留守中の出来事 其之弐
琴は、逃げだしたクロの後を追うように台所へ入っていくと、背を向けて酸菜の葉を刻んでいた八木家の奥方、雅に声をかけた。
「楠です。土方さんに仰せつかって、台所の手伝いに来ました」
雅は笑顔で振り返って、手を横に振った。
「あら、そない気い使わんといておくれやす。今は人も少ないさかい、お番菜(惣菜)の準備くらいやったら、一人で充分やし…これ、クロ。お昼ご飯はまだえ!」
クロは並んで立つ雅と琴の間に、ちょこんと腰を下ろした。
「とにかく、しばらくは我々が手伝います。今はヒマでも、そのうち、手が足りなくなって他の女中が雇われたら、お祐さんの戻る席がなくなるでしょ」
「アホな。そないしょうもないこと心配したはったんどすか?」
「土方さんがね」
雅は包丁を持つ手をふと止めて、小さく微笑んだ。
「…優しいおひとどすなあ」
「そんなこと言うのは、奥様だけですよ」
琴は軽く受け流して、手を洗い、ふと顔を上げると、雅がじっとこちらを見つめている。
「貴方はんのお顔…どっかで見覚えおすなあ。先にも会いましたやろか?」
「さあ?こんな顔なら、そこら辺に一杯いますから」
琴は視線を避けるように背を向けて、柄杓を水瓶に戻した。
「いややし。こない綺麗なお侍さまが仰山おったら、歌舞伎役者は上がったりどす」
雅はコロコロと笑ったあと、ふと沈んだ表情になって、
「…お祐ちゃん、そない悪いんやろか?」
と独り言のようにポツリと漏らした。
「気になりますか」
「…ええ子やさかい。一目だけでも会いとおすけど、お見舞いに行ってええもんやら」
琴は、手にした包丁で、笊に載ったかぼちゃを指した。
「コレ、角切りに?」
「え?あ、ああ!ええ。おおきに」
「傷の方は、だいぶ良いようで、もう起き上がれるみたいですよ。ただ、頭を打ったせいか、自分の名前も思い出せないみたいで」
「そうどすか…」
雅があまりに気落ちしているので、琴は同情して、
「近いんだし、会いに行かれては?少しなら、私が火の番をしてますから」
と勧めた。
「そうどすなあ。こんなとこで心配しとっても栓ないし、ほな、ちょっと此処お願いしてよろしおすか?」
「もちろん。どうぞ」
雅はにっこりと頷いて廊下に出たかと思うと、また引き返してきて暖簾からひょいと顔をのぞかせた。
「あと、そのカボチャ、強い(硬い)さかい気いつけよし」
そう言い置いて、イソイソと出掛けて行った。
さて、琴がかぼちゃと格闘していると、ふと、背中に気配を感じた。
振り返りざま、反射的に上り框に包丁を突き立てると、そこには武田観柳斎が立っていた。
「足音を立てずに、背後に立つのは止してもらおう」
武田は、足の間に刺さっている包丁を見ながら、しなりと口元を押さえて顔をしかめた。
隣には、背中の毛を逆立てたクロがつま先立ちしている。
「あらやだ、恐いわねえ。そんなに殺気立たなくても」
「フーッ!」
クロも同意の唸り声をあげた。
「…皆あなたのことを、男色家だと言ってるからな」
琴は床から包丁を引っこ抜いて、再びかぼちゃに向き合った。
花君太夫の一件以来、艶めいた行動には殊に過敏になっている。
「ええ。その噂は否定しない。けど、だからなに?あたしは、別に男漁りのために浪士組に入ったわけじゃない」
武田は平然と応えた。
「待った。まだ加盟を認められてもないはず。母屋の中を、ウロついてていいのか?」
武田は、まだ推挙を取りつけておらず、したがって正式な隊士ではない。
こんな目立つ風体で、屯所の中を歩き回るなど、不注意にもほどがあるだろう。
「隊士たちには、昨晩のうちに私が新しい副長助勤に就くって伝えてある。だって、留守を預かる以上、踏まなきゃならない手順でしょ?」
「だが、推挙は、まだだと…」
「その件なら、順調に進んでるとだけ答えとくわ。つまり私が幹部になるのはもう決まってるんだから、同じことよ」
琴は、飽きれるやら感心するやら、言い返す言葉が見つからなかった。
武田はクロを抱き上げると、急に話題を変えた。
「そう言えば、あなたさっき、あの馬越って坊やと仲良さそうに喋ってたじゃない?」
ゴトン!と俎板が音を立てて、かぼちゃが真っ二つに切れた。
「そう見えた?本当に?」
琴は器用にヘタを切り落としながら、ウンザリして答えた。
「あの子、あたしに連れないのよ。やんなっちゃう」
「男漁りが目的じゃないんだろ?なら、必要以上に隊士とは関わらないことだ」
「分かってないわねえ。色恋に現を抜かすのと、生涯の伴侶を見つけるのは、また別の話なの。良縁と色ごとは分けて考えなさい」
釘を刺すつもりが、逆に面倒くさい説教が始まってしまった。
「その手の話題は苦手だ」
「男色家はね、『いい縁談があるのよ』なんて話が舞い込むことなんてないの。少々強引に行かなきゃ、独り身のまま死ぬことになる。あんたもさ、ちょっとくらい見た目がいいからって、悠長に構えてたら、あっという間にババアになっちゃうわよ?」
四つ切りにしたかぼちゃのワタを掻き出していた手が止まる。
武田は琴が女であることを見抜いていた。
「…どうして?」
武田は、クロの背中を撫でながら、その曖昧な問いに、フンと鼻を鳴らした。
「あたしが気づかないと思った?ニセモノなんて、すぐ分かるわ」
「さすが、って言うべき?」
「つまり、あたしたちは似たもの同士ってことよ。ま、よろしくね…あんた、本当の名前は?」
もう隠し立てしても、仕方がない。




