好奇心は猫を殺す 其之弐
琴が一旦厨に戻って釜戸の火に薪をくべていると、ちょうどそこへ雅が戻ってきた。
「楠はん(琴のこと)、ほんまおおきにな。おまけに洗濯までやってくれはったみたいやし」
「いえ…まだ途中ですが」
「ほな、お台所の方は、あと引き受けますさかい、洗濯物お願いしてよろしおすか?」
「そんな。我々の着物ですから」
「ほんでなあ…お祐ちゃんのことどすけど…」
雅が言いかけた時にはもう、琴は勝手口から姿を消していた。
「あれ、忙しないこと」
「こら、そんなに強く擦ったら破れる!」
琴は庭に戻るなり阿部を叱りつけた。
「しょうがねえだろ、この血の跡がとれねえんだから」
「いい?こうやって、折り返した布同士をこすり合わせるの!」
琴がやって見せると、阿部はぎこちない動きでそれを真似た。
「こ…こう?」
「貸して!もう!使えないんだから」
しびれを切らした琴は、袴を引っ手繰った。
「…あのなあ、俺は洗濯するために、ここへ来た訳じゃ…」
阿部の反論を、琴が人差し指を立てて遮った。
「しっ!」
「何だよ?」
琴は、耳を澄ませてみろというジェスチャーと、沈黙を以ってそれに応えた。
阿部が聞き耳を立ててみると、二人のいる庭から、厠を回り込んだ建物の裏手で、人の言い争う声がする。
阿部は声を顰め、そちらを指した。
「おい、風呂の焚口の方だぜ。こんな物陰で密談とは、ひょっとして間者じゃねえか?」
琴が無言で頷く。
もっとも、声に気づいたのは二人だけではない。
クロが、猫特有の好奇心に従って、声のした方に歩いていった。
二人はその後に続き、屋敷の壁に張り付くようにして角を曲がって、風呂釜用の薪棚の陰に隠れた。
壁の向こうの様子を伺うと、聞き覚えのある、か細く甘い声がする。
「父さん、もう嫌なんだ…あんなことやりたくない」
それは、壬生村のプレイボーイ、馬詰柳太郎だった。
「お前の気持ちも分かるが、隊内での我々の立場は、どんどん悪くなっている。今後を考えれば、幹部である武田先生との誼を通じておくことが、どういう意味を持つか、お前にもわかるはずだ」
「それは…」
「お前から直接誘いを掛ければ、あの男はきっと色情に押し流される。お前は美しいんだからね」
懇々と柳太郎の説得を試みているのは、おそらくその父、馬詰信十郎の声である。
柳太郎は通りかかったクロを見て、父から眼を逸らした。
「けど、私は、これ以上好きでもない男に身体を弄られるのは我慢できません。お願いです。もう許してください」
「わ、我儘を言うな!そもそも、お前が、田中新兵衛の件でしくじったり、村の娘に手を出すなどという愚行を犯さなければ、私もこんなことを頼まなくて済んだのだ。これ以上、私を困らせないでくれ」
会話が途切れ、しばらく啜り泣くような声だけが聞こえた。
「もう泣くな、柳太郎。武田様に気に入られて、お前にも何某か役がつけば、給金も上がる。浪士組が手柄を立てれば報奨金だって貰えるかも知れん。そうすれば、こんな方法で金を稼ぐ必要もなくなる」
「…分かったよ、父さん。でも、本当にこれが最後ですから」
話がついたのか、馬詰親子が動き出す気配がしたので、琴と阿部は慌ててその場を離れた。
庭に戻った二人は、盗み聞きした会話の意味を反芻した。
いや、意味など考えるまでもないが、それでも理解が追いつかなかった。
「…今のアレ、どういうことだ?」
「聴いた通りでしょ。あの子…父親に身体を売らされてる」
琴が禁忌を口にするようにつぶやいた。
「よせよ。まさか、いくらなんでも…」
そう言ったものの、どう考えても他に解釈のしようがなかった。
「息子本人に確かめましょ」
琴は思い立つと、洗濯籠によじ登って中に入ろうともがいていたクロの首を掴んで、立ち上がった。
「バカ、よせよ。あんなのに関わっていい事なんか一つもないぜ?」
阿部が止めた時には、もうずっと先に行ってしまっている。
琴は、黒谷本陣へお使いに出かけようとする柳太郎を、門の前で捕まえた。
「ちょっと来て」
母屋の脇に引き戻すと、先ほどの口論の真意を問い詰めた。
「誰にも言わないでください。これは私たち親子の問題なんです」
柳太郎は、あっさり“それ”を認め、二人に哀願した。
琴は、クロを足元に降ろすと、柳太郎が背にした鎧壁に手をついて、顔を近づけた。
「泣きごとは聞きたくない。もうそんな理屈は通らないぞ。武田さんにちょっかいを出した時点で、これは貴方方だけの問題とは言えなくなった。それに…隊内でこういうことするのも、初めてじゃないんだろう?」
ある意味で人のいい阿部は、涙を浮かべる柳太郎に同情を禁じえず、忠告した。
「こう言っちゃなんだけどな。おまえ、あの因業親父とは、もう縁を切った方がいいんじゃねえか?だってよ、あの手の男が言う『これが最後』に、終わりなんかねえぞ?例えば、そう、毎日の洗濯みたいなもんさ」
琴は冷ややかに阿部を一瞥したのち、柳太郎に向き直った。
「例えはともかく、キリがないのは事実だ」
「そんな…」




