、確かにあるにせよ、ご公儀からも会津からも軽輩と見縊られている現状では、俺たちを探っても大した情報なんて得られないことは、桂も分かってるはずだ」
土方歳三は、自分たちの置かれている立場を、冷徹にすぎるほど客観的に捉えていた。
しかし。
「それは違う。ある意味で桂小五郎という男は、この京で誰よりも正当に貴方たちを評価している。やる気のない幕府側よりずっとね」
琴は線香の火を手で消しながら応えた。
「辛辣だな」
お株を奪われた土方が嗤った。
「…間もなく久留米の真木和泉が京に入る。例の寺田屋事件の首謀者の一人よ。桂は、その機を狙って、在京の主だった攘夷派を一堂に集め、宮中を巻き込んだ攘夷実行の具体案を協議する気なの。そこにはおそらく、あの吉村寅太郎もいる」
口には出さなかったものの、この計画が成れば、清河八郎の朋友、安積五郎も加担するだろう。
しかし、あの慎重な桂小五郎の思惑が、吉村寅太郎の掲げる攘夷親征、すなわち帝を旗頭とした挙兵などという途方もない計画と折り合うのだろうか。
土方の眼が鋭く光った。
「ヤツら、相変わらず夢みたいなことをホザいてやがんな。だが、清河八郎の懐刀だったあんたが、なぜそれを俺にバラすんだ?」
「…どうしても私のこと攘夷派にしたいようだけど、私は、ただ何も起きないことを願ってる。けど、きっと…そうはいかないわね。これからは、血で血を洗う戦いになる。桂小五郎、彼は、自らの理想を実現するために、最も障害となるのは貴方たち浪士組だって、ちゃんと分かってるのよ」
琴は瞼を閉じて、墓前に手を合わせた。
「ふん、そりゃ光栄だね」
土方の言葉には秘めた闘志が込められている。
「もう少し分かりやすく言ってあげましょうか?呑気に仲間内で争ってる場合じゃないって話をしてるんだけど」
水を差すような忠告を、土方は鼻であしらった。
「内部抗争は、早々にカタをつける。この俺がな。言ったろ?それを見れば、もう誰も俺のことを優しいなんて言わなくなると」
琴は立ち上がり、真正面から土方に向き合った。
「…私は、墓の下に眠っている男の名を騙りながら、何食わぬ顔で手を合わせている。貴方は、そんな女より罪深いっていうの?」
「さて、どうかね。自分の眼で確かめたらどうだ?ついて来なよ」
「どこへ?」
「帰るのさ。筆頭局長に話がある。あんたも、復帰の挨拶がまだだろ?」
その頃、壬生浪士組屯所、八木家では。
「芹沢さん、ちょっと出かけてきますね!」
副長助勤野口健司が、縁側で片膝を立てて酒を飲む芹沢鴨に、庭から声をかけた。
「わかった、わかった」
芹沢はしらけた目つきで、野口を追い払うようにヒラヒラと手を振った。
通い女中の祐に淡い恋心を抱いている野口は、ここのところ毎日のように浜崎診療所へ見舞いに出向いている。
その祐が、ある程度回復したことを受けて、一旦八木家の方で引き取ることになったのである。
そしてこの日、沖田総司と野口が、彼女を迎えに行くことになっていた。
嬉々として出かけていく野口の後姿を見ながら、芹沢はため息をついた。
「…お盛んなこって」
傍らに寄り添う梅が、不興げに酒を煽って、ジロリと芹沢を流し見た。
「あの娘、また戻って来るんやて?」
反りの合わない祐が、この家に帰ってくるのが不満らしい。
「なんでも身寄りがないんで、しばらくここで預かるそうだぜ?」
梅は眼を丸くして驚いて見せた。
「おや、厚かましいこと。なんや、いけ好かん子やわ」
「ちぇっ、お前が言うなってんだ」
さすがの芹沢も飽きれていると、
そこへ、腰巾着の佐伯又三郎がやってきて、
「芹沢局長、ちょっと…」
と、神妙な面持ちで声を掛けた。




